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day2 守るとか見守るとか

小1の終わり、息子は学校に行きたくないと言った。
その日から、私はすぐに息子の不登校を受け入れた。
「学校に行きたくない」と子どもが発したとき、それは我慢に我慢を重ねたSOSだと、知識として知っていたから。

初動は正しかったと思う。
それでも、私はそれまで息子の苦しさに気づけなかった自分を責めた。

私には問題なく通っていたように見えていたのに、お友達に色々言われ心が折れていた息子。
学校というシステムに合わないのに、型にはめられて息苦しかった息子。
違う勉強法ならばイキイキとするのに、学校の授業は楽しめない息子。

そこから小2の夏休み前までは、無理に通わせる理由が見つからない。という親心で息子に合わせていた。

その間、何もしていなかったわけではない。
児童精神科に通って息子の特性について聞いたり、学校に一緒に行き、廊下から授業を見学したりもした。
児童精神科では、3年までは通えないだろうという見通しと
同時に、子どもをゆっくり休ませた後は、
いつまでも家にいるのではなく、次のステージに移行したほうがいいという、
なんとなくの方向性は示してもらっていた。

小2の夏休み明け、私が仕事を始めたタイミングで、息子には学校に通ってもらい始めた。
それは、我が家の経済的理由や、私の精神的理由もあったが
なんとなく「この子、行けるんじゃないか」という気持ちになったのに賭けたのもある。

「フツーになりたい」と言う息子は、通えない自分をダメな子だと思い、
いずれは通いたいから転校も嫌だと言い、彼自身揺れているように見えた。

揺れている彼を、わたしは包み込んで、守って、気持ちを代弁して、、、しすぎていた。
ある時、アートセラピーを通じて自分を見つめ直していた時に
もしかしたら、これは母性の弊害なんじゃないか、この子は本当は飛び立てるのではないか、という気持ちが湧いてきた。

息子は成長していて、新しいフェーズに突入していたのに、わたしはいつまでも同じ接し方をしている。
傷ついた息子をかくまって、家で充分に守った。
これからは、息子は外に出て行ける。傷ついたらまた家で癒やせば良い。

両手で抱えていた卵はいつの間にか割れ
立派な恐竜が生まれていたのだ。

「何か悪いことが起きるかもしれない」と不安ばかりを並べたら、身動きが取れない。
けれど、「たぶん、何かは起こるはず。その時は、こうしよう」を考えていたら、不安は小さくなる。

お母さんも仕事頑張るから、小学校頑張って。
家では思い切り楽しもうね。
このスタンスで通わせ始めて、現在小5。
今のところ、大きく躓くこともなく、通ってくれている。





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