音楽家と歴史・社会 -1: スクリャービンの音楽世界
好きな曲や音楽家にまつわる歴史、社会等について書いていきます♪ 初回は、ロシアの作曲家のアレクサンドル・スクリャービン (1872年1月6日 - 1915年4月27日)についてです。
今年10月、新宿フィルハーモニー管弦楽団(アマチュア)の定期演奏会で、スクリャービン「ピアノ協奏曲嬰ヘ短調」を初めて聴いた。一瞬、映画「砂の器」のテーマ曲かと思った。ロマンチックなメロディで劇的!ピアニストも超絶技巧が必要とされる。
スクリャービンは、神秘的な交響曲第4番「法悦の詩」で有名だが、最近、ピアノ曲の演奏を聴く機会が多い。調べてみると、ピアニストとしても有名で、作曲の大半が、ピアノソナタや練習曲などである。若い頃には、ショパンやリストに傾倒していたらしい。
スクリャービン は、モスクワの小貴族の家系に生まれ、幼少期からピアノを弾き、1888年、正式にモスクワ音楽院に入学した。同期生には、セルゲイ・ラフマニノフがいた。卒業試験では、ラフマニノフが1位、スクリャービンが2位となった。
身長が2メートルに近いラフマニノフに比べて、スクリャービンは小柄で手が小さかった。にもかかわらず、超絶技巧の練習をしすぎたため、右手首を痛め、作曲家に転向する。
1897年に改宗ユダヤ人女性と結婚し、長女エレナが生まれる。エレナは、1920年、後にソビエト連邦で最高のピアニストとなるウラディーミル・ソフロニツキーと結婚する。ソフロニツキーは、スクリャービンの正統な解釈者として有名。1945年のポツダム会談において、スターリンの指示により、連合国の指導者に演奏を披露した。
話を1900年頃に戻す。私が聴いた「ピアノ協奏曲嬰ヘ短調」は、1898年に作曲された。ロシア音楽というよりは、ロマン派音楽の拡張と言ってよいだろう。
スクリャービンは、モスクワ音楽院のピアノ科の教授として地位を築いていたのだが、フリードリヒ・ニーチェの超人思想に共鳴していく。そして、1902年、モスクワ音楽院を退職し、愛人を作って家庭を捨てる!ロシアを脱出して、スイス、ブリュッセルなど西欧を転々とし、神秘主義的な作曲に没頭する。交響曲第4番「法悦の詩」と第5番「プロメテ - 火の詩」は単一の楽章だけで個性的である。
ロマン派から、前衛音楽的な作曲家に変貌したスクリャービンは、1910年にロシアに帰国し、作曲のかたわら精力的な演奏活動に取り組む。
ラフマニノフの指揮で自ら「ピアノ協奏曲嬰ヘ短調」を演奏した。この二人の学生時代からの関係は、けっして悪いものではなかった。
他方、帝政ロシアが西欧諸国に追いつこうとする中、音楽界での流派の対立が、2人をライバルに仕立てたらしい。
1915年、スクリャービンは敗血症で死去するが、彼の生前には、革新的な作風がロシア音楽が西欧音楽を追い越そうとする象徴として期待されていた。他方、ラフマニノフは、ロシア(スラブ)の伝統を愛する音楽家から支持されていた。
現代においては、ラフマニノフの方が有名であり、そのピアノ協奏曲の演奏回数は、スクリャービン「ピアノ協奏曲嬰ヘ短調」より、二桁以上多いと思われる。いずれにせよ、今年はロシア音楽の演奏が激減しているが・・・。
ロシアの西欧に対する憧れとコンプレックスは、数百年変わっていないのかもしれない。音楽についても、色々な議論があるのだろう。
日本人は、西欧、ロシアなどにこだわらず、純粋に美しい音楽を楽しめばよいと思うが、戦乱下のウクライナ、周辺国の音楽を聴いてみてはどうだろうか。
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