「誇り」と「美意識」に殺されないために

「悪辣」であるかないかを区分するまえに

 過日、CSで瀬々敬久監督の『護られなかった者たちへ』(2021年)を観直す機会があった。

 中山七里のミステリ小説を原作とするこの映画は、ある連続殺人事件の真相をめぐる物語に、東日本大震災がもたらした惨禍や生活保護制度など現実の社会状況を巧みに織り込んだ作品で、僕は2021年度キネマ旬報ベスト・テンの第6位に選出し、「週刊文春シネマ」2021秋号では瀬々監督にインタビュー取材もおこなっている。

 そうして近年の力作であることを認めつつ、公開時から引っかかっていた点がある。それは千原せいじ演じる生活保護不正受給者の描写だ。
 この国枝という男は、利き腕が不自由で就労できないと虚偽の申請をして保護費を受給し、その金で高級車を購入、それを指摘したケースワーカー円山(清原果耶)の胸ぐらをつかんで恫喝するという、まさしく絵に描いたように悪辣な不正受給者である。
 この映画は、生活保護を受給してしかるべき状況にあるにもかかわらず、制度的な欠陥と運用の不備によってそこからこぼれ落ちてしまう「護られなかった者たち」の怒りや悲しみにフォーカスしており、申請者の親族に援助の可否を確認する扶養照会(これについては映画の公開前に運用変更が実施されたが、依然として恣意的な運用の事例が多々見られる)や申請を思いとどまらせようとする役所側の「水際作戦」の問題点なども描かれている。全体として生活保護受給者を貶める意図がないことは明白だ。
 実際、この国枝の場面の直前には、シングルマザーの渡嘉敷(内田慈)が娘を学習塾に通わせてやりたいからと、うつ病で生活保護を受給しながらもスーパーで働き、その事実を役所に報告しなかったことで結果的に不正受給になってしまう、という悪辣でない不正受給者のケースが描かれ、国枝のケースと対照をなす形となる。
 ちなみに中山七里の原作小説と映画をくらべてみると、原作では国枝はヤクザから足を洗ったと申告しているが実際にはまだ暴力団の構成員であるという設定で、つまりそもそも保護受給の対象外であるにもかかわらず虚偽の申請が通ってしまい、円山(原作では男性)が「もう後の祭りですよ」と嘆息する描写がある。映画では国枝がヤクザであるという明確な描写はない。また、原作では主人公・利根(映画では佐藤健が演じる)とヤクザとのかかわりが描かれるが、この部分も映画では省かれている。
 安直に「正当な」受給者と「不正な」受給者の対比にしていない点は周到であり(仮に国枝をめぐる描写がなかったら、それこそ「この描き方は公平でない」と批判が寄せられたかもしれない)、国枝をヤクザと設定していない点もこの映画の尺のなかで描き切れる限界を考えたら妥当であると思う(この点を突っ込んで描こうとすると、ヤクザによる生活保護ビジネスの実態や社会的包摂の外にいる存在としてのヤクザといった問題に切り込んでいかざるをえない)。

 だが、そうしたことを考慮に入れたうえでなおこの一連の描写は危ういと感じる。
 まずここまであからさまに「悪辣」に描く必要があったのかという表現上のステレオタイプ、程度問題もあるが、それ以前に、この映画が問うてもいる生活保護制度をめぐる現状――そもそも不正受給よりも捕捉率(利用率)の低さのほうがはるかに深刻な問題だ――が改善されるより先に、受給者側の「善悪」をことさら強調するのは生活保護受給者全般への不信感を煽り、分断を押し進めることにつながりはしないか、という危惧である。
 実際、ネット上でこの映画の感想を調べてみると、「そもそも不正受給者がいるからこんなことになるのだ」「不正受給者がいるせいで、本来保護を受けるべき人間に給付が行き届いていない。不正受給者はもっと厳しく取り締まるべき」という感想が散見される。
 これらはきわめて素朴な感想だが、いわゆる生活保護バッシングの根っこには、じつはこうした素朴な市民感情があることは軽視できない。
 繰り返すが、この映画は、制度じたいの問題点――窓口となる役所の人間の立場やその背後にある国家の方針などふくめ――にかなりしっかりと踏み込んだ力作だ。しかし、先述した一連の描写は、「善い生活保護受給者」と「悪い生活保護受給者」を区分し、悪い受給者は排除・糾弾せよという短絡的な主張を呼びおこす危険性をはらんでいる。それは根本的な問題を覆い隠し、先送りさせることにつながりかねない。
 こういう作品が現在の日本映画のメジャーでつくられることの意義を十二分に認めるからこそ、そこには相応の慎重さが求められると思う。

