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新人講師が「わかりやすさ」を演出するための方法論-授業を「すでに知っている」でデザインする-

「運じゃなく、運命だった。」
これは僕が大好きな映画のひとつ『スラムドック・ミリオネア』のキャッチコピーです。
貧しいインドのスラム街で過ごし、知識も何も無い少年が一攫千金を夢見てクイズ番組に出場するのですが、少年はその番組に出てくる難問のクイズにことごとく正解していきます。
その内容はスラムで育った少年には到底分かるはずもない問題ばかり。
あまりの正解に司会者は不正を疑い問いただすのですが、その真相は辛いスラム街での生活の中で「全て体験してきた」というものでした。

僕は授業の際に、スラムドック・ミリオネアに出てくるこの「すでに知っていた」というのを非常に重視しています。
例えば理科で植物の葉を上から見ると互いが重なり合わないように葉をつけているという事を知識として習うのか、外で遊ぶ中でなんとなく経験として知っている事が教科書に出てきたのかで、定着の速度は後者の方が圧倒的に速いはずです。
で、このことは日常生活における経験の多さという観点からはもちろんなのですが、自分の指導の中に意図的に設計して組み込むといいんじゃないかとというのが最近の僕の関心の対象だったりします。

たとえば、中学2年生の漢詩「江碧にして 鳥逾白く 山青くして 花然えんと欲す」というところで、色の対比が出てくるわけですが、ここで知識として「『然えん』は赤だ」と覚えるのではなく、これまでに扱った作品の中で、色に纏わる表現が出てきたら、都度確認するようにしておけば、こちらが説明する前に自分で気づいたという体験にすることができるみたいな。

これは表現技法の問題なので少し大袈裟な例ですが、例えば熟語であったり、英単語であったりで、「それが教科書では初めて出てくる段階(=学校内容的に覚えなくてはならない時点)で、すでに何度も見たことがある」状態に持っていくというのは、特に勉強に苦手意識が強い子にはある程度有効な気がするのです。

例えばある教科書ではimportantという単語が1年生の巻末のページで初出、次に出てくるのは2年生のunit3で、ここで確実に覚なければならないわけですが、僕の教室で使っているテキストだと、2年生のこの時点までに20回以上この単語が登場します。
都度、さりげなく意味や読みを紹介したり、綴りに対して意識を向けさせるというような事をすると、結構な割合で躓くことなくこの単語が書けるようになってくれます。

で、この容量で苦戦しがちな知識に関しては予め何度もそれとなく授業の中で触れさせてあげられるように細かく授業を組み立てておけば、相対的に負荷を感じない授業が作れるのでは無いかと思うのです。
目下の僕の目標は教科書の大分の知識が初出の時点で『すでに知っていた』という体験になる教案や教材を作ること。

もちろんそんなことをしたら僕の授業なしでは勉強できないようになってしまうので、あくまでこれは勉強に苦手意識が強い生徒さんを指導するためのファーストステップの方法論についてのお話です。
勉強に自信がついてきたら少しずつ先回りで伏線を張る分量を減らしていけばいいのかなと。
そんな調節も、いったん徹底的に緻密に教案を練り上げれば可能だと思うのです。

こうした設計について、備忘録として定期的に書けたらと思います。

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