映画が好きって話―『物語としてのドイツ映画史』
こんばんは
杪です
またちょっと間が空いてしまいました
前回触れた通り
こちらの書籍を読みます
今回は1章「ドイツ映画の誕生物語」の前半部分についてです
(本当は章ごとにするつもりだったけど長くなるので分けます)
こんな話か〜何とかだね〜っていう読書感想文です
大学にて映画論だったり映画史だったりをペロッと舐めた程度の私が批判的態度で接するほど読み込めていません
基本的に全面受け入れ体制で読ませていただきます
それでもいいよという方はお付き合いください
マックスって誰?
さて、第一章でまず焦点があたるのは、
マックス・スクラダノフスキー、なる人です
彼は1863年にベルリンに生を受けました
そして映画が発明されたと言われる1895年を生きた彼の墓石には
【ドイツにおける映画のパイオニア】
と彫ってあるそうです
生誕させてすぐ墓の話するじゃんってね!へへ^^
こちらの文言の所以は、1895年11月1日、世界で初めてビオスコープという機械を一般公開したところにあります
映画を発明したことで知られるフランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフを一般に公開したのが同年12月8日
ビオスコープに遅れをとっていることに気づいた方はこの後を読み進めたくなっちゃうんじゃないでしょうか
まあ今回はその前後について別に掘り下げるつもりはないので解消してしまいます
リュミエール兄弟のシネマトグラフは1895年3月22日にパリの国立工業奨励協会で試写を行っていおり、その前月には特許も獲得しています
反面、同じく1895年初頭にあらかた完成していたビオスコープは興行の契約から11月の公開まで特許の申請も一切の公開も禁じられていたため、11月のその日になるまで明確に日の目を見ることはなかったようです
映画を映すのが早かったのはリュミエール兄弟というのは覆らない事実ということです
こちらの書籍の筆者は、リュミエール兄弟が世界的に映画のパイオニアであることは認めつつ同時期に独自に映画を生み出すにいたったマックス・スクラダノフスキーを軽視するべきでは無いと主張しています
私もそう思う~
この章で取り上げられる彼の政治的利用も自己承認活動も各地で行った興行もこの発明も社会的な意味を十分持つと思いますね
同時期に同じような存在がいた点も含めて
てか欧米各地が動く写真に興味津々ですよねこの時期って
そのとき時代は動いたって感じします
この時期の映画史に触れる度にね
ソースを確かめずに学生時代に得た知識を披露しますと
写真と映画によって人間は神の視点を手に入れるんです
19世紀に神が死ぬのも納得ってわけ(適当言いすぎると甜に叱られるかも)
人間の認知とか思考とかにもかかわる大事件なんですよね
映画の誕生って
ロマンと畏怖を感じます
ここら辺のお話もたいへん興味深いので改めて学びたいです
みんなも興味あるよね
映画の赤ちゃんってこんな感じ
これはもはや豆知識的に紹介しますが、
ビオスコープは上の写真を見ると分かるように、2つあるレンズを半分磨りガラスになっている円形のガラスで交互に塞ぐことで高速にコマ送りすることを可能にしています
そのために撮影したフィルムを奇数と偶数で切り分ける必要があるという事実が果てしなくて震えます
教えてもらえばなんとか仕組みは理解できそうなアナログな仕掛けが今では教えてもらってもわからなそうな技術に発展していて人間ってすげ~となりますね(人間賛歌♪)
ちなみにリュミエール兄弟のシネマトグラフは簡単に言うと一つなぎのフィルムをハンドルと連動した爪でコマ送りする構造です
どちらの機構も1秒に16コマ
さらにシネマトグラフは投影だけでなく撮影も同じ機械で行えます
利便性を鑑みたらシネマトグラフに軍配があがるのも納得・・・・・・といったところです
ここまで今日のリュミエール兄弟とマックス・スクラダノフスキーの認知に差があるのには、シネマトグラフとビオスコープの機能的な差にも、リュミエール兄弟が企業家として資産も潤沢にあったのに対し、スクラダノフスキー家が家庭内工業によって細々と見世物装置の開発にあたっていたことにも、フランスとドイツの映画史という文脈における立ち位置の違いにもよる気がします
