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教師の「厳しさ」について(随想)

 授業映像に登場する教師の指導、授業者側は適切だと思って教材化したしているのですが、学習者側はそうは受け取らないことってあります。厳しすぎる、この先生のやり方には引っかかるところがあった。そういう反応が寄せられることがある。以前そう言うことがあった時に書いた、受講者向けの文章です。

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 教師にとって「厳しさ」とは何でしょうか。学習指導において教師の「厳しさ」はどのくらい必要でしょうか。

 私が思うに、すばらしい授業とは、国語に限らず、見る人に「違和感」や「引っ掛かり」を感じさせない授業のことではありません。授業を観察していて引っ掛かりを感じるかどうかと、学習の成立は、あまり関係ありません。ある先生の授業を見て、その先生のやり方が「厳しい」と感じることはあるかもしれませんが、そのことと授業の適否は区別しておく必要があります。「厳しい授業」イコール「ダメな授業」ではないのです。

 国語の授業において、教師は、目標とする言語能力を生徒に身につけさせるために、しばしば言いにくいことを言わなければならない場面に立たされます。例えば、生徒がクラス全体で発表する場面で、声が小さくて聞こえない場面や、プレゼン資料の手元の扱いが不慣れなことがあります。そうした状況における教師の即決的な指導もその一つでしょう。

 生徒が話したり聞いたりしているその場において、適切な言葉かけを行う。このことは国語科の学習指導においては必要なことです。話し言葉の指導では、タイミングを見逃さずにその場で行うことがとくに多くなります。生徒にその場で言い直させたり修正させたりするわけですから、その声かけは、ときとして厳しいニュアンスを伴うこともあるでしょう。

 もちろん、教育的判断として「今回は見逃そう」、「口を出さないでおこう」と判断することもあります。判断理由としては、たとえば、生徒どうしの関係性に配慮するためであったり、次にもっと適切な指導の機会があるから、といったことが考えられるでしょう。一生懸命準備した生徒の自尊心を傷つけたくないということもあるかもしれません。

 しかし、これは自戒を込めて言うのですが、「厳しい指導」を避ける別の理由として、「怖い先生と思われたくない」という教師本位の思いや、「適切な指導方法が思い浮かばない」という指導力不足が潜んでいることがあります。生徒に必要であったはずの指導が、このような理由によって行われないことが続くと、国語の授業の目的は次第に歪められてしまうことになります。即決的な指導を行わないことは、生徒を成長させる絶好のチャンスを一つ逃してしまうことでもあります。

 もちろん、「厳しい指導」がエスカレートした結果、生徒の学ぼうとする意欲を減退させては、授業として逆効果だと言わざるをえません。しかし、「厳しい指導」が適切に示された場合には、授業に適度な緊張感をもたらし、学習に意識的に取り組めることもあります。

 私が考えるすばらしい国語の授業とは、生徒がことばを学ぶことに意義や喜びを感じ、自分やお互いの言語能力を伸ばしたり伸ばそうとしたりしている授業です。これが保証されている限りにおいて、教師の指導の厳しさは否定されるべきものではありません。重要なのは、生徒がことばを学び得ているかどうかです。

 「厳しさ」について考えることは、自分が将来どのような教師になりたいかを考えることでもあります。授業参観や録画映像で授業者の様子を観察していて「引っ掛かり」を感じたとき、私たちはその授業者の姿を通して、自分にはないものと出会っているのです。そのとき私たちは、自分の違和感を根拠にして授業者を批判することもできますが、同じ根拠に基づいて同時に自分を更新していくきっかけを得ることもできます。

 教師の厳しさ。「厳しさ」は、生徒に行使する指導技術である前に、自分の教え方や教育観を問い直す姿勢としてあるのだと考えます。

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