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「ジェフの奇跡的な残留」を知る上でのザッとしたおさらい。その1・「ジャスティスの罪状ズラズラ」メモから。

基本的にトリガーをしっかり引き抜いたのは最終局面で
こやつの「最後の道連れ」があったからではあるのですが。

例のTOTOだか宝くじの配当金をベースに作られたとも云われる
画像から先出ししてしまった「ジェフの奇跡的な残留」ですが、
やはりそこに至るまでにはベースとなる背景をある程度知識として
持っていた方がより楽しめるだろう、といふことで第1回は
「ジャスティスの罪状ズラズラ」メモから。

表面的には「魔性の笛吹き」に操られすぎて、「下町の至宝」を
次々と亡き者にしていった、といふのがまず罪科の一つ目として
挙げられるでしょうか。既に野田鶴声社は廃業されています。

まあ喪黒福造に「ドーン!」とやられて様々な過失と罪科を
撒き散らすだけ撒き散らした、といふのがまず後世の評価には
なるし、「あああれね」扱いされる「笑ウせぇるすまん」に
出てくる典型、と観ればあの惨状も少しは冷静に観られるの
かもしれませんが。

以前の掲示板では八奈見乗児さんの追悼を飯島愛を介してついでに
ジャスティスと「ソウルの練習こそが問題」を綴っていたのですが、
今回は文章を引きつつ別角度で行こうかと。

 一応当時の岡田正義ことジャスティスのヘボ審判としての評価は
いわゆる「放置プレー系」というヤツで同時期では奥谷や、フセカー
(その昔香ばしいジャッジを振りまいて去ったフィスカーなる審判が
いて、その振る舞いが似ていることも含めてフセカーとも呼ばれて
いた布瀬)などと同じ分類がされていた、と。

 ついでに言うとフセカーこと布瀬の評価をかつてヤフー知恵袋で
評じろ、と求められた(ことがあった)のでそこから援用すると
この人も「鹿島の犬」と呼ばれた糞審の一人でもあり2005年1月に
引退。

「彼のように気の小さいヤツが審判をするのは余りにも不適格」

と断罪する人もいたくらいの小物であったことで知られる、と。
(松崎とフセカーとカード乱舞やVゴール取り消しなどさまざまに
やらかしていた北村大先生こと北村央春の3人が主な「鹿島の犬」で、
それにも噛みつくような「鹿島が大嫌い」を公言していたのがジャス
ティスのいかにもイタイところで)

仲達として続けられてきた八奈見乗児さんだったんだなあ、って思うと
(2022.04)

 なもので、このような大絶賛の賛辞も当時の証言としてはあると。

「鹿島が嫌い」嫌いと公言し、明らかに偏ったジャッジを続けて
きたこの男が笛を吹くことが無くなると思うとホッと胸をなで下ろす。
Jリーグ創世記から何度も嫌な思いをさせられてきたが、
ここ数年では2005年の広島戦と2006年の川崎戦が記憶に残る。
2005年8月20日に行われたホームの広島戦に於いては、明らかに
ボールへ行った岩政に対し、一発レッドを提示し試合をぶちこわし、
試合終了間際には大岩までも退場処分にした。
スタジアムに集まった観客は岡田正義という人物に殺意に近い感情を
持ったであろう。

2006年11月26日に行われたアウェイの川崎戦は、歴史に残る誤審である。
川崎のDFラインを突破し、飛び出してきたキーパーをも交わしてゴール
へ向かう田代の足をペナルティエリア外で掴んだキーパーへのプレイ。
スタジアムにいた誰もが、キーパーの一発退場+FKと思った。
しかしながら出されたジャッジは田代のファール。
我等は目を疑った。
このようなジャッジが許されて良いものであろうか。

岡田正義氏引退

まあこうも磯(インファイト、ってサポーター集団がいたことから
イソファイト表記となり「磯」と略される)がカリカリしていたのかは
主な「Jリーグ審判25年の歴史」をまとめたこの項をザッと観れば
大体把握出来るかと。

 「Jリーグ審判25年の歴史」をザッと纏めていた時の第一次の転換点は
「ジーコツバ吐き事件」(1993)が丁度分水嶺で、初めはヴェルディ川崎
(当時)が強かったことから、ヴェルディびいきのお手つき審判が名指し
で「ヴェフリー」と呼ばれていた時期があり(ちょっと誰を指すかまでの
史料は出て来ないけど、かつての主審または副審を語るスレには書かれて
いたような)、その沸点が達した一つがジーコツバ吐き事件だったのかなと。

まあこの間に「サッカーの審判の淵源」を無視した教育者の思い上がった
教育的指導が裏目に出て名文学が生まれた「秋天の陽炎」の時期があり、
それらの淵源(サッカーの審判の成り立ち)を日本語的な表現でまとめれば、