ビートたけしが説く「恥の感情」の尊さ

 さて、映画を再見して、そんなことを考えるうちに、僕はビートたけしのことばを思い出していた。
 漫才ブームが下火になり始めた頃に生まれ、「オレたちひょうきん族」の後期に裏番組の「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」を夢中で観ていた僕が、ビートたけしに「ハマった」きっかけは、北野武名義で撮った映画……ではなく、その「毒舌コラム」だった。中学生のとき、新潮文庫に収められた『だから私は嫌われる』などのコラム集を集中的に読み、自身の領分である笑芸のみならず政治、哲学、人間論を縦横に語る彼ならではの舌鋒鋭い「芸文」に魅了された(ちなみに、これらのコラムは本人の筆ではなく口述筆記によるものである)。
 しかし、ある時期から僕はたけし氏のコラムに違和感をおぼえるようになり、さらにある時期からははっきり読むのがつらくなった。

 『護られなかった者たちへ』を観直した僕は、かつてビートたけしのコラムに抱いた違和感の正体とあらためて向き合うべく、比較的最近のコラム集にまとめて目を通した。
 つらかった。
 たとえば以下のような主張。

 親なら、話してわからない子供を殴ったっていい。(中略)子供は、どこかでガツンとやってやらないとトコトンつけあがる生き物だ。この世には、自分の思い通りにならない恐ろしい存在があるということを、子供のうちから身に染みて覚えさせなきゃいけない。それは親、特に父親の役割だ。
 (中略)教師や指導者のゲンコツが、教育のためなのか、それとも単なる暴力なのか。それを本質的に見極める能力を、子供たちは持ってる。自分がガキの頃を思い返しても、そうだと思うね。

(ビートたけし『「さみしさ」の研究』小学館新書)

 こうした紋切り型の父権制信奉にもとづく体罰擁護論(かつて、たけし氏は戸塚ヨットスクールの戸塚宏の教育にシンパシーを示し、自身のバラエティ番組にも呼んでいた)や、少年法批判、国会デモ批判(『テレビじゃ言えない』小学館新書)は相変わらずといえば相変わらずだが、良くも悪くもかつての勢いが落ちているぶん、きつい原液を薄めに薄めた蒸留酒を飲まされているような虚しい気分になる。

 ゲンナリしながらも読み進めていくと、『ヒンシュクの達人』(小学館新書)の第3章で、「芸人の生活保護問題を考える」という小見出しのついた一節に行き当たった。
 ここでたけし氏は、売れっ子芸人の母親が生活保護を受給していたという一時期メディアで騒がれていた件に触れ、以下のような持論を述べる。

 オイラがガキだった時代は、社会全体が今より相当貧しかったはずだけど、「生活保護を受ける」っていうことそのものが、ものすごく恥ずかしいことだという印象で、なんとかそれだけは避けようって必死にもがいてたんだよ。
 仕方がなく生活保護を受けてる家だって、それをおおっぴらには口外しなかったし、周りの家も気を遣って触れないようにしてた。なのに最近は「もらえるもんはもらっとかなきゃ損だろ」って話になっちまってる気がするんだよね。
 もちろん病気だったり、どうしても働くことができない事情がある人は堂々と生活保護を受ければいい。それをオイラは否定しないし、にっちもさっちも生活が立ちゆかなくなってしまった人のためにぜひ活用されるべきだと思う。
 でも、「働けるのに働かない」ってヤツが生活保護をもらうのはどう考えたっておかしい。もらうことがいいか悪いかという議論の前に、それは「恥ずかしい」ことだ。そういう恥の感情が失われちまったことが、そもそもの問題じゃないかって思うけどね。

(ビートたけし『ヒンシュクの達人』小学館新書)

