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音楽家と歴史・社会 -33: 新しいタンゴを産んだピアソラの音楽世界

主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。
今回は、アルゼンチン出身の作曲家兼バンドネオン奏者のアストル・ピアソラ(1921-1992)(以下「ピアソラ」)の作品を通して、アメリカ大陸の音楽に関する考察を試みます。

2024年6月7日夜、めぐろパーシモンホールにて、屋敷華のピアノ・リサイタル「ピアノで綴る世界旅行」を鑑賞した。屋敷華は、幼少時代から、ピアノや作曲に才能を示し、クラシックだけでなく、ジャズ、タンゴ、スカなどのジャンルを超えた演奏、さらに特殊メイクアーティストとしても知られる。アメリカ大陸の曲として、ピアソラとガーシュインの楽曲を弾いてくれたが、MCでは専らピアソラの話を中心にして、聴衆を楽しませてくれた。
もともと、ピアソラには関心があったので、彼の経歴や私の好きな曲等について、以下思うままに書いてみたい。

インターネットで調べて驚いたことに、ピアソラは、帰国子女であった。
1921年、アルゼンチンのマル・デル・プラタ市でイタリア系三世として生まれたピアソラは、4歳のとき、家族でアメリカのニューヨーク市に移住し、15歳まで暮らした。8歳の誕生日に中古のバンドネオン音楽を買ってもらって、上手に演奏したことを契機に、9歳から音楽の教育を受け始めたらしい。1920年代の狂騒のジャズ・エイジが終焉を迎えた直後ではあったが、幼少期のピアソラは既にジャズに馴染んでいたようだ。1932年に処女作「42番街に向けて着実に」を作曲した。

1936年、家族は再び、アルゼンチンに戻る。ほどなく、ピアソラは、ダンス音楽であるタンゴにのめり込んだ。1939年、タンゴの楽団に入り、バンドネオン奏者として活躍し、音楽理論を学んだ。
1950年代に入り、ピアソラは次第に、従来のタンゴに限界を感じる。意を決して、クラシック音楽の作曲家を目指し、フランスに留学し、ナディア・ブーランジェに師事した。
しかし、ナディアは、ピアソラに対して「あなたは決してタンゴを捨ててはいけない」と言い放った。
1955年、ピアソラは、アルゼンチンに帰国して、タンゴの革命を起こす。具体的には、エレキギターを取り入れたブエノスアイレス八重奏団を結成し、前衛的なタンゴを演奏する。ダンスの伴奏ではなく、音楽としての芸術性を高めようとしたのだ。

屋敷華によると、ピアソラは、保守的なタンゴファンから何度も命を狙われたとのこと。前衛的なタンゴ楽団も上手くいかず、いくつかのアルバムを録音しつつ、ニューヨークとブエノスアイレスの間を行き来した。
1959年、父(愛称:ノニーニ)の死に捧げた「アディオス・ノニーノ」を発表すると、アルゼンチンにおいて評判となり、様々な編曲及び録音がなされた。屋敷華によると、日本で最も有名なピアソラの楽曲は、サントリーウイスキー「ローヤル12年」のコマーシャルフィルム(1998年から放映)でヨーヨーマが演奏した「リベルタンゴ」だが、アルゼンチンでは、「アディオス・ノニーノ」が最も愛されているそうだ。

1960~1970年代、ピアソラは、理想的な楽器の編成を模索し、八重奏団、九重奏団、五重奏団、六重奏団を率いるとともに、様々な名曲を発表する。例えば、以下の通り。
 ーブエノスアイレスの四季  
 ー五重奏のためのコンチェルト
 ーバンドネオン協奏曲
 ービジュージャ
 ーエスクアロ(鮫)
 ー天使の組曲
 ー悪魔の組曲  など

1974年、ファン・ペロン大統領の独裁政権に嫌気がさしてかイタリアに移住後も、傑作を量産した。上記「リベルタンゴ」がそれにあたるが、私は個人的に好きな曲は、「アヴェ・マリア」だ。
本曲は、1984年、イタリアの巨匠マルコ・ベロッキオ(1939-)が作った映画「エンリコ4世」の中で、オーボエとピアノのために書かれた「Tanti Anni Prima(昔々)」のメロディに、「アヴェ・マリア」の歌詞をつけたものである。(ちなみに、この映画音楽では「オブリビオン」も有名)
私が、ピアソラの「アヴェ・マリア」を初めて聴いたのはフルート用編曲。バス・フルート奏者として著名な渡瀬英彦氏による、魂を揺さぶる演奏に感動した🎵

ピアソラは、1990年、パリの自宅で倒れ、大統領専用機でアルゼンチンに帰国し、闘病生活に入った。1992年、ブエノスアイレスの病院にて71歳で逝去。
タンゴというダンス音楽を、クラシック音楽その他と融和させたピアソラは、アルゼンチンとアメリカ合衆国等から構成される南北アメリカ大陸の新しい音楽を作りあげた芸術家と言ってもよいだろう。

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