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左脳と右脳で"2回"読み解く『千と千尋の神隠し』

作品にどう触れるのか?

もちろん作品の楽しみ方なんて十人いれば十通りのものがあって然るべきだとおもうのですが、僕の中で個人的に大切にしている読み方があります。
それは演出の節々に表出した意図を拾い集めた先に、作者の真意にたどり着こうとする読み方です。
桑原武夫さんの『文学入門』という本の中で「論理の積み上げの先にたどり着く『観念』ではなく、表出したappearanceの積み上げの先にたどり着くcloseを追いかけるのが小説愛読者としての読み方である」というようなことを言っているのですが、まさにそんな感じ。
もちろん大きな構成や演出を左脳的に読み取って、「論理的に」たぶんこうやろなという解釈をすることは大切ですし、実際僕もよくやるのですが、本当の大作の場合はそうではなく、時間をかけて繰り返し繰り返し作品に触れて、細部に散りばめられた作者の意図(appearance)を拾い集める。
その積み上げの上に作品を読んでいくと、それまでとはまるで違う作品の側面(close)が見えてくる。
こう言った楽しみがあるのが、appearance→closeという読み方だと思っています。
僕の中で宮崎駿さんの名作『千と千尋の神隠し』は、論理→観念の読みとappearance→closeの読みでは違った見え方がする作品だったりするので、今回はこの映画を題材に、appearance→closeという読み方をしてみたいと思います。

論理→観念ベースで読んだ『千と千尋の神隠し』

いきなり論理やら観念やら、appearanceやらcloseやらといっても訳がわからないので、実際に順を追って『千と千尋の神隠し』を楽しんでいきます。

まず、論理→観念というのは、そこに直接的に描かれるメッセージ性やテーマを追いかける読み方のこと。
『千と千尋の神隠し』でいえば、「名付け」や「主人公の成長物語」というのがここにあたるでしょう。
この作品では名前を奪われたり、声をかけることで豚となった両親を救ったり、物語の要所にあるキャラクターの名前が名前を持たないという意味の「カオナシ」(顔無し)であったりと、「名付け」に関するテーマが頻繁に登場します。
「名付け」の持つ意味には①物事を分節化する(認識できるようにする)働きや、②特別なものである証(恋人同士で特別なあだ名で呼びあったりしますよね?)とか、③支配の対象(ペットに名前をつけたりが好例)みたいなものがあります。
こうした観点から見ると、神の世界に迷い込んだ主人公の千尋とその両親はそれぞれ名前を奪われ(千尋は湯婆婆に名前を没収されるという形で、両親は豚にされるという形で)、それを取り戻すというアドベンチャーが始まります。
そして、正体不明の神の名前は「カオナシ」。
ここには神聖なものには「ナシラズ」とか「ナナシノキ」とか、あえて名前をつけないという"名付け"をすることで支配の対象としないようにするという名付けでよく使われる手法がとられています。
名前をとられるとはどういうことか?名前を取り返すことがどういうことか?
こういった角度から物語を読むという楽しみ方が『千と千尋の神隠し』ではできて、これが大きな面白さの1つだと思うのです。

また、この作品は千尋というひとりの少女が社会に触れて大人になるという文脈でも読むことができます。
初めは自分のことばかりだった千尋は、湯婆婆に出会い風呂屋で働くことになり、数々の大人や客と接する中で、どんどん他社意識や礼儀、そしてなによりそういったものを通して強さを身につけて成長していきます。
この主人公の成長する姿を見て共感していく観客は少なくないはず。
こういった、ひとりの少女が仕事とは何かを学ぶ物語としても楽しめるわけです。

これらはどちらも作品のプロットやテーマに基づき、左脳でこの作品を見た場合に受け取るメッセージです。
もちろんこれで十二分に面白いわけですし、そもそもジブリとしてはそういう映画として『千と千尋の神隠し』を作ったと思うので、この読み方は間違えなく正しいと思うのですが、こうしたプロットの部分をいったん棚上げして、作画や演技に散りばめられたものを拾い上げてこの作品を見ていくと、先に書いたのとは少し異なる物語として見ることができるようになります。

appearance→closeベースで読んだ『千と千尋の神隠し』

ここからはアニメ評論家で自身も『オネアミスの翼』などの監督を手がけている岡田斗司夫さんの解釈をベースにして、映像や演技の細部に散りばめられた疑問を積み上げて、作品を解釈してみたいと思います。

この作品はふつうに見ていても楽しめるのですが、細部にこだわっていくと、様々な疑問点が浮かび上がってきます。

・いきなり迷い込んだ不思議な世界は何なのか?
・両親はなぜ冷たいのか?
・ハクと千尋の関係は何なのか?
etc...

