人工世界・言語考#001:言語普遍的特性は人工言語制作における制約と見なされるか

人工言語制作に禁則があるとすれば

人工言語を創る上でやってはいけないこととはなんでしょうか。

まず、言語普遍的特性 linguistic universals について簡単にまとめます。言語普遍的特性とは、地球上のどんな言語でも普遍的に備えている性質のことを指します。何が普遍的特性にあたるのかは、当然ながら議論が分かれています。

人工世界というより大きな単位での設定を前提とする人工言語を創るうえでは、もっともらしい言語を創るためには、この言語普遍的特性を備えたものを創らなければならないように思えます。したがって、人工言語作者にとって、言語普遍的特性は人工言語を創るうえでのルール、制約として捉えることができます。このように考える人工言語作者は他にも確かにいるようで、日本の人工言語作者で知らない人はあまりいないと思われる「アルカ」のホームページには、以下のように書かれています。

最低限守るべきことは言語類型論における普遍性である。言語には次のような絶対的普遍性というものがある。
〈中略:普遍性の具体例の列挙〉
これらは問答無用で貴方の言語に取り入れなければならない。普遍性は我々にとって制約ではなく非常に便利なものである。たいていの作者はリアルに作り込もうと思ったときに、言語学の理論によすがを求める。このとき普遍性は大変便利に感じられる。

——「人工言語アルカ公式サイト
/言語学的に矛盾しない人工言語の作り方」
<http://conlinguistics.org/arka/study_yulf_146.html>

一方で、ジョージ R.R. マーティン原作の『ゲーム・オヴ・スローンズ』の人工言語(ドスラク語 Dothraki、高ヴァリリア語 High Valyrian 等)を手がけたデイヴィッド・ピーターソンは、自身のYouTubeチャンネルの 'ObConlang, Episode 2: Linguistic Universals' という動画で、'[Linguistic universals] are completely and totally non-useful for conlangers'「言語普遍的特性は人工言語作者にとっては完全に、まったくもって役に立たない(拙訳)」と断じています*1。
*1: Peterson, (2017). 'ObConlang, Episode 2: Linguistic Universals'. My transcription and translation into Japanese.

この記事で論じたいのは、このような言語普遍的特性は本当に人工言語を創作するうえで従わなければならない規則と言えるのかどうかという点です。人工言語を創るうえで、作者が犯しうる「間違い」なるものが存在するのかどうかを、人工世界の言語以外の部分にも目を向けながら考えていきます。

なお以下の記述は、僕自身の制作条件(この世界とは異なる時空間に存在する世界でありつつ、この世界との時空を超えた繋がりをもつ世界の中で使われる言語を創ること)を前提として書かれています。したがって、本質的にこの記事は、「すべての創作者/作品がこうあるべきである」という「べき論」を展開するものではなく、あくまで僕自身が自分の人工言語創作の指針を据える上で思考の過程を整理したものと考えてください。

予測不可能性

人工世界創作の最大の苦難が、人工世界の予測不可能性だと考えています。

どういうことかというと、人工世界の創作者には、自分の創造している世界に科学的な矛盾がないかどうかを知ることは到底できないということです。これはそもそも、人工言語の創作者が「リアルな」人工世界を創造するために使える道具は、現実世界の学問をベースとしていて、どんな分野においても完全に解明された事柄というものは存在しない、言い換えれば学問には終わりがないからです。理論的には、これまで地球上に存在したあらゆる学問のあらゆる分野においての専門家になれば、ある程度(完全にではありません)矛盾を検査することは可能ですが、頑張っても100年そこそこしか生きられない人間にはそれは不可能です(ちなみに、海外にはチームで人工世界を創っている集団も実際にいるようです。なおボルヘスの短編「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」には、そのような形で創作されたという設定の架空の世界「トレーン」が登場します)。

この世界の地球以外の星の生命体すら発見できていない人類は、参考にできるケーススタディを一例しか知らないのです。だから、人工世界の創作者は、「自分の創造している世界が完璧には決してなり得ない」ということを自覚しながら、それでも作業を続けねばならないのです。

ある一つの側面で、少しでも地球とは違う設定を自分の創造する惑星に持たせたら、それが他の設定にどんな影響をもたらすかを予測することはできません。架空世界を舞台とした物語には往々にして魔法(ないしそれに準ずる超自然的な能力)が登場しますが、例えば火を生み出す魔法が存在する世界なら、我々の世界の熱力学の法則は通用しないことになります。そして、重要な物理法則の一つである熱力学が通用しないとなれば、それは必ず他の側面に影響をもたらします(鍋ややかんの形状、引火性のある物質の取り扱い規制……)。こうした現実世界からの大小のズレは、バタフライ効果をもたらし、予測不可能な規模での影響を世界全体にもたらすことになるのです。

言語普遍的特性を考えたときに、ある特性がどのような要因で生じ、どのような経緯でマジョリティとなったのかは、多くの学者が未だ答えらしきものにたどり着こうと苦労しているところでもあり、言語学の分野の中だけで完結する問題ではないように思われます。したがって、人工言語を人工世界の文脈において考えたときに、人工世界の方がある程度現実世界と異なるのであれば、このような現実世界の言語普遍的特性と全く同じものが人工世界の方に存在する保証はひとつもなくなってしまうに等しいのです。
(言語学がわかる人向け:言語普遍的特性以前に、現実の言語でSOV語順とSVO語順がもっとも類型的に多いことは、認知や運用の上で何らかのアドヴァンテージがあったことが一つの要因として考えられますが、そうだったとしてそのアドヴァンテージは何によってどのように形成されたのでしょうか。そのアドヴァンテージを生じさせたのと全く同じ要因が人工世界にあるのでなければ、その世界でもSOV・SVOが多数派になる理由はないのではないでしょうか。)

