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【ドラマ感想】”初恋の悪魔”はどれくらい怖い、のか

『初恋の悪魔』最終回を目前に、今の自分の作品への印象を備忘録として。あと1時間とすこし後にはここに書くことが大きくひっくり返っているかも?しれない…

『初恋の悪魔』はチェンソーマンのキャラじゃなく、超絶良ドラマ

日テレのドラマ『初恋の悪魔』がTwitterでトレンド入りしたとき、こんな面白いツイートを見かけた。

―“初恋の悪魔”ってチェンソーマンの新キャラかと思ったら、ドラマのタイトルか

悪魔が登場するジャンプ漫画、『チェンソーマン』。わたしも好きで読んでいる。この漫画に出てくる悪魔たちは、”チェンソーの悪魔”や”銃の悪魔”など、さまざまな恐怖の対象の名前を冠している。

『初恋の悪魔』という語感は、たしかにその列に名を連ねそうだ。

がしかし、これは新キャラ悪魔の名前ではなく、この夏わたしがいちばんハマった良作ドラマのタイトルだ。

そんな『初恋の悪魔』は、まもなくクライマックスを迎える。

このドラマが始まったとき、メインキャストのひとりである松岡茉優さんは

「観るのが楽しみなドラマがあれば、また1週間がんばろうって気になれる」

…的なことをおっしゃっていたのだそうだけど、まさしくこの3か月、土曜10時の4チャンネルがどれだけ私のモチベになっていたことか。

Twitterでみかけたほかの視聴者もつぶやいていたけど、ここまで頭の中をいっぱいにされる作品は久しぶりだ。

そもそもドラマをリアルタイムで観る、という行為自体から最近離れがちだったのだが、『初恋の悪魔』には毎週決まった時間にテレビの前で正座させられるような求心力があった。

(もっとも視聴率はこれまであまり奮っていないそうなので、この求心力が効くのはニッチな範囲なのかもしれない。それにしても、テレビはそろそろ視聴率以外のKPIでもきちんと評価をされていいと思う。)

終わってしまうのはとても寂しい。

これまでにも、お気に入りのドラマはいくつもあった。たとえば、同じく坂元裕二氏が手掛けた『カルテット』も『大豆田とわこと3人の元夫』も、毎週笑ったり泣いたりひどく心が揺さぶられて、最終回前には「どうなるの?早くみせて!」という気持ちと「やだやだ、終わんないで…」という気持ちがせめぎあっていた。

今回もそうだ。好きなドラマ、というのは、ストーリーが面白いのと同時に、出てくる登場人物たちに苦しいほど惹かれてしまうものだ。そうだ、それこそ恋するみたいに。

そういうドラマは終わってしまうと心にぽっかりと穴があいたようになる。いわゆるロス状態。だけど、そのがらんどうになってしまった場所に、気づけば何か光るものが残されていたりする。

観ている最中に印象深かったシーンはもちろんのこと、「ああ、あの場面のあの台詞。あれはわたしのためのものだったな」と、あとから思い出した言葉に救われたりする。

『初恋の悪魔』は最終回のその先で、わたしの心に何を残してくれるだろう。

初恋の悪魔が翻弄するもの

ところで、本作にはいくつか大切と思われるキーワードがある。まず、タイトルの“初恋”と“悪魔”。2つの言葉は、登場人物の発言としても、概念的な存在としても、ドラマの中で反復して登場している。

―世の中をうらむ悪魔になっちゃダメ

―なんというか、自分にとっては…おかしな言い方ですが、雪松さんは、初恋の人のようなものです

話をちょっと冒頭にもどす。

“初恋の悪魔”をチェンソーマンのキャラクターだと勘違いした人たちのつぶやきの中に、「初恋の悪魔って強そう」という趣旨のものがいくつかあった。

チェンソーマンの作品世界において、悪魔の強さは、そいつが冠する名前(チェンソーや銃など)がどれくらい人々に怖れられているかに比例する。

“初恋の悪魔”が強いなら、初恋というのはつまり、恐ろしいものということだ。

なんで初恋がこわいんだろう。

未知の体験への恐怖?

うまくいかなかったとき、失恋の痛みを味わうことへの恐怖?