じつは、作品の中で語られていない「納得できない部分」がこの作品には数多くあるわけです。
こうした違和感は細かな映像や演出を追っていくことで少しずつ「意味のない惰性」から「描かねばならなかった必然」へと変化していきます。

例えば冒頭で千尋の家族が砂利道に車で入っていくシーン。
ここの場面をよく見てみると、舗装路から悪路は変わる所にあった木には引っこ抜かれた鳥居やお墓のようなものが捨てられています。(これは岡田斗司夫さんが解説していました)
つまり、直接は描かれていませんが、冒頭で千尋の家族が入っていったのは、何らかの形で潰されてしまった聖なる地であることが示されているわけです。
だからこそ、ここから不思議な体験がはじまります。

また、ここで出てくる(後にコハク川の守り神であるおわかる)ハクという少年は、記憶が曖昧に出てくるわけですが、なぜその川を守る神になったのか?、そして何故記憶が曖昧なのかは描かれません。
また、不思議な土地に迷い込んだときに千尋が悪路でつまずいても一切気にかけないという、千尋に対して「不自然に冷ややかな態度を取る両親」
『千と千尋の神隠し』では、こういったいくつもの一見すると必要なない演出が繰り返されています。
そして極め付けは、ハクが守り神としている川で千尋が溺れたというエピソード。
なぜ千尋は"偶然"にもハクが守り神となった川で溺れたのか?そして溺れた千尋に手を伸さしのばした人物は誰なのか?
部分部分でこういった違和感がいくつも描かれているにも関わらず、それらの理由はこの作品の中では最後まで語られません。

岡田斗司夫さんは、こうした違和感を並べた上で、宮崎駿さんが『千と千尋の神隠し』の製作の際にされたインタビューで語った「僕は一度『銀河鉄道の夜』をやらなければいけないと思ったのです」(細かな言い回しは違うかもしれません)という言葉に注目しています。
宮崎駿さんが語った『銀河鉄道の夜』とは、もちろん宮沢賢治さんの名作であるあの作品のこと。
『銀河鉄道の夜』には、ザネリという学校のヤンチャな子どもが川で溺れたのを主人公ジョバンニの親友カンパネルラが命と引き換えに救い、そのことに銀河鉄道に乗ったジョバンニが不思議な電車の旅を通して気づくという物語が描かれます。
この作品が宮崎駿さんが「銀河鉄道をやらなければならない」と言った以上、そのどこかにザネリはいるし、カンパネルラもいるし、もちろんジョバンニもいるはずです。
そして、こうした前置きをもって先に挙げた"違和感"を並べていくと、次のようなストーリーが見えてくるように思うのです(ほぼ岡田さんの受け売りです)

ハクをその土地の守り神としてみることもできますが、見方を変えれば未練からその土地に縛られた霊と捉えることもできます。
そして、その土地で溺れた千尋。
これを『銀河鉄道の夜』のプロットに当てはまるのなら、川で死にかけたけど助かったザネリが千尋で、それを助けようと命が失われたのがハクと考えられます。
さらにこの前提を踏まえて両親の千尋に対する(完全に無意識な)距離感を考えると、ハクは実は幼い頃に千尋を助けて亡くなった千尋の兄ではないのかと岡田斗司夫さんは結論づけています。
確かに、それなら両親の(決して悪意があるわけではないのに)なぜか千尋に冷たい態度にも説明がつく。
つまり、映像や演出(そして宮崎駿さんの言った「銀河鉄道」というキーワード)を踏まえると、神の世界に迷いこんだ千尋が、幼い頃に自分を助けて亡くなった兄と再会する物語と読むこともできるわけです。
(ここまでほぼ岡田斗司夫さんの説をお借りしました)
もちろんこれには賛否両論あると思うのですが、僕はこれがappearanceからcloseを読み解くということだと思っています。

さらに、ここからはこのエントリの本筋に関係のない僕の個人的な解釈なのですが、だとしたら『銀河鉄道の夜』における主人公ジョバンニは誰なのでしょう?
僕はこれが、見ているぼくたち視聴者自身だと思っています。
ジョバンニは銀河鉄道での旅の中でカンパネルラと話し、様々な人の人生に触れる中でじっくりとカンパネルラの死を感じ取ります。
この列車内での心情の動きそのものを映画を通して観客にさせたのが『千と千尋の神隠し』ではないかというのが僕の解釈。

論理的な読み方とappearance的な読み方

以上に書いたのが、論理的な作品の味わい方とappearance的な作品の味わい方です。
繰り返しますが、どちらがいいというわけではなく、いろんな読み方があって、それぞれの楽しめるやり方で作品を見るのが一番いい方法だと思います。
その上で、僕は(仕事柄かもしれませんが)ここ最近appearanceを追いかける読み方をすることが多くなり、その先に色々な気づきがあったので、今回はそれを紹介させてもらいました。

作者に対する全幅の信頼、そしてその先にある論理とは違った見え方。
こういう楽しみ方ができるのも、作品に触れる楽しみなのかなと思ったりします。
もしこういう見方に興味がある人がいたら、一度実践してみてください。

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