(最後は想像、よく言えば仮説)
映画史におけるドイツ映画の立ち位置もこちらの書籍で少し分かるといいなと思います
映画が好きってこと
ここからは本筋から離れた妄言タイム
映画の発明という話に触れるとき興味深いと思うのはエジソンのキネトスコープはあくまで映画の前身でしかないという認識が一般であることです
キネトスコープは、フランスの兄弟にもドイツの彼にも影響を与えているといわれています
※キネトスコープは接眼レンズ付きの覗き穴から滑車でコマ送りされる写真が連続的に見られる機械です
同時に一人しか見ることはできません
シネマトグラフやビオスコープと決定的に違うのは一人でしか見られないところでしょうか
それとも何かに映し出す映写機ではなくレンズを直に見るところでしょうか
どちらも大きな違いだと思います
映画論的な話になりますが家で見る映画と映画館で見る映画は体験として全く違います
私はかなり意識的です
圧倒的映画館派
でも家だったりで観たい作品もありますし、何でもかんでも映画館でやってる訳では無いのでサブスクもいくつか加入してます
1人で見るか知人と見るか他人と見るかも大きな違いです
空間が持つ意味が全く変わってくるし映される映像に対する認知だって変わってきます
なんなら映画館で見る映画以外は映画じゃないと言いたいくらいには映画館過激派です
これは私が映画が好きなのと同時に映画館が好きだからってのもありますが
気に入った作品は色んな映画館で見るタイプです
現代の映画論にはあまり触れたことがないのでいつかそんな本でも読みながらここら辺のことについて書きたいです
映画のサブスクの登場だったりファスト映画の流行だったり、色々な潮目を迎えているでしょう
ちなみにファスト映画は断固反対派です
あれで映画を観たとは言えません
言ってる人がいたらびっくりですが
ただただあらすじを知っただけですもんね
それでその作品の感想を言おうもんなら全然張り倒されても文句言えないですね
映画は文字ではなく映像で語るものなので
カットやショットが全てです
映画以外の情報はなるべく遮断して指定の速度で見るべきです
でも同時に映画は話の流れを知るためのものでも無いのでそこから観たいと思って観るのはありちゃありかなとは思います
それもまたストーリーを知らない映画体験とは全く話が変わってくるので勿体ないとは思いますけど楽しみ方は色々ですからね
もちろん違法アップロードは普通に犯罪なので全然規制されてくれと思っています
あとは4DXなんかも映画鑑賞ではなくアトラクション搭乗派です
4DXは楽しいので好きですがあれで映画を見たなという気にはなかなかなりません
映画はただ座って映像を見つめている自分とスクリーンの間での現象で演劇のような生の躍動では無いのがいいのです
続き物ではなく1本で完結するお話だとなお良いです
映画の中の世界が完全に私の世界を分断するからです
ドラマなんかは生活に混ざりこんでくるのであまり好んでは見ません
他人が同じ時間をスクリーンと共に過ごしているというのも私は好きです
スクリーンが同じものを映していても同じものは見られません
そこに映画の生を感じます
映画館で見るなら知人に限らず他に人がいて欲しいですね
1人で受け止めるには映画館で見る映画は重たい感じがします
コスト的にもね......
ただ映画館でポップコーンなんかを売っているせいで他人が食べてても自分で食べててもその音は気になります
映画館はチケット代ではなくポップコーンで稼いで何とかやりくりできている業態なので毎度苦渋の決断です
手元にあったら食べちゃうし(わんぱく)
テイクアウトするほどでは無いし
対価なしに寄付できるほどの余裕もないし
映画館ってもう少しうまい経営方法ないのかなってよく思いますね
映画そのものは好きだけど映画業界とか、変わるべきところは多いよね
これももう少し深められたらいいな......
とまあ、こんな感じで引き続き今回紹介した書籍を読み進め好き勝手なことを書いていくブログがしばらく続くかと思いますので
お暇でしたらどうぞお付き合いください
ではまた
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