クリスタルパパ

 わたしが中学3年生のときの話だ。ある夏の日、父さんから研究室から帰らないとチャットがあった。

 その頃父さんは宇宙風邪を引いていた。
 家族みんなで夕食を囲んでいるときに、手に持っていた味噌汁をするすると自分の頭にかけ始めたのだ。

 当時、地球を訪れる宇宙人の種類が50を超えており、特に害はないが変テコな病気、宇宙風邪が世界中に蔓延していた。
 
 夜に味噌汁を手にすると自分の頭にかけてしまう。
 父さんがそのデメリットを気にしている様子はなかった。ただ、血液検査やMRI、X線検査で何も異常が見られなかったのが気に食わなかったらしい。
 
 当時、父さんはとある私立大学に研究室を持っており、怪しげな理科実験を動画配信して日銭を稼いでいた。
 そんな父さんにとって自分がかかった宇宙風邪には何か惹かれるものがあったのだろう。
 
 父さんが「この宇宙風邪は俺が解明する」と宣言したときの母さんの顔。
 母さんは何も言わずに仕事に行ってしまった。
 台所で肩をすぼめて朝ご飯の片付けをしている父さんに「理子はどう思う?」と呼びかけられて、わたしは「解明しちゃえばいいじゃん」と返事した。
 このことは母さんに言ってない。
 
 そして、そうこうしているうちに父さんから「研究室から帰らない」宣言が発令されたのである。
 母さんは放っておくことにしたようだった。
 帰ってくる代わりに毎晩コールがかかってくるようになった。父さんはカメラを使ってわたしたちの顔を見せてくれと頼むのだが、自分の顔はさっぱりディスプレイに映さない。
「いや、ちょっと見せられる顔じゃなくなっちゃってね……」
 母さんに問い詰められた父さんが口ごもる。
 もういいわと通話を切った母さんはそのまま居間のディスプレイに動画配信サイトを出した。父さんのチャンネルを検索する。
「うげっ」という喉につまった声が母さんから漏れた。
 ディスプレイの中の父さんの顔には大きな白い痣がいくつもできていた。さらに髪にも白いものが大量に混じり、左目は青灰色になっている。
「……あと一ヶ月もすれば完全なアルビノになると思います。やっぱり遺伝子編集は」
 慌ててディスプレイを落とした母さんは自分の携帯端末で父さんにコールをかけた。
「何やってんの!」
 戸惑いやショックを一瞬で追い越して母さんは既に怒り心頭に達していた。
 わたしは慌てて自分の部屋に駆け込んだ。
 
「絶対に何かが感染してるし、そいつらは検査をうまいこと避けてるって気がするんだよ」
 父さんは相変わらずカメラを使わずに通話だけでわたしたちにそう説明する。
「それでなんとかしてそいつらを可視化してやろうと思ってね」
 無言のわたしたちに父さんはさらに分子イメージング技術がどうのこうのと話を続ける。
 わたしの頭の中は疑問符でいっぱいだった。
「今は細胞の中の色素を合成する遺伝子をノックアウトしてる途中。その次は血液を透明にするためにヘモグロビンの代わりに」
 母さんが通話を切って頭を抱えた。
 
 母さんはわたしに父さんの動画はもう見るなと言い、わたしは今まで以上に父さんの動画が見たくなってしまった。
 
 放課後、一人自分の部屋で動画を開いてみる。
「それで、これは感覚でしかないけど、私の身体に感染した何かは検査をうまいこと避けている気がしているんです」
 わたしたちだけじゃなく動画でも言っていたのか。
 
 そして父さんの肌が徐々に白くなっていく。
 
 まずは身体から肌色を司るメラニン生成遺伝子を、次にヘモグロビン生成遺伝子をノックアウトして血液由来の赤色を抜く。そしてヘモグロビンの代わりに手術で使う酸素供給用の無色の特殊血漿を点滴する。
 
 真っ白になった身体が、さらに透明になっていく。
 
 父さんが滔々と説明する。
「生物学は常に何かを観察するという試行でもって発展してきました。この原則は先端物理化学と高度に融合した現在の生物学でも変わりません。観察とはつまり、見たいモノにどうにかして光エネルギーを当てる工夫の積み重ねです」
 
 内臓の輪郭が毎日ちょっとずつ、でも確実にくっきりと浮かび上がってくる。
 ここらへんまで来ると父さんは完全に理科室の人体模型だった。
 母さんには絶対に見せられないと思いつつわたしは父さんの動画から目を離せなくなっていった。
 
 肌色と血液の赤味が抜けるとヒトの身体は、なんと言えばいいのか、かなり抜け感が出てくる。顕微鏡で観察するミジンコのようなイメージだ。
 真っ白な髪の下に、透明な膜が貼り付いた頭蓋骨とキョロキョロ動く目玉。寒天のような鼻梁、ゼリーのような舌……。わたしは社会科の資料集で見た中身が透けて見えるスケルトン配色のマッキントッシュPCやニンテンドーのゲームボーイを思い出した。
 
