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言語観の話をするための話

 言語観。私たちにとってことばとは何か。ことばにとって私たちとは何か。ことばをことばにするのは何か。

 言語観については以前に上のような記事を書いた。書いたというより紹介した。言語観の話はいつまでも完結することはないが、私は国語教育を営むためには自他の言語観まで降りることが大切だと考えている。その思いでこの記事を書いている。重みのある実質のことばに対して無感覚に陥らないようにしたい。

 流れゆくことばと積み重なることば。積み重なることばに価値をおきたいという気持ちが強くなり、Twitterに接することがしだいにむずかしく感じられるようになってきた。そうした気持ちの変化は、昨今のTwitterやその経営者に関するニュースとは直接は関係なかった。しかし結果として、遠のく足に拍車をかけることになったとはいえる。遠のく足に拍車をかける? 

 ことばは流れゆくものであると捉えることもできる。そうした言語観も否定はしない。軽重を問わず万物すべて等しく流れ去るというのはいさぎよい。しかしながら、そのいさぎよさがことばへの感覚の麻痺をもたらすことにもある。振り返るべきことばを振り返らずに済ませてしまったり、いいねボタンを押すだけで終わったりする。私は、読み返したい手紙は読み返せるようにしておきたい。

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