初恋は、“胸がきゅんと狭くなる”ような可愛らしいドキドキと甘酸っぱさをもつ一方で、たしかにわたしたちを脅かしそうな一面を持っている。

そのいちばんのワケは、初恋とはひとの自我を大きく揺さぶり翻弄するものだからではないだろうか。

ドラマ『初恋の悪魔』において、もうひとつ大切なキーワードは”自我”なのではないかと思う。

あるいはアイデンティティ、自己、自分自身とは?という問い。どの単語をはめてもちょっとしっくりこないのは、作品の中であえて明文化されていない主題だからなのかもしれない。

自我についての物語

この物語には4人、メインとなるキャラクターがいる。鹿浜鈴之介(林遣都)、馬淵悠日(仲野太賀)、摘木星砂(松岡茉優)、小鳥琉夏(柄本佑)。

こうやって並べてみると全員なんて美しいネーミングなんだろう…という感嘆はひとまず置いておき、彼らはそれぞれ、異なるベクトルから”自我”や”自分”というものと独特の距離感をもつ人物だと思うのだ。

鈴之介は、他人と相容れない孤独を抱えながら、それでも”自分”を塗りつぶすことなく守って生きてきた。

悠日はその反対で、自分の中に在る怒りや妬みを押し殺し、穏やかな笑顔を外面に保っている人物。が、ストーリーが進むにつれて、その”自我”が徐々に表へとあらわれ出していく。

星砂は、”自分”がわからない。2つの”自我”をもつ彼女は、「本当のわたし」がどちらかわからないし、片方の自我が眠っている間、もうひとりが何をしているか知りえない。しかも、「”自分”はにせもので、いつか消えるのはわたしなのではないか」という恐怖が常につきまとう。

で、ことりん(琉夏)の考察はちょっと難しいし無理やり感があるんだけど、彼は”自分”を俯瞰している存在なのではないかと考えている。

「僕がジョギングをしたら行きつく先は病院」、「(自分の話をあまり聞いてくれない悠日に対して)僕、めんどうくさいって以外に何かした?」、などの発言はそのあらわれなんではなかろうかなぁ、と。

ただ、9話のラストでことりんがちょっと不穏な動き(意味もなく帽子をどかす、玄関先の血痕をのんきな様子で見つめる等)をみせていたので…ほか3人とは別枠で考えた方がいい=事件に関わっている側の人間説も浮上してきた。ことりん、どうか黒い白鳥ではありませんように…あ、でも名前に鳥って入ってる…。

ちょっとことりんに心をかき乱された。

さて、いろんな呼び方(自我、自分、自己、アイデンティティ)があるけれど、”それ”は自分を定義するものだ。だけど、自分を定義するってけっこう難しい。

「あなたをあなた自身とたらしめているものはなに?」
「これは自分、これは自分じゃないって何で決まるの?」
「自分らしいってどういうこと?」

『初恋の悪魔』をみていると、ふとそんな疑問が自分の中に芽生える。

上にあげた問いにさっと答えられる人は限られるんじゃないだろうか。

たとえば、ずっと「自分はだんぜん犬より猫派だ」と思って生きてきた人が、ある日捨て犬を運命的に拾ってしまい、その犬を飼ううちにすっかり犬好きになる…みたいなこと。

もっと些細な例でいうと、ずっと食わず嫌いしていた食べ物を食べてみたら意外と美味しくて、それからすっかりへっちゃらになっちゃうようなこと。

人生にはたまにそんなことが起きる。それまで認知していた自分がガラリと変わってしまうような。でも、犬を好きになったわたしも、トマトを食べられるようになったわたしも、それまでと変わらずわたしだ。

自分自身とは、いちばん身近なようでいて、実は最も濃い”マーヤーのヴェール”に隠された存在なのかもしれない。多重人格などでなくても、わたしたちには常に、見えていないもうひとり(もしかしたらふたり、それ以上?)の自分がいる。

なかなかルービックキューブのそろった面のように、人間とはパッキリとこう!と定義できるようなものではないだろう。

そして、そんな見えていなかった”自分”を隠していたものがべりっと盛大にはぎとられるような出会い。それこそが、きっと初恋だ。

もしかして、初恋にはぎとられたヴェールの向こう側にいたのは悪魔だった…!なんてことも、あるのかもね。

ああ、もうすぐ最終回になっちゃう。インスタライブにも集中したいので、雑感を残しておくのはここまで。ちょっとまとまりきってないんだけど!

最後のマーヤーのヴェールがはぎとられたとき、そこには一体何が待っているんだろう。

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