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【短編小説】鮫島刑事の災難

副題「ミラー博士の楽しいサンプル集め」

以前書いた下記の小説

「優雅な貴婦人」と緩く繋がっています。そちらを先に読んだほうがわかりやすいかもしれません。


「鮫島刑事、事情聴取が終わりました。奴で間違いありません」

 恵比寿天神のような柔らかな顔つきの後輩、亀山刑事が報告する。

「そうか。では四ツ目が犯人だったわけだな」

 鮫島はふーっと息をはき出した。無事に一件落着しそうだ。

「亀山、ちょっとこっちこい」
「はい!」

 別の刑事に呼ばれて走っていく亀山の背中を一瞥し、鮫島は書類に目を落とす。

「にしてもどうしようもない奴だな。四ツ目という男は」

 四ツ目はある殺人未遂事件の容疑者だった。事件が起こったのは十日ほど前の明け方。男性が路上で倒れているのが発見された。幸いにも発見されるまでそう時間がかからず、彼は一命をとりとめた。
 その後の捜査で現場からすぐそばの路地裏のゴミ箱の傍で血のついた包丁を発見。聞き込みからある程度は絞られていたが、包丁に付着した指紋が決め手となった。
 四ツ目は絵に描いたような転落人生を送った男だった。大学受験に失敗してからというもの、就職にも失敗し、職場を転々としている。ここ最近は年老いた両親に金の無心をするばかりでろくに働きもしていない。

「周囲の評価も散々で毎日誰かの悪態をついては、酒に浸る日々。被害者にゴミ出しについて注意されたことで逆恨みをし、犯行に至ったと。まったくとんだ親不孝者だな」

 読めば読むほど目も当てられない人生だ。この男は刑務所に入ったとしても更生させるのは難しいかもしれない。歳も歳だ。もう四十路に差し掛かっている彼が出所しても、その先は明るくないだろう。
 全ての人はどこかで必要とされている。かつて父が言った言葉を思い出す。どうしようもない彼にも必要とされる場所はあるのだろうか。
 知らず知らずのうちに資料に皺がよっていた。

「鮫島刑事、円坊警部が呼んでいるぞ」

 思考の海から浮かびあがらせたのは同僚の声だった。

「今行く」

 鮫島は資料を置いて警部のもとへと向かった。


「お呼びでしょうか、円坊警部」
「ああ、鮫島君か。忙しいところすまないな。君に要件があってね」

 円坊警部は大柄な男だ。すでにほとんどの頭髪はなく、卵のような輝きを見せている。そのせいか人あたりのよい印象だ。しかし温厚そうだと舐めてかかると痛い目をみる。この人が現場で指揮していた時代から刑事をやっていた鮫島は心底思う。強面だと恐れられる自分よりもあのときの警部のほうがよほど恐ろしかった。

「何でしょうか」
「今から話すことは極秘だ。他言無用で頼むよ」

 いつも穏やかな笑みを浮かべている瞳が現役時代を彷彿とさせる鋭い光を宿す。鮫島の喉がごくりと鳴った。

「四ツ目の件なんだが、あれは裁判後、刑務所には入れないことにした」
「そ、それはどういうことですか、円坊警部!」

 奴は殺人未遂を犯している。どんな敏腕弁護士であったとしても奴を釈放することはできないはずだ。ニュースでも取り上げられた事件である。そんなことをすれば世間が黙ってはいないだろう。

「まあ聞きたまえ、鮫島君。もちろん表向きは懲役刑が下されて、奴は刑務所行きになるだろう」
「ですがっ」

 言い募ろうとした鮫島を円坊警部は手で制す。

「何も奴に何の咎めも与えずに野に解き放つわけじゃない。奴はある研究所に行くことが決まった。君にはその研究所の責任者の案内を頼みたい」
「やあこんにちは。ミスターサメジマ。今回、ご紹介にあずかった者です。どうぞよろしく」

 いつの間にか円坊警部の横に長身瘦躯の男が立っていた。端が薄汚れた白衣をまとったもじゃもじゃ茶髪の彼はいかにも科学者といった格好だ。差し出された名刺の名前は英語で発音がわからない。なんと呼べばいいか尋ねる前に彼が口を開いた。

