ZARU

 海面下5mの座標に開けてやった時空ホールに次々とゴミが吸い込まれていく。ゴミは水面に隙間なく浮遊しており、日の光がほとんど差し込まない海中からだとホールに群がる不気味な魚影に見えた。
 「そうだ、いけ、いっちまえ」
 先輩はドクから禁止されたビールをやりながらスクリーンの前で毒づいている。僕は後ろでヨーグルトをスプーンでつつきながらいつものくせで浅く息を吐いた。
 
 「それ、その浅い呼吸、ストレスだよ」
 ドクがそう言ってほほ笑んだのは1週間前。業務終了間近で唐突に襲われた尻の痛みに僕は医務室に駆け込んだ。その痛みときたら。誰かが僕の尻の、一番デリケートな部分からさらに1mm左にずらしたピンポイントを狙って短針銃を打ち込んだような。最後には座ってられなくなって腰を半分浮かして巡視艇のコンソールを操作するはめになってしまった。それを見た先輩に軟弱者と鼻で笑われたがその頃には反論する気力もなく僕は歯を食いしばるだけだった。
 僕と先輩はとある時空旅行会社の品質管理部門に勤めており、会社が国連の「時空移動に関する監査委員会」に提出する保証レポートを作っている。つまり、会社のアホ企画部がしょうもない知性を雑巾絞りして思いついた限りなくつまらないタイムトラベルツアーがタイムパラドクスを引き起こしてないか延々と時空をさかのぼっては定点観測してチェックマークを入れる作業をしている。国連の定めるところの商業利用可能区分43億年前から地球全土に渡る定点観測。僕と先輩のほかに9組のチームがチェックマークを入れるためだけに1日ノルマ千回ほど時空を行き来している。
 この特殊な労働環境がとうとう僕の身体を蝕み始めたのだ。どうにか痛みをこらえるために中途半端なスクワットの姿勢のまま、すり足歩行で医務室に向かう道すがら僕が考えていたのはそんなことだ。巡視艇の換気機能がとうとう壊れて(もしくはそんなものは元々なくて)太古のヤバい細菌が僕の身体に入り込んだか、もっとシンプルに時空ホールを通る時にかかる力場が内臓に悪しき影響を与えていたとか、とにかくこれは会社のせいなのだ。
 それなのにだ。
 「それ、その浅い呼吸、ストレスだよ」
 ドクはそう言って微笑み、僕の精神が脆弱なせいで、つまるところストレスが原因で痔になったのだと講釈を垂れたのだ。僕の業務内容については一切触れずにだ。
 痔。は?って感じだ。ドク、あなたは産業医だろ?
 その講釈を聞いている最中に先輩が青い顔をして医務室に入ってきた。変に腰を浮かした妙な姿勢で。
 「ドク、今日は三千年前あたりに行ってたんだけど、こりゃ多分大昔の感染症だ。ちょっと自分じゃ見えづらいとこなんでドクに診察してほしいだけど」
 一気にまくしたてながら先輩はとなりの区切りカーテンの中によろめきながら消えていく。
 まさか、だ。たしかに先輩と品管作業ユニットを組んで約三年、朝から晩まで同じ飯を食い同じ姿勢でコンソールに向かい、同じ宿舎で眠ってるわけだけど、こんなことってある?
 「ほっほ!君も痔だよ。しかも余計な穴が空いちまってる」
 普段は声に出して笑わないドクが声を出して笑う。
 「そんな変な病気が現世代にあるわけねえだろ!労災だ!」
 先輩が絶叫した。
 
 つまるところ僕も先輩もそれぞれ異なるタイプの痔を同時期に発症したというわけだ。
 先輩のは「痔ろう」で腫瘍がそのままトンネル化して肛門とは別の第二の穴が貫通してしまう最悪のタイプだった。
 だけど本当に最悪だったと僕が思うのは、僕ら二人を即日で切開手術したドクが言い放った最後の一言だ。
 「お前さんら、今まで生きてて人間がチューブみたいなもんだってことすら気づいてなかったのか?」
 「気づいてたら何なんだ」と肛門から直角にメスを入れられて顔面蒼白な先輩がうめく。
 「一本しかないんだ、大切に使おうと思うだろ?」
 できたら苦労しないと叫ぶのかと思ったが、先輩はぼそりと「たしかにな」とつぶやき、目をつむった。ドクはやれやれと肩をすくめ、僕はなんとなく嫌な予感がして浅く息を吸った。
 