以上のことから、現実世界の言語普遍的特性は、人工世界の中では必ずしも成り立つものではないと考えます。したがって、「言語普遍的特性を人工言語制作における制約と考えるべきか」という問いに対しては、僕の答えは「その限りではない」ということになります。

では、現実の人類の言語とはかけ離れた言語を創造するべきなのでしょうか。

上記に述べたとおり、人工世界は、命に限りある人類にとっては予測不可能です。したがって、人工世界に与えたさまざまな特徴が、そこにすむ人類の言語に及ぼす影響を全て計算して、完全に矛盾しない言語(たち)を創造することも実質不可能です。そこで、「言語普遍的特性を人工言語制作における制約としても構わないか」も合わせて考えたいと思います。

必然性/正当性

創作者が何かを創造するときに、その被造物に与える特性は、全て選択の末に与えられるものです。どういうことかというと、例えばある創作者があるキャラクターを創造するとして、そのキャラクターが女性なのか男性なのか、あるいはどちらとも言えないのか、背が高いのか低いのか、肌の色は何色なのか、そして(これはもっとも本質的な選択と言えると思うのですが)名前は何なのかを選択することになるでしょう。

僕がこのような選択をするときに大切にしたいのは、ある特性を与える(もしくは与えない)ことに、必然性を持たせることです。この必然性は正当性と言い換えることもでき、僕はこの必然性を持たせる行いを「正当化」と呼ぶことにしています。

(なお、「正当化」というと日本語では微妙にネガティヴな意味がつきますが、これは英語 justification の訳だと考えてください。)

人工世界の創作とは、このような選択と、それに伴う選択の正当化の連続です。架空世界というと、我々人類は自動的にその世界にも我々とそっくりの姿をした生物がいて、我々が使う言語にそっくりの性質を持っている言語を話すものだということを、ほとんど自動的に考えてしまうのですが、実はここにも選択の可能性があります。裏を返せば、人工世界の予測不可能性があるからには、現実の人類とほぼ同じ生物を人工世界に登場させたいなら、それに観客を納得させられるようなまっとうな理由をつけ、その選択を正当化しなければなりません。そもそも、生物が住める惑星が一つしかないものと決まっているわけでもありません。

現実の人類にそっくりな存在が人工世界にいることにしたいのなら、彼らが存在しなければならない必然性を考えなければなりません。僕はこの問題を、現実世界と人工世界フィラクスナーレは時空を超えた繋がりをもち、フィラクスナーレが滅亡するときに人類といくらかの生物の霊魂(ヴァロケリム語「スィー」'si')が現実世界に移住してきたのだという設定を創ることによって解決することにしました。体ごと移住してきたわけでなくても、人智を超えた存在によって転生させられた存在とすることによって、同じような身体的・精神的構造を持った生物らが異なる世界に存在していることに必然性を持たせることにしたわけです。

この世界とは異なる世界が存在したとして、その世界がこの世界と同じ原理で動いている保証はどこにもありません。しかし創作者が人工世界を創る場合、観客が納得できるようなまっとうな理由があれば、この世界と同じ特質を持たせても構わないことになると思います(僕はこの正当化が足りていない異世界ものの作品が溢れていると感じていて、例えばMMORPGゲームの類にはなかなか満足できなくなってしまいました。これについてはいずれ別の記事かYouTube動画を出そうと思っています)。

これについては、先述のデイヴィッド・ピーターソンが同動画の中で言っていることがかなり的を射ていると思います。

[T]hese things are not necessarily going to be as useful in for example determining whether a conlang is realistic or not — it's more about the story about how you got there. So, for example, if you have a word for foot and leg, but then only one word for hand and arm, why? How did that happen?
これらのもの(=言語普遍的特性)は、ある人工言語がリアルかどうかを判断する上で必ずしも有用なものじゃないんです。それより、どうしてそうなったのかのストーリーが問題です。例えば、もしあなたの言語に脚と足に別々の単語があって、手と腕には一つの単語しかないとしたら、それはなぜですか? どうしてそうなったんでしょうか?
—— Peterson, (2017). 'ObConlang, Episode 2: Linguistic Universals'. My transcription and translation into Japanese. <https://www.youtube.com/watch?v=azKD7ANtkKw>

僕個人の答えとしては、「きちんとした正当化がなされていれば、言語普遍的特性を人工言語制作における制約と考えても構わない」ということになります。

まとめ:予測不可能性・不完全性への絶望を超えて

実はこれを書いているときに直近数時間分くらいの文章がなぜか吹っ飛んで(おかげで上のピーターソンの文字起こしと翻訳もやり直しでした)、このまとめを書くのは2回目なのですが、何を書いていたのかちょっと覚えていないので若干据わりの悪い終わり方になってしまいますが……。

まずもって、人工世界制作において絶対のルールは存在しないと考えます。言語普遍的特性もその例外ではありません。これは、学問がいまだに現実世界を解明しきれていないことと、現段階で人間の力では架空の世界を全てシミュレートするのが不可能であるということによって裏付けられます。

しかし一方では、本質的に予測不可能な人工世界制作において、さまざまな制約から、作者は人工世界を自分の住んでいる世界にある程度近づけることを余儀なくされます。その時に何をどこまでこの世界と同じにするかと、同じにする物事についてそれをどう正当化できるのかが重要だと思います。その正当化の末に、ピーターソンが言っている「物語」が生じることができるのです。

つづく。

たぶん。

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