 この文章がクセモノなのは、「にっちもさっちも生活が立ちゆかなくなってしまった人のためにぜひ活用されるべき」というくだりで、ここだけ読むとたけし氏は生活保護制度そのものを否定しているわけではなく、「正当な」場合には積極的に活用すべきであると主張していることになる。
 しかし奇妙なのは、その前段で「にっちもさっちも生活が立ちゆかなくなってしまった人」、つまり「仕方がなく生活保護を受けてる」世帯について、「それをおおっぴらには口外しなかったし、周りの家も気を遣って触れないようにしてた」という「オイラがガキだった時代」のエピソードを持ち出し、「生活保護を受けることは恥ずかしい」あるいは「恥ずかしいと思うのが当然の感覚だ」という前提で話を進めていることだ。そのあとで「『働けるのに働かない』ってヤツが生活保護をもらうのはどう考えたっておかしい」と対象を限定してみせているものの、前段の時点で、生活保護を受けることを「恥ずかしい」と思う感覚こそが尊いのだ、という本音が露呈してしまっている。

 しかも、このあと氏は、生活保護バッシングをする人間がよくつかう「ナマポ」というネットスラングをわざわざもちいて、こう主張する。

 厳しい現実に直面した若者にとっちゃ、ナマポってのは格好の逃げ道でさ。
 アメリカ流の夢至上主義が浸透しちまった影響かもしれないけど、いつの間にかニッポン中に「仕事は楽しまなきゃいけない」「自分らしくイキイキと働かなきゃいけない」という幻想がはびこっちまってさ。そんな甘~い現実なんて、実際にはありもしないのに、ちょっとうまくいかなくなると「これは本当の自分じゃない」とか言って、自分の殻に閉じこもってしまう若者が増えちまった。
 そうなると「なにもしないで寝てたほうがいい」ってナマポにたかる人間が出てくるのもトーゼンだよ。だって、楽だもん。

(ビートたけし『ヒンシュクの達人』小学館新書)

 なるほど、たけし氏は結局、「選ばなければいくらでも仕事はあるのに、『自分らしく働きたい』などと夢みたいなことを言って働かない若者」というステレオタイプなイメージをたよりにカビの生えた「だめな若者批判」を展開したかっただけなのだ。これのどこが「その言葉は常に人々を頷かせる説得力を持っている」(カバー折り返しの煽り文)のか理解に苦しむが、しかし考えてみると、この氏の主張はある種の素朴な市民感情の代弁と言えるかもしれない。
 たけし氏は、「芸人ってのは『とんでもないヤツだ』『非常識極まりない』と言われているうちが華で、『意外とマトモなこと言ってるじゃないか』『マジメな普通のヤツだな』なんて評価されるようになっちゃ終わりだよ」(『コロナとバカ』小学館新書)という芸人哲学を語り、世間もまた「ヒンシュク」を買うことを恐れず、歯に衣着せぬ物言いで世間の欺瞞を突く芸人としてビートたけしを認識してきたはずだが、こうしてあらためて見ると、その主張は鬱積した市民感情の典型なのである。

生存権すら脅かす「遠慮圧力」

 たけし氏が「尊敬するひと」としてたびたび名前を挙げる人物に作家の伊集院静がいる。
 その伊集院氏が、こんなエッセイを書いている。

 私の父は、「人に物乞いをしたら、もう廃人と同じだ」と言っていました。
 (中略)ある日、さあ出かけようという時に、近所にいた物乞いが母親に向かって、「奥さま、先日はありがとうございました」と言うのです。その瞬間、父は顔を真っ赤にして怒りだし、その物乞いに近づいていって肩を揺さぶりながら言いました。
「どうしたお前、ちゃんと二本の足で立ってるじゃないか、自分で動けるじゃないか。だったら働け!」
 そして母に向かってさらに怒鳴った。
「こいつに何をやったんだ? モノをやったのか。自分で働こうとしないやつにモノをやるから、いつまでたっても物乞いし続けるんだ。それは人間として一番卑怯なやり方なんだ。二度とするな!」
 その光景を思い出すと、頭も身体も人並みに動かせるのに働かない若者も、年金が少ないだの言っている老人も、国家に物乞いをしているように見えてきます。
 怠けることをよしとし、物乞いに与え続けるような国家はやがて潰れるしかありません。

(伊集院静『無頼のススメ』新潮新書)

 この伊集院氏の人間観は、たけし氏とそっくりである。
 たけし氏も伊集院氏も、「働けるのに働かない」人間に対してひどく冷酷だが、「自分の殻に閉じこもってしまう若者」「卑しい物乞い」という短絡的なイメージをあげつらうばかりで、個々人がかかえる「働けない」内実の多様さ、複雑さには一向に洞察が及ばない。
 伊集院氏は一見リベラルな論調で知られるが、こういうときに「国家」ということばがさらっと出てくることにも僕は居心地の悪さをおぼえる。
 そういえば、たけし氏はしばしば「国の世話になんかなりたくない」と言う老人を気骨のある日本人の代表として賛美し、「いまの世の中、そういう老人は少なくなった」と嘆いてみせるが、こうした「誇り高き精神」の無条件な礼賛は、強者の論理を正当化し後押しするマチスモ的な社会論・国家論とじつは表裏一体である。