「私のことは博士と呼んでくださって構いません。さあそのヨツメとやらのところまで案内してください」

 早くと言わんばかりに背を押される。言葉は丁寧だが、強引ではないだろうか。戸惑う鮫島に円坊警部は肩をすくめて扉を指さした。

「鮫島君、頼んだよ」
「はっ」

 上司の命令は絶対だ。それがたとえ胡散臭い男を押しつけられたとしても、命令である以上やらなければならない。鮫島はため息を押し殺して、部屋を後にした。


「ところで、そのヨツメとやらはどこにいるんだい。さっさと案内してくれたまえ。それ以外は別にいらないから」
「博士、そこまで急がなくても四ツ目は逃げませんよ」

 建物の構造すらわかっていないというのに、この博士は鮫島を追い越す勢いで歩いていく。しかも円坊警部のところでは一応かぶっていた皮も脱ぎ捨て、尊大な態度が鼻につく。それでも警部がわざわざ紹介するような人物だ。鮫島は丁寧な態度で博士をやんわり宥めた。
 瞬間、白衣が翻ったかと思うと、鼻と目の先に博士のレンズが光る。

「サメジマ君! 君ねえ、私はヨツメのことなんざどうでもいいんだよ。私が知りたいのはただ一つ、彼らがそいつについているかどうか。それが知りたいだけだ。ほとんど確定しているとはいえ、この目で見なければ気が治まらない。わかったら足を動かしたまえ」
「な……」

 鮫島は絶句した。四ツ目のことなどどうでもいいだと? ではこの博士は一体どのような思惑があって四ツ目を引き取ろうとしているのだ。止まってしまった足に博士が剣吞な瞳を向ける。鮫島はとりあえず胸中の疑問を振り払い、勾留所まで博士を案内することに集中した。

「なんでもいいだろうが! あの野郎がゴミ出しごときでグチグチ言ってきたのが悪い。俺は何も悪いことはしていねえ!」

 四ツ目の態度は相変わらずだ。警官のみならず被害者のことまで悪し様にこき下ろす。そこに反省の余地は一切見られない。

「博士、こいつが四ツ目ですが……」

 振り返った鮫島はそれ以上言葉が出なかった。

「素晴らしい! なんと素晴らしいサンプルだ。ああ、これほどまでの個体を見たのはこの前クラスAサンプル以降初めてだ。ワンダフル! ああ、最高だとも。君の美しさはこんな肥溜めのような場所でも損なわれることはない」

 博士の目がキラキラと輝いていた。子供のようにはしゃぐ姿は対象先を見なければ微笑ましかったかもしれないが、その先は人生どん底のニートただ一人。
 この博士頭おかしいのではないだろうか。まず四ツ目を移送する前にこの博士を病院に送ったほうがいい。鮫島は心の底からそう思った。

「博士、刑事さんが引いていますよ。そこらへんにしてください」

 別の声が割り込んできて鮫島はそちらをみやった。そこに立っていたのは博士よりも小柄な男性。顔立ちからしてどうもこの国出身の者のようだった。

「ミナツキ君か。君、いったいどこに行っていたんだい? おかげで鮫とつくくせに亀のようにのろい刑事君に案内をしてもらう羽目になったじゃないか」

 鮫島のこめかみに青筋が立つ。が、鮫島が口を開く前にミナツキが言った。

「博士、どうせ刑事さんに無理難題ふっかけたり、腹だたせるようなこと言ったりして余計な手間とらせたんでしょう。刑事さんもすみませんね、この人ちょっと変わっているんです」

 先手必勝とばかりに謝られれば、こちらも矛を引っ込めるしかない。鮫島は了承の代わりに小さく頷いた。

「ところで博士、これで満足しましたか?」
「ああ、十分だ。いや十分ではないな。一刻も早くこのサンプルを持ち帰りたい。ミナツキ君、もういっそのこと裁判にはそっくりの奴を出して、これは本国に持ち帰ってもいいかね」
「なっ!?」
「いいわけないじゃないですか。何言っているんです博士」

