モーリヤックと遠藤周作のイエスの生涯


私がイエスの生涯に興味を持ち始めたのはつい最近のことだ。

中西美絵シスターのヴェロニカについての文章がきっかけだった。
ヴェロニカはイエスが刑場に引き出されるまでの道中でイエスに唯一寄り添おうとした方だ。
私は彼女が書かれてあるかと思って期待してイエスの生涯の本を読み始めた。

残念ながらモーリヤックには数行ほどあり、遠藤周作にの作品には一言も触れていなかった。

それにしてもなぜイエスの母マリアは イエスを呼び止めなかったのだろうか?

ところで、
モーリヤックは イエスから見た世界を語っている。
そのためかイエスに対して敬語が使われていない。
又時にはイエスらしからぬ思いや表現をしている。弟子たちが自分の真意をわからずじまいにいることへのいらだちに表現などがそれである。

そして、捕らえられて刑場まででのみじめなほどまでの描写はイエスから見た支店といえばそれまでだが、私たちにには勅使できないほどの無残で残酷な周囲の人々の対応が描かれている。

にもかかわらず、彼のイエスの生涯は忘れられない作品になりそうな予感もある。

それは亡くなられる間際の両サイドの政治犯たちの会話だ。

死刑囚としてして死ぬ直前、一人は「キリストなら自分自身と私たちを救え」と言う。するともう一人が、「この方には何の不善もない。」といい、イエスを信じ、イエスに向かって「主よ(イエスよ)御国に入りなさるとき私を覚えておいてください」といった。

これまでイエスはすべての人に裏切られ、最後まで残った12人の弟子たちにも、まずはユダにそして死刑が確定し捕らわれる時は、11人の弟子たちに裏切られた。
11人はイエスを置いてみな離散した。

そうした中で、イエスを信じるといった隣の十字架にかけられた政治犯に対して、「あなたは私と共に天国におるだろう」と答えた。

弟子ではなく、一緒に処刑される隣の政治犯が天国行の切符を持っているというどんでん返しはなかなか忘れられるものではない。

遠藤周作の「イエスの生涯」は、

彼はみんなの期待し夢見た現実のユダの国でもなければ、病人が健康な体を、空腹の者たちが望むパンを、実際に与える者ではなくただただ神の愛を伝えるため生きたと表現している。

苦渋に満ちた一生は純粋にただ愛のためだったというのだ。

そして、いったんはイエスを見捨てた弱い弟子たちが、彼の死後急に強くなった理由は、彼らがイエスの本当に伝えたかった愛について、感得したからだという。

イエスが自分を裏切った弟子たちに対して「主よ、彼らをお許しください。彼らはただ知らなかっただけなのです。」と祈ったと人づてに弟子たちが聞いたからだというのだ。

今までにこのような人に会ったことがなかったのではと遠藤は言う。

イエスという方はそのような方で会ったろうことは疑いない。でもそれだけで弱かった弟子たちが、イエスと同じように殉教をとげるほど強くなれるはずはないとも遠藤は考える。

それについての詳しい回答は「キリストの誕生」という本に詳しく書かれているらしい。

イエスの生涯の物語でいくつもの奇跡が語られているが、一番大きな奇跡はこの弱かった弟子たちが殉教できるまで強くなったことなのないだろうか?

人は変われる。

どんな弱い人でも強くなれる。

愛を知れば・・・

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