衰退期の日本で愉快に生きるために必要なこと~もしくは会社をつくった理由~
こんにちは、合同会社PLUCK代表の石坂です。
ここでは、僕が会社をはじめた理由について語りたいと思います。
「衰退期を迎える」とは「過去できていたことができなくなること」
僕らが生きるこの日本は、衰退期を迎えています。
人口減少に伴い経済は縮小し、国際競争力は毎年のように低下。
税金は毎年上がり、国民の生活が楽になる見通しは立ちません。
このような衰退期では、過去できていたことができなくなります。
たとえば医療や福祉、行政サービスが財源不足で過去のようには受けられなくなったり、自主負担額が高くなったりなど。相対的貧困率も上昇傾向が続いています。
自殺した同級生たち
過去当たり前だった豊かさが失われ、貧しくなる日本において、何を大事にしたいか。僕は「生きていける感」を大事にしたいと思いました。
そのきっかけは、ちょっとナーバスな話になりますが、同級生の自殺です。1人は中学校、1人は大学の同級生でした。
残された遺書からは、彼らがそれぞれの理由で、生きていく希望を失い、命を絶ってしまったことが記されていました。
僕も生きていく上でつらいことやへこたれそうになることがありました。それでも僕が生きてこれたのは、同級生たちの親族が泣き崩れる様子を見て、「彼らに続いてはいけない」と思ったからです。
また、このあとお話する、僕が出会った「生きていける感」をくれた場所のおかげでもありました。
「生きていける感」をくれた場所
僕は大学時代、一年間休学してバックパッカーをしていました。
旅も中盤にさしかかった頃、ブラジルの「弓場農場」という日系人コミュニティにたどり着きました。
そこは、赤ちゃんから90歳くらいの方まで、老若男女70人くらいが家族のように暮らす自給自足の共同体でした。
農作業を手伝えば泊まる場所と食事を提供してもらえる(そしてご飯が圧倒的に美味い)ことから、旅行者も絶えず訪れるような場所でした。
納豆や卵がつく(!)美味しい朝ごはんを皆で一緒に食べて、昼は農場で汗を流し、夜にはお酒を飲んで語らう。そんな豊かな暮らしを送らせてもらいました。
住んでいる方も、オフの時間は野球大会の練習や芸術活動に勤しむなど、充実した日々を過ごされていました。
旅立つ前に僕の特技であるファイアーダンスを披露すると皆喜んでくれ、「また会おうね」と言ってくれたことが心に残っています。
そんな思い出を抱きながら日本へ帰りました。
大学を卒業し、東京のIT系メガベンチャーに就職したのですが、仕事はハードで(僕がそれほど優秀ではなかったこともあり)、終電で家に午前1時過ぎになんとか帰りつくような日々でした。
心も体もヘトヘトで、うだつのあがらない自分に対して不甲斐なく思うような毎日だったのですが、深夜の帰り道、住宅街を歩きながら夜空を見上げては、ブラジルの農場のことを思い出すと、ちょっと前向きな気分になることができました。
「まあ、なんとかなる。人生つまづいたとしても、あそこにいけばとりあえずなんとかなりそうだし、なんだかやり直せそうな気がする」と。
そんな日々は過ぎ、転職を機に東京から島根は隠岐の島、海士町(あまちょう)へ移住しました。
移住したての頃の僕は、毎日不安な毎日を過ごしていました。「もしこの職場で活躍できなかったら、ここにはいられない。仕事のできない自分には価値がないのだから 」と。
だけれども、島の人たちは、そんな僕を暖かく受け入れてくれました。
代表陣は忙しいのに僕の不安や悩み、課題について夜通し話してくれました。
島の兄貴分や姐さん方は僕のことをよく気にかけてくれ、つらいときには食事に誘ってくれたり、「困ったらうちへ来い」と言ってくれたりしました。
何をするでもなく一緒に楽しい時間を過ごせる友達ができました。
仕事が「できる」「できない」などは大した問題ではなく、土地を離れてもつながっていられるような仲間に出会うことができました。
間違いなく、僕の青春でした。
月日は流れ、「この島で学んだことを活かし、違う土地で、自分のやり方で挑戦してみたい」、そう思い、海士町を離れることを決めました。