 『護られなかった者たちへ』に話を戻すと、劇中で円山が訪ねる人物のなかに佐々木という老人がいる。佐々木は生活保護を申請するよう促す円山に向かって「世間様に迷惑をかけてるようで、申し訳なくて」としぶる。
 おそらくたけし氏や伊集院氏が称揚するのは、こういう老人なのだろう。生活保護を受けることを「恥ずかしい」と感じ、保護を申請するにしても「世間様に迷惑をかけてる」「申し訳ない」という気持ちで臨む――そのような人間だけが彼らにとっての「護られる」べき弱者なのである。
 だいたい「国家に物乞い」「国の世話」と彼らは言うけれど、困窮者支援にせよ、老人介護にせよ、現在の日本社会においては、国が弱者を支えるしくみが充分に機能しえず、弱者が弱者を支えているのが実情ではないか。

 『護られなかった者たちへ』はまさしくそのような弱者共同体を描いているが、その中心にいる遠島けい(倍賞美津子)は、困窮の様子を見かねて生活保護を申請するよう勧める利根に「いくらじぶんの生活が苦しくなったからって、国に面倒みてもらいたくねえ」と返す。
 原作小説ではこの部分はよりストレートだ。

「でもさ、他人様が納めたおカネが生活保護に回ってんだろ。今まで保険料も碌に払えなかったあたしが、今更自分が苦しくなったからお国に面倒見てもらうなんて、ムシがよすぎるような気がするんだよ」
「(中略)一端の義務も果たしていないのに権利だけ寄越せっていうのも、何か違うような気がするんだよねえ」

(中山七里『護られなかった者たちへ』宝島社文庫)

 このことばの背後には、国が国民に対して「義務と権利はワンセット」という概念を植えつけてきた現実がある。義務を果たさなければ権利は得られない、という刷り込みは人間のもっとも根元的な権利、すなわち生存権までも脅かしかねない。
 障害者文化論の研究者である荒井裕樹は、このような状況を「遠慮圧力」の蔓延であると指摘する。

 世の中には、「死に至る遠慮」があるし、「死へと導く遠慮圧力」がある。(中略)
「みんな、それなりに遠慮しているのだから、障害者も弱者なんていう言葉にあぐらをかかず、もっと遠慮するべきだ」
 いまでも、こうした意見を持つ人がいる。ネットにも、同様の書き込みはよく見られる。
 でも、この世の「遠慮圧力」は、みんなに等しく均一にかかっているわけではない。やはり、どこかで、誰かに、重くのしかかっている。

(荒井裕樹『まとまらない言葉を生きる』柏書房)

「美意識」の落とし穴

 いろいろ書いてきたが、僕も偉そうなことは言えない。前述したように、かつては僕もこうしたビートたけしの「毒舌コラム」にある程度同意しながら読んでいたのだから。
 それはなぜなのかと振り返ってみると、中学生の頃の僕には、じぶんもまた社会的弱者になりうるという想像力が圧倒的に不足していたからだ。じぶんの人生はじぶんの力で切り拓く、途中で倒れたらそれがじぶんの限界だったということ、絶対に国の世話になどなるものか、と青臭い虚勢を張っていたのである。もっと正確に言えば、本来的には非力で内気な子どもだったために、たけし氏の「無頼」を装った主張に共鳴することで、そうしたじぶんのナイーブさから目を逸らそうとしていたのだろう。
 僕は同時期にアメリカン・ニューシネマの作品群が描き出す「敗けていく者たち」の姿に心揺さぶられ、学校内のマチスモ的共同体にもはっきりと嫌悪感を抱いていたが、そんな子どもであるにもかかわらず、いや、そんな子どもだったからこそ、「誇り」や「美意識」という鎧をまとい、自我を守ろうとしていたのだ。

 たけし氏と同世代で、やはり僕が(こちらは現在に至るまで)愛読しているコラムニストに中野翠がいる。
 その中野氏が、是枝裕和監督の『万引き家族』(2018年)について、こんなことを書いている。