 とんでもない物言いに思わず掴みかかりそうになった鮫島を目で止め、ミナツキは冷ややかに博士を見た。

「度々すみません。この人、外国人なのでこの国の制度に明るくなくて」

 こちらに対しては申し訳なさそうに頭を下げたものの、鮫島の堪忍袋の緒はもう限界であった。

「いくら外国人でしょうが、高名な学者様でしょうが、先ほどから失礼が過ぎるのでは? 第一、いくら容疑者だとはいえ、四ツ目は立派な人間です。それを、サンプル、サンプルと……冗談も大概にしていただきたい!」

 声を荒げた鮫島は子供どころか大人まで泣き出しそうな迫力であったが、博士は興味なさそうに一瞥をよこしただけであった。

「サンプルはサンプルだ。何か私は間違ったことを言ったのかね?」
「なんだと?」
「刑事さん!」

 思わず鮫島は掴みかかった。慌ててミナツキが引きはがそうとする。だが鮫島は現役の刑事だ。一般男性程度の力では離すのも難しい。

「じゃあなんだね? 君の言う通り決められた手順で刑務所に送り、そこで更生プログラムを受けさせればあの男が再び社会に戻れるというのかね?」

 博士は動揺もしない。それどころかさらに煽る。

「っ、それは厳しいかもしれない。だが、更生の機会は全ての人に与えられたものだ。それをお前が奪っていい理由にはならない」
「典型的な正義漢だな君は。それで変わるというのならば苦労しない」

 掴んだ腕に力がこもる。息が苦しいはずなのに博士は冷笑を浮かべていた。

「いい加減にしてください博士! 刑事さんも! こんなことは言いたくありませんが、このままでは厳罰処分ですよ、いいんですか」

 さらに力をこめる前にきっと睨みつけるミナツキと目が合う。その瞬間、血が上っていた頭が少しばかり冷えた。博士はともかく、直接関係のないミナツキに迷惑をかけるわけにはいかないだろう。何より自分は警察官だ。これ以上桜の代紋に恥を塗るようなことはしたくない。
 ぱっと手を離して頭を下げる。

「すみません、無礼な真似を」

 博士はゲホゲホと咳き込んだ。

「まったくだ。酷い目に」
「博士の自業自得じゃないですか」

 文句を言うより先にミナツキが冷たく吐き捨てる。

「それでは出口までご案内いたし」
「ちょっと待ちたまえ」

 博士が鮫島を呼び止めた。

「君が先ほど述べた答えによると、君は更生プログラムであの男が変わるかもしれないと一縷の希望をもっているのかね? それでそれを潰そうとする私に怒りをぶつけたということかね?」
「……たしかに更生プログラムは万能ではありません。実際再犯率も低くはない。それでもやらないで切り捨てるわけにはいかないでしょう」
「君は一つ誤解している。まず我々はあの男を更生させたくないわけじゃない。むしろ更生できるものなら万々歳だ」

 鮫島は疑わしい目で博士を見た。傍らのミナツキでさえも信じられないようなものを見る目つきを博士に送っている。

「え、博士、ジョークのセンスなさすぎでは?」
「ミナツキ君。君、最近毒舌っぷりがジェリー君に似てきてないかい? 嫌だねえ。君まで彼みたいになってしまうと研究室がギスギスしてしまうじゃないか」
「大丈夫です。博士はたとえ氷点下のような空気であっても目の前に彼らがいれば常となんら変わりませんよ」

 あまりにも明け透けに言うので、鮫島は目を見張った。言い方から部下のようであるが、この二人は一体どのような関係なのか。この国では到底考えられないほど、気安い間柄と見て取れる。それとも海外は皆どこもこのような感じなのだろうか。

「とにかく」

 咳払いを一つして博士は改めて話を切り出す。

「あの男はある病のようなものにかかっている。我々はそれを研究する機関に属していてね。その治療法を探るためにあの男の身柄をもらい受けたい」
「病? しかし身体的にはどこにも異常など……。精神疾患の類ですか?」
「違う。だがそれを君に説明してもわかるまい」
「命に別状はないですし、判断能力にも異常ないと思いますが」

