街の喫茶店@横浜方面

「あー…、疲れた。」

新卒と思われる若いサラリーマンは、スマホの通話を切ると地底に響き渡るような声をあげて、ため息をついた。今は6月、新卒で会社に入り、新人研修を終えて飛び込み営業をさせられているのだろう。先ほどからその若いサラリーマンは、喫茶店の奥の一角に陣取り、スマホでテレアポの電話を幾度となくかけ続けていた。

田所は、それとなくその若いサラリーマンの動向をうかがっていた。フリーライター田所洋介は、その仕事柄、都内近郊のあちこちの喫茶店に出没する。今日は、締め切りが近い原稿があったため、自宅近くの喫茶店にて最後の追い込みをかけていたのだ。

若いサラリーマンは、再びスマホを手にして電話をかける。

「あのー、わたしくしネクストステージの竹林と申しますが、人材募集の広告の案件を扱っておりまして、是非一度ごあいさつに…、あ、はい、あ、そうですか。はい、また改めます。」

若いサラリーマンは、スマホの電源を切る。

「あー…、疲れた。」

再び、洞窟の奥に広がるような声をあげる。電話先で、またもや軽くあしらわれたらしい。田所はコーヒーをひとくち飲んだ。この店は、いつもハンドドリップで丁寧にコーヒーを淹れてくれる。いつものカサブランカの味わいは、ほどよい苦みと酸味が一体となって、仕事で疲弊した田所の全身をそっと癒してくれる気がした。
いつからであろうか、田所が喫茶店を訪れるたびに、喫茶店でひまをもてあそぶサラリーマンと同じくらいの割合で、喫茶店で営業電話をかけ続けるサラリーマンを目にするようになった。本来喫茶店というものは、携帯による通話を注意しそうなものだが、今まで田所は営業電話をかけまくるサラリーマンが店主から注意されたところを見たことがない。喫茶店での営業電話は、容認されているのだろうか。先日ネットニュースか何かで、営業マンがカーシェアを個室として借りるケースが増えているというニュースを見た。個室の中で営業電話をかけたり、仮眠をとったりしているらしい。しかし、今目の前にいるサラリーマンのように、喫茶店の中で堂々と営業電話かける者もいる。


「また、だめだったの?」

喫茶店の女店主がそう声をかける。

「いやー、もう本当にだめですよ-。あー、もう帰りたい。」

そう言って分かりサラリーマンは、煙草に火をつける。若いサラリーマンが電話をかけているときと、電話を切ったときの声のトーンがまるで違う。電話を切ったときの彼の声色は、きっと実家のお母さんに聞かせるような飾り気のない素のトーンなのだろう。

「何がいけないんでしょうね、何かコツとかあるんですかね。」

そう、若いサラリーマンは女店主に声をかける。

「そうねえ、やっぱり、運じゃないかなあ。」

女店主は、自家製のシフォンケーキに包丁で切り目をいれながら、そう答える。

「運ですか…。」

若いサラリーマンは、うなだれる。運かぁ、と自分に言い聞かせるように繰り返す。

「うん、運だと思うよぉ。だってさ、求人広告なんて誰しもがいつでも出したいもんじゃないでしょ。だから、運良く人を欲しいなぁって思っているところに営業に行ったらすぐに取れるわけじゃない?」

女店主はシフォンケーキをさらに乗せると、6分立てにした生クリームを添える。

「運ですか…。」

若いサラリーマンは、そう繰り返す。

「だからさ、そのためには1件、1件断られたからといって落ち込まないで。こんなもんなんだーって思っておくことが大事なんじゃない?」

女店主はそう言いながら、シフォンケーキを田所のところに運んだ。レモンのシフォンケーキです。そう言って田所の前にそっと置く。

「私もね、不動産の営業やってたんだよ。その時ね、営業でトップだった先輩は、やっぱりはきはきしてたよね。明るくはきはきしてて、お得意先と仲良くなっちゃうの。」

なるほど、そう言いながら若いサラリーマンは煙草を吸う。

田所はフォークでやわらかいレモンシフォンケーキに切り目をいれる。一口サイズに切って口の中に放り込む。ゆっくりと咀嚼する。初夏らしい爽やかな酸味が口の中に広がる。そしてカサブランカを口に含む。爽やかな酸味と、心地よいコーヒーの苦みが、田所の疲労を、やさしくやり過ごしてくれるような気がした。

「だからね、若いんだから、やっぱり若いなりに、はきはきするのが大事なんじゃないかな?あとさ、女性が多いお店とかであれば、若い男の子に対しては、一応話くらい聞いてくれるんじゃないかなあ。」

なるほど、そう若いサラリーマンはつぶやくと、再び電話をかけはじめる。ネクストステージの竹林と申します。はい、あ、なるほど。はい、また明日かけなおします。声には全く覇気がない。人のアドバイスを聞くことと、それを実行することには、深い深い谷のようなへだたりがある。

若いサラリーマンは煙草の火を消し、スマホを鞄にしまった。

「それじゃ、また来ます。」

そう言って立ち上がると、レジに向かう。

「いってらっしゃい。今日まだ5件回らないといけないんだもんね?ほら、はす向かいの化粧品屋さん、こないだ人探そうかって言ってたから行ってみなよ。私がそう言ったって言っちゃだめだよ?」

女店主はそう言って、レジスターからおつりを取り出す。

「分かりました。ありがとうございます。」

若いサラリーマンはおつりを受け取ると、重い足取りで外に出た。頑張ってね!そう女店主が声をかける。

田所は、外に出ていく若いサラリーマンを視界のはしにとらえながら、レモンシフォンケーキに、今度は生クリームをたっぷりつけてほおばった。レモンの爽やかな酸味と、甘さが控えめの生クリームの組み合わせが口の中に優しく広がる。そして、カサブランカを一口。あの若いサラリーマンも頑張っている。俺も、頑張って仕事をしあげるか。田所はVAIOのラップトップPCに向き直った。

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