 ほんと、上出来の映画。そのことは認めつつも、正直言って、私は、時にイラついたり、ゲンナリしたりもしてしまったのだ。
 ひとは笑うかもしれないけれど、映画の中の家族が暮らしている家(ビルのはざまの老朽化した日本家屋)の中のたたずまいがゴミ屋敷寸前状態であることに、私は耐えられなかったのだ。(中略)
 日本の昔のビンボー家庭の多くは、わずかな物をたいせつに使うしかなく、それ故、(うまくすれば)質素の美と言えなくもない風情もあったのだけれど、今のビンボーは、百円ショップだのリサイクル店だのパブリシティ物だのの中で、よっぽどハッキリした美意識が無いと、物で氾濫してしまうのだ(映画の一家では、もちろん盗品も)。
 そういう意味でリアルな部屋ではあるけれど……たいせつにされない、つまり愛のない物でいっぱいの状態。それは、やっぱり美しいものではないだろう。
 ――というわけで、私はこの一家の人びとに対して、もうひとつ、やさしい気持になれなかったのだ。
 (中略)私としては、時に「家族愛というよりもモタレ合いなんじゃないの?」と思わぬでもなかったのだけれど……そう思ってしまうのは、ごく普通の家庭に育った身ゆえに、家族のありがたみを特に意識することもなかったせいかもしれない。よくわからない。

(中野翠『ズレてる、私! ? 平成最終通信』毎日新聞出版)

 ここで「よくわからない」と正直に書いてしまうところが中野翠であり、「わからない」なら書くなよ、と思うひともいるだろうが、コラムとはそういうものだろう。さらに、じぶんの視点に疑いがなく、すべてにおいて断定的なビートたけしのコラムにくらべると、この中野氏の筆致はさすがのバランス感覚だとも思う。
 しかし、それでも僕が考え込んでしまうのは、『万引き家族』のように社会秩序の外側で寄り合わなければ生きていけない弱者共同体に対しても、「美意識」をもつこと、「美しく」あることを要請してしまう心の動き――つまり、素朴な市民感情の攻撃性をここにも感じ取るからだ。
 この場合の「美意識」とは、ビートたけしの言う「恥の感覚」や伊集院静が好んでつかう「品格」「流儀」ということばとも通じるものがある。
 「美意識」や「恥の感覚」、「品格」「流儀」をもつことはひたすらに格好良く、賛美されるべきで、それをもたない者には「やさしい気持」など抱けない――なんとも酷薄な市民社会ではないか。
 誇りなんかなくても、美意識なんかなくても、命だけは護られる社会であってほしい。

※ここまでが本論だ。この文章の主旨は「ビートたけし論」ではないので、以上で僕の書きたいことはほぼ終わりなのだが、「ビートたけし論」として考えると書き足りていないと感じたので、以下は補足的に読んでいただけると幸いである。

「弱さ」の肯定へ

 ところで、たけし氏は周知のとおり1994年にバイク事故を起こし、九死に一生を得た経験をもつ。
 事故から復帰した直後に刊行されたコラム集『たけしの死ぬための生き方』(新潮文庫)をはじめ、氏は事故を境に自身の死生観が変化したことをたびたび語っている。同時に、事故の直前に撮られた監督作品『ソナチネ』(1993年)を観てもわかるように、もともと死に対しては特有のイメージを抱きつづけてきた「作家」でもある。
 僕もそれらの作品には感銘を受けてきた。しかし、どこか奇妙な違和感もあった。突きつめてみると、それは死をめぐる考察のなかに、ある種の自己神格化が見え隠れすることに起因している。
 もちろんひとは誰もみな多かれ少なかれ自己を神格化しながら生きている。それが自身の「誇り」となり、指針となる意味においては、むしろあってしかるべきものだ。しかし、誇りをもつことに酔いしれてしまったり、誇りのあるなしを軸に他者を裁定したりするようになったら、これほど恐ろしいことはない。

