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【短編小説】たいないの海

人は海の欠片をもって生きている。
海と人体にまつわるとある会話。

「よくさ、母なる海とかそういう表し方する人がいるけどあれって真理だと思うんだよね」
「なんだよ藪から棒に」

 頬杖をつき、目の前の同級生はラーメンをすすっている。学食の醬油ラーメンだ。胸あたりまである長い髪は結ばれておらず重力に従って流れている。よく口の中に入らずに食べることができるなと常々思うが、彼女は苦労どころか髪そのものが実体を無くしたかのように振り払う仕草も見せず優雅に箸を動かしていた。
 というよりも目の前で強いスパイスの匂いを垂れ流しているが、食欲は減退しないのだろうか。自分だったら匂いが混ざるので眉根をひそめる。それを堂々とやっている自分もあれだが。
 女は相変わらず平気な様子で麵を口内に流しこんでいく。

「この前実習で関節鏡手術見てきたんだけど、そのときモニターに映っていた映像がさ、まさに海だなって直感したのよ。関節を覆っている滑膜がさ海藻とかイソギンチャクみたいにゆらゆら揺れて、真っ白な骨が海に眠る巨石みたいでとっても幻想的で」
「いや手術みろよ。骨の部位とかどういった手技なのかとか」

 せっかく間近で見られる貴重な機会を何に費やしているのだろうかこいつは。男は心底呆れ返った。
 関節鏡手術とは関節表面の皮膚を二箇所小さく切開し、片方の穴から内視鏡、もう片方から手術器具を関節内に挿入して損傷部位を治したり損傷組織を摘出したりするときに用いられる方法である。内視鏡の映像は外のモニターに出力することができ、術者はそれを見ながら手術を行う。授業では画面内で紹介されただけで、当然実際に見学させてもらったことはない。第一線で活躍している人々の技術を目の前で見ることなんておいそれと経験させてもらえるわけではないのだ。下らない空想を繰り広げているくらいなら少しでも技術を学べ。
 男は深く嘆息した。

「ていうかお前が見に行ったのは人間じゃなくて馬だろうが。どこに人間要素あった。だいたい海藻みたいに揺れ動くのは生理