四ツ目がいくら落ちぶれていようとも、心身耗弱者には当てはまらない。身体に至っては言わずもがなだ。
 首を捻る鮫島に博士は咎めるような視線を向けた。

「君、言っていることが矛盾していないかね? 君はあの男に更生してほしいと思っているんだろう?」
「まあ、誰しも平等にその機会は与えられるべきだと思いますが」
「ではなぜ私を疑う? 私のところに預けられるのが最善だというのに」
「博士のところに行く必要があるのかと考えただけですよ。そもそも本当に四ツ目は病気に罹っているのですか」

 障害があるわけでもない、運動不足の気はあるが至って健康体。そんな男が治療法も確定していないような重篤な病に罹っているとは到底思えなかった。博士はあからさまなため息をついた。

「まったく、この国の言葉に知らぬが仏という言葉があるらしいがまさにその通りだ。私は仏教徒ではないが、無知というものはあまりに楽観的であまりに愚かだ。いっそ憐れみを覚えるまでにね」
「なっ……」

 鮫島は反論しかけたが、博士はそれに被せるように言葉を紡いだ。

「君はインフルエンザに罹っているのに湿布を張るかね? 骨折したときに風邪薬を飲むのかね? 君がさっきから言っているのはそれと同じことだ。平等? 最初からそんなものはありやしない。あれが君のところのかたっ苦しい法律に則ったところであれは変わらない。いや変われないのだ」

 軽蔑さえ混じった薄い茶がこちらを見据える。

「どうせ変われないのであれば、どうせ社会のゴミになるのであれば、せめて少しでも貢献してもらいたいとは思わないのかね? 私たちはあの男を必要としている。少なくとも君たちよりはあの男の価値を見出していると思うよ」

――全ての人はどこかで必要とされている
 不意に父の言葉がよみがえる。尊敬する、殉職した父が彼に重なったようで、鮫島は首を振った。この男とは一緒にしたくない。

「さて余計な時間を費やしてしまったようだ。帰るぞミナツキ君。元より交渉は済んでいる」
「いや博士が長引かせていたんじゃないですか。本当申し訳ないです、刑事さん。気を悪くせずに。どうか今日のことは忘れてくださって結構ですので」

 言われなくてもそうしてやる。心に淀みを抱えながら、鮫島は憮然とした表情で二人を見送った。


 貰った名刺の名を検索にかけてみる。博士というくらいだ。論文の一つや二つ引っかかるはずである。エンターキーを叩いた鮫島は言葉を失った。

「検索結果が出ない……?」

 あの名はでたらめだった。その人物すら存在していない。ミナツキは引っかかったものの、そこに書かれていた情報はただ一つ。海外のとある研究施設職員ということだけ。鮫島は慌てて上層部に掛け合った。

「どういうことですか!? あの博士の名は偽名でした。そのような人物に、四ツ目を引き渡したというのですか!」
「鮫島君」

 低い声が円坊警部の口から這い出る。鮫島の喉はそれだけで鷲掴みされたように閉まってしまった。

「この世には知らなくてもいいことがあるんだ。いいね? 君はやるべきことが沢山残っているだろう。こんなことで油を売っている暇はないはずだ。戻って己の職務を全うしなさい」
「……はっ」

 身についた上下関係は絶対だ。鮫島は鬱屈した思いを抱えて自らの机に戻った。

「鮫島さん、どうかなされたんですか? お元気ないならこれでも飲みます?」

 亀山が差し出したのはカフェオレの缶。俺は無糖しか飲まないと言いかけてやめた。

「ありがとうな、亀山。ありがたくもらう」
「いいですよ。先輩にはいつもお世話になっていますから。やっぱり疲れたときには甘いものですよねえ」

 飲み慣れないカフェオレは、いつまでも舌の上にしつこい甘さを残していた。

 しかし時が全てを癒すとはよく言ったもので、忙しい日々にようやくあの博士の影が薄れてきたときのことだった。事件解決に奔走する鮫島を円坊警部が呼び止めた。

「鮫島君」
「なんでしょうか、円坊警部」
「いや今君が追っている事件なんだがね――」
「やあミスターサメジマ! やはり君は鮫とつくだけあって鼻がいいねえ。君のいるところに彼らありということなのかい? いやあ嬉しいよ。私たちはきっといいコンビになれる。そう思わないかね?」

 思わず男が現れた扉を閉じてしまった自分は悪くない。鮫島は後にそう語っている。

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