 父さんがスケルトン配色になった頃には冬が終わろうとしていた。
「まだ家に帰ってこないの?」
 最高に不機嫌な、低い声で母さんが父さんに通話する。
「まだだね……。むしろこれからなんだよ」
 バツンと接続を切った母さんがわたしを見る。
「……見てないよね?」
「……見てないよ」
 思うに母さんも父さんの動画を見てたんじゃないだろうか。
 
 父さんは次の段階に移るためにオーダーメイドのタンパク質製ナノマシンを大量購入していた。
 そのナノマシンは人体に存在する普通の物質にはくっつかないが、それ以外の物質には結合する免疫細胞のような能力があるらしい。
「これが上手くいったらすごいことになりますよ!」
 動画の中の父さんはそう言って笑った。笑っても筋肉や皮膚が透けていて表情が分かりにくい。光の屈折率のせいで濃く映るえくぼの影と、ぶるぶると振動している半透明な舌。そして笑い声。
 
 春が来て、わたしはなんとか無事に高校生になり、父さんは本当にすごいことになっていた。
「ついに見つけました。こいつらです」
 父さんの喉元や胸、肩、手のひらに銀色にきらめく模様が走っている。
 
 虹色素胞とは熱帯魚の体内で発現する銀色に近い色味を出す細胞だが、父さんのナノマシンはこの細胞の仕組みを利用して未知の物質に結合すると虹色素を分泌するしかけになっていた。
 いまや父さんはスケルトンというよりは熱帯の海を泳ぐ鮮やかな魚……が陸に上がって人語を話し始めたらこんな感じなんだろうなといった体だった。
 
「現在、何かしらの生命現象を分子レベルで観察するためには電子顕微鏡や核磁気共鳴法しかありません。これらの技法では生きたままの状態の、まさにリアルタイムの生命活動を観察するのは不可能ではないけど非常に難しい……。今はまだ細胞から小さな臓器サイズの対象が限界です」
 父さんが手のひらを蛍光灯にかざすと青味がかった銀色に光る。
「この方法はヒトの身体全体の分子挙動を紐解く、画期的なアプローチになるはずです」
 
 ある一日だけの父さんの姿を見ればただのきらきら光る熱帯魚人なのだが、毎日の姿を1週間分ほどタイムラプス加工して見ると銀色の輝きがゆっくりと、だけどたしかに身体の中を移動していることが分かる。
 何かがいる。父さんの身体の中に。
 
「さあ、ようやく本試験の環境が整いました!」
 デスクに味噌汁のお椀を置いてディスプレイの中の父さんが宣言する。
「いきますよ!」

 がくんと震えて父さんの手が肩の上まで上がる。
 手首がくいっと曲がって味噌汁が父さんの頭にとうとうと流れ落ちる。
 胸や、肩に散っていた銀色のきらめきが腕の動きを後追いするかたちでじわじわと腕や手首そして頭頂部に移動していく。移動していくごとに光が乱反射して銀色から虹色に変化していく。
 リアルタイムに体が七色に輝きながら変化していくのは見ていて何か怖い感じがした。
 だけど「動いてる動いてる!」やら「なんかパキパキするかも」みたいな父さんのはしゃぎ声で心配する気はすぐに失せてしまった。
 味噌汁でびしゃびしゃになって妙に輪郭が浮き出た父さんが「これは一定の成果が得られたってやつでしょう!」と高らかに叫んだ。
 
 ***
 
 それからすぐに、ある宇宙人から宇宙風邪を治す不活性化剤が提供され宇宙風邪は本当にただの風邪になった。宇宙船の船体からこぼれて星中に散らばってしまったナノマシンの粉体が宇宙風邪の正体だった。
 父さんの自分の身体を捧げた面白実験はなんだったのか。
 その後無事に「ニンゲン色」を取り戻して帰宅した父さんに母さんが「教訓なんて何もなかったでしょう!」と叫んでいた。
 
 朝。わたしはまだ粘っこいまぶたをぱちぱちさせながらコーヒーを飲む。夫はとっくに娘を幼稚園に送り届けて出勤していた。
 テーブルに置かれたサンドイッチと夫からのボイスメッセージ。
「これ何なの!?帰ってきたら説明して!」
 居間の床には煤けた金属製の立方体が散乱している。昨日の夜中に持って帰ってきてばら撒いたのはわたし。
 同僚の宇宙人と一緒にこれの使い道を考えている。どこか遠くの星の遺跡で発掘されたよく分からないパーツ群。
 小さな企業の開発部の隅っこで、わたしは宇宙由来のこういった怪しげな何かが何かの役に立たないか日がな一日考え事をして日銭を稼いでいる。
 役に立ったことは一度もないけど。
 
 今日は出社せずにこのまま居間でこいつらと戯れるか。
 
 ついでに動画配信でもしてみよう。
 あの時の父さんが綺麗だったとは口が裂けても言わないけれど、まあ、確実に輝いていた。
 
Fin

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第二回かぐやSFコンテストの落選作です。次はもっっっとクリスタルな話を書くぞ。

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