 近年のたけし氏のコラム集には、自身もその世代になったことで「老い」について書かれたものも多い。たとえば、監督作品『龍三と七人の子分たち』(2015年)の公開時には、映画の内容に触れながら、「(老人は)社会的には一方的に弱者と決めつけられちまうわけだけど、逆に考えれば、これほど怖いものなしの存在はない。守るものなんて何もないんだからね」(『テレビじゃ言えない』)と語り、老人は好き放題まわりに迷惑をかけまくって死ぬくらいがちょうどいい、と持論を述べている。
 これは一見すると高齢者世代への過激なエールととれるが、しかし介護や生活保護などの必要性に言及する段になると、「まァ、介護の問題とかを考えると『実際にはそんなに1人で強くは生きられない』って意見もありそうだけど、必要以上に子供に媚びたり手厚い援助をしても、キチンと面倒をみてくれるとは限らないんでね。やっぱり『不良老人』のほうが楽しいよ」とお茶を濁す感じになる。
 やはりたけし氏のなかには「国の世話になんかなりたくない」と言ってのける「誇り高き老人」への強いあこがれがあることがわかる。しかし同時に、ここまでの文脈をふまえて考えてみると、それはたけし氏の「弱さ」に対する恐れの裏返しではないかとも思えてくる。
 男性史の研究者・内田雅克は、近代国民国家としての日本が富国強兵・帝国拡大の道を歩む歴史的文脈において「『弱』に対する嫌悪と、『弱』と判定されてはならないという強迫観念」の存在を指摘し、これを「ウィークネス・フォビア」と呼んでいる。

 この歴史的経緯を念頭に置くと、生活保護を例に「恥の感覚」の尊さを説く態度も、父権制信奉にもとづく体罰擁護論も、「国の世話」を拒絶する「誇り高き老人=不良老人」賛美も、ある日本的文脈のなかで培われたものであることが明確になる。そして、前述のように僕もまたこの日本的文脈のしばりと当然ながら無縁でない。

 たけし氏は、バイク事故を境に「死に対する恐怖はなくなった」と語るが、おそらく「弱さに対する恐怖」は根強く持っているはずだ。
 しかし、それは「ウィークネス・フォビア」の生成メカニズムが本来そうであるように、たけし氏のなかに「弱さ」に対する自覚が息づいていることの逆説的証明でもある。
 思い返すと、僕がいちばん好きなビートたけしは、強靭さを装う虚勢のなかにふと「弱さ」を垣間見せる演技者としてのビートたけしなのだ。『戦場のメリークリスマス』(1983年、大島渚監督)でクリスマスの夜、酒に酔い、「私はファーゼル・クリスマスだ」と言って笑うハラ軍曹たけし。『教祖誕生』(1993年、天間敏宏監督)で対立する玉置浩二を刺殺してしまい、困惑したように「やっと神の影が見えたってことかな?」とつぶやく新興宗教の幹部たけし。『GONIN』(1995年、石井隆監督)で相棒の木村一八を殺され、雨の中、ターゲットを撃つことも忘れて号泣するヒットマンたけし――これらの素晴らしい演技は、少なからず氏自身がかかえる「弱さ」の表出ではなかったか。

 たけし氏はまた落語を原体験とする芸人でもある。
 立川談志の弟子としての顔を持ち、近年は立川談春の弟子として高座にも上がる。立川談志は落語を「業の肯定」であるとし、生涯、その芸の探求をもって人間の弱さを考察しつづけた。
 そして、たけし氏は、もっとも敬愛する落語家である五代目古今亭志ん生の姿勢に倣って、こう語っている。

体が悪かろうが、頭がボケてこようが、客前にだって出ると思うよ。(中略)ふらっと客前に出てきて、「たけしは出てくるだけで、なんか面白いな」と言われるところまでいけるか。

(ビートたけし『やっぱ志ん生だな!』フィルムアート社)

 ビートたけしが「誇り」や「美意識」ではなく「弱さ」をありのままにさらけだし、肯定することは、素朴な市民社会の価値観に小さくない影響をあたえると思うのだが……。

参考文献
中山七里『護られなかった者たちへ』宝島社文庫、2021年
ビートたけし『ヒンシュクの達人』小学館新書、2013年
ビートたけし『テレビじゃ言えない』小学館新書、2017年
ビートたけし『「さみしさ」の研究』小学館新書、2018年
ビートたけし『芸人と影』小学館新書、2019年
ビートたけし『コロナとバカ』小学館新書、2021年
ビートたけし『やっぱ志ん生だな!』フィルムアート社、2018年
伊集院静『無頼のススメ』新潮新書、2015年
中野翠『ズレてる、私! ? 平成最終通信』毎日新聞出版、2018年
荒井裕樹『まとまらない言葉を生きる』柏書房、2021年
内田雅克『大日本帝国の「少年」と「男性性」 少年少女雑誌に見る「ウィークネス・フォビア」』明石書店、2010年


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