「フットボールの審判はあくまでワキに主軸が置かれているものであり、
審判は決してシテ(主役)になってはいけない」
といふことになる。

このクールも中盤戦で折り返し点が見えてきたあたりですが(2022.02)

「ヴェフリー」の力が減衰し、「鹿島の犬」が「新東京国際空港公団職員」
出身であった松崎康弘審判(2003年に審判を引退し、その後は審判委員長)
を中心に醸成されていく中で、その中でもカウンター的に野田鶴声社の笛を
ピッピキ吹いた「ソウルの練習問題」で講習を受けた方がジャスティス
だったので、主な話としては2001年12月の「首投げ退場」あたりから顕在
していたとも云われております。

・2001年12月の「首投げ退場」
磐田-鹿島のCS第1戦で福西に首投げされた鈴木隆行にハンド判定し
黄紙2枚目退場させるなどして磐田のドローを幇助。

以下「ジャスティスの罪状ズラズラ」メモには次のような経緯が
纏められている。

2002.03・SR(スペシャル審判員)第1号として岡田正義、上川徹が選ばれる。

2002.05
・岡田正義が裁いたフランス代表の試合でジダンが怪我。韓国人暴れる。
 (ただこれがジャスティスの晩節をきっかり汚す「暗黒の8年」のはじまり)

2002.06
・「ソウルの練習・問題」。日韓W杯の荒れる原因はここにあった。
 以降W杯審判の趨勢は「no more 韓国の審判」としてレベルを向上させていく。
    ・利府にコッリーナ主審降臨し、「日本vsトルコ」を冷静に裁いて
     日本とけさいの「サッカー冬の時代」が到来。
     「ピエルルイジ・コリーナ氏の地鎮祭」。

2002.12・Jリーグアウォーズ 優秀主審賞に岡田正義。
但しこの頃でも消極的な選択肢で岡田が選ばれたという向きが強かった。
2003.08・磐田-FC東京戦で隠れながらも岡田の香ばしさ発揮。
 磐田のアフターバックチャージは流す、GKとCKの微妙な錯誤判定など。
 全体的に細かくファウルをとらなかった「放置系」とさわやか893の
お目こぼしというかけ合わせが、以降いくつかの悲劇を生むのだが。

2003.12・Jリーグアウォーズ 優秀主審賞に上川徹。
そして伝説の「エーイング」。

「ジャスティスの罪状ズラズラ」メモ

「エーイング」はまだどこかで観られるのだろうか。この人もある意味で
サッカー選手(Jリーガー)から国際主審、審判委員長とのし上がった人で、湘南ベルマーレ(ベルマーレ平塚)出身の人としては中田英寿とは別の面で頂点を極めた人の一人でもある。
 そんな上川徹氏のターニングポイントはこの「エーイング」になるのかと。ここから劇的ではなかったけど、それなりに評価出来るし納得もする
主審道を歩めた人ではあるのかなと。

まあそのような経緯がベースにあったので、ジャスティスの引退時に
記事になってた松崎康弘審判委員長のコメントがこうも憶測的で
恬淡なのは、以上の事情が含まれているから、と観るとより面白い。

 サッカーのワールドカップ(W杯)など多くの国際試合や、J1で
300試合以上の主審を務めた岡田正義氏(52)が今季限りで引退する
ことが18日、分かった。
日本サッカー協会の松崎康弘審判委員長は「(パフォーマンスの)いい
うちに辞めるという思いのようだ」と話した。

岡田正義氏引退

ジャスティス末期最大の汚点とも言われる多くの人をシーズン長きに
渡り宙ぶらりんにした事件といえば、「鉄人八塚」がスカパーの番組でも
熱心に語っていたザ・ロンゲストマッチ。

備忘録で記してあった元データは消えたようだが、こんなものが
証言として残されていた。

試合中断が後半29分だった、ということもあり、試合の中止、ノーゲーム、
再試合という扱いは確かに受け入れがたいものだろう。
テレビで見ていたが、川崎サポの中には泣いてしまった方もいたようだった。

後の再試合や再開ゲームのルール作りには役に立った、といふ後世的な
部分は残されていますが、この怯懦(きょうだ)と「本当に安全性に配慮
した結果だった」のか、判断力としても審判としての資質としても色々と
疑わざるを得ない中で、当該の宙ぶらりんになった2チームは次第に成績を
落として試合再開となるわけですが。

で、ラスボスと化したさわやか893こと福西が東京ヴェルディで引退
ゲームを飾るとき、主審は岡田ジャスティス正義で、「ジェフの奇跡的な
残留」の大事なトリガーになるのです・・・。

といふことで第1回はここまで。第2回は「オシムって言っちゃったね」
から「ジェフの奇跡的な残留」に至るまでのジェフの情勢について、「ら」
スレ当時のメモなどを紐解きながら語っていこうかと思います。

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