 ディスプレイには砂浜一面に広がる白っぽいプラスチック容器とビニール袋が口からはみ出た魚の死体そして環境活動家たちが映っている。海洋廃棄物に怒る活動家たちが時空をさかのぼってデモに参加しようとしているらしい。わが社の旅行にまぎれて騒ぎを起こしてないか観測ポイントを増やせとのお達しだ。
 僕は痛むお尻をさすりながらうめき声を上げたが、先輩はディスプレイいっぱいに広がっている魚を見つめて何やら思案している。
 「これだ」
 
 そうして僕が止めるのも聞かず、先輩はジャワ海に無断で時空ホールを開け、43億年前の太古の海にペットボトルとビニール袋を流し込み始めた。
「やったもん勝ちなんだ。歴史本を見てみろ。なんであんなにありもしないトンデモ歴史本があると思う?どこかの誰かがもうやらかしててこの世界はとっくの昔にパラドックスまみれなんだ。【歴史】なんてもうないんだよ」
 先輩はニンゲンの妄想力を見くびり過ぎている。鏡を見たらいい。そう思ったが口に出して言うには僕はもう疲れ切っていた。なんせ時空ジャンプ回数が日当たり千五百を超えそうなのだ。ただ最後に、そんなことをしてどうなるのかと聞くのが精一杯だった。
「魚がビニール袋を飲み込んで死んでただろ?あれはチューブが一本だから死んだんだよ。チューブが何本もあれば死なないし、なんなら大した痛みも感じずに切り離しとかできるようになるかもな」
 呼吸が浅くなるのを止められない。黙っていると先輩は続ける。
「もし原始地球でチューブが一本だと生きるのに不利な環境があったとしたらどうだよ?俺たちもチューブが一本じゃなくて二、三本ある身体になれるかもな。そしたらこんな、痔なんて頭のおかしい病気はなくなるはずだ。少なくともいちいち大騒ぎするような身体じゃなくなるぞ」
 もう何も言えない。なので先輩の後ろで浅く息をつきながらヨーグルトをすすって、僕はすべてをあきらめることにした。巡視艇の中の会話は録音されているはずだ。僕は先輩がクビになった後にやってくる新しい相棒のことを考えることにした。
 ゴミはホールにどんどん吸い込まれていく。水面から光が差し込むようになり黒いゴミの影がときおり白く輝く。
「この海域だけで二百万トンだ。望みはある」
 先輩の言うところの望みとはなんだろう。僕らはいったい何をしてるんだろう。年中無休で棺桶みたいな巡視艇で気が遠くなるくらい何回も時空を反復して、そして…。
 気づくとお尻の痛みが消え、呼吸が深くなっている。僕は少しばかり切れてしまった方の肛門を気にしつつ、もう片方の肛門から静かにオナラをした。
「はは、血が止まってるぞ!」
 みっともない恰好でズボンに手を突っ込んだ先輩が叫ぶ。先輩は三つの口全てにビールを順に注いで嬉しそうに笑った。
 今までにないくらい思考が深い。きっと酸素が身体中に行き渡っているせいだ。どうして僕がここにいるのか、より多く外界と接し、交換するようになった細胞一つ一つが教えてくれている。ここにいていいんだと教えてくれる。
 急速に自分が広がっていくような感覚に思考が追い付かなくなる。気づくと巡視艇は消えており僕と先輩は海中にいる。ぼんやりと違う時系列世界に遷移したんだと察するがもはやなにも恐れることはない。先輩はあんな状態なのにまだ叫んでいる。叫んでいることだけは分かる。
 透明な水面から降り注ぐ芳醇な陽光に照らされて僕は自身の変化をようやくはっきり知覚する。僕は多孔質の、一枚の巨大な膜になっている。切れたりちぎれたり、またつながったり、うまいこと通り抜けたり。
 微かな記憶の残滓がこの形態を指すうまい単語を教えてくれる。
 ごぼごぼと気泡を作りながら先輩が話しかけてきた。
 
 こうなるために俺たちは。この正しいかたちになるために俺たちは今まで。
 
 あの先輩が感極まるなんて。
 僕は優しくぷくぷく泡を吐きながら応えてやった。
 ええ、まるでザルですね。
Fin

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こちら昨年のブンゲイファイトクラブ2に投稿した短編の初稿となります(字数オーバーしてる)。
去年の今頃に痔を発症して今まで経験したことのない痛みに悩みつつこれを書きました。
そして1年後、これが未来だ。ババーン。僕は相変わらず独りで、GW中も何もせず、そうやって家の中で座ってる。いいのかそれで。去年を思い出せ。

そして思い出し、特に得るべき教訓もないことを確認し、あまりにも暇なのでこれをインターネットに放流することにしました。皆さんの時間つぶしになれば幸いです。

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