船出のとき、多くの方々が見送りに来てくれたのですが、島を離れていくフェリーの上から、皆が手を振ってくれているのを見て、「ああ、愛されていたんだな」と、とても満ち足りた、暖かい気持ちになったのを覚えています。感謝しかありません。
弓場農場と、海士町。僕にとっては「心の拠り所」ともいえるような場所でした。
単純に「住みやすいから」とか「仕事があるから」というわけではなく、
「生きていける感」を僕の中で育んでくれるような場所でした。
そんな場所での経験を経て、いつしか僕も、
「生きていける感」が持てる場所をつくり、
「生きていける感」のある人を増やしていきたい。
そう思うようになりました。
「生きていける感」はどうしたら持てるのか
生きていける感とは、人生何かつまづいても、またやり直せる。
そんな感覚です。
では、「生きていける感」は、どうしたら持てるのでしょうか。
色々考えたのですが、
「個人としての生存力を上げる」ことと、
「個人としての生存力が弱まった時に助け合える共同体に属する」こと、
そして「共同体に属し続けられる資格を持つこと」、
この3つが大事に思うのです。
「個人としての生存力を上げる」=4つの経済を自力で回す
自分たちで食べ物を作ったり採ったり(自給経済)、
価値のあるものを交換したり(交換経済) 、
お金を稼いだり(貨幣経済)、
人から好かれて恩恵を受けたり(信用経済)など、
いろいろな経済があります。
これら経済を、自分の得意な領域で、自力で回せていけるようになれば、
生存力が上がり、生きていける感が湧いてきます。
もしくは、生活に必要とするお金や資源を減らすことでも、個人としての生存力を上げることができます。
「助け合える共同体に属する」=個人の力が損なわれた時に保険があること
ただ、不慮の事故や社会環境の変化などで、これまで生きていくために有効だった能力が損なわれてしまうことがあります。
天災でこれまで築き上げてきた資産が台無しになってしまうことだってあるでしょう。
そうでなくても、心身ともに弱ったり疲れたりして、ちょっと立ち止まりたいときもありますよね。
差し出せるものがないけれども、助けてほしい。
そんなときには、ギブ・アンド・テイクの関係が成り立ちません。
経済は原則、価値の交換によって成り立ちますので、交換できるものがない状況下は、経済ではこの困りごとを解決できないように思えます。
こんな時に必要なのは、平時から何かあったときにはお互い助け合える共同体とも呼べるような関係を作っておくことです。
自分も困ったときには助けてほしいし、そもそもあなたとともに生きていきたいから助ける。
「保険」というと少々ドライですが、人生の落とし穴にすとんと落ちてしまったとしても戻ってこれるような、トランポリンのような機能があれば、生きていける感が増すなあと思っております。
「 共同体に属し続けられる資格がある」=与えようとする優しさがあること
とはいえ、誰も彼も救うことはできません。
共同体として属するメンバーには、ある程度の条件が必要となります。
それは単純に友情かもしれませんし、何か同様の傷や寂しさを抱えているからかもしれません。
ただ、同じ共同体に属するメンバーに対して、何かを持ち寄り分け与えようとするような優しさがあることは、きっと必要なのではないでしょうか。
“If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive.
If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.”
(強くなければ、生きてはいけない。優しくなければ、生きる資格がない)
Raymond Chandler, Playback
理念を実現するための事業であること
合同会社PLUCKは、「衰退期の日本でも、生きていける感のある人を増やす」という理念を追求し、実現していきます。
いささか長くなりました。
最後までお読みいただいたあなたに感謝を申し上げます。
合同会社PLUCK:https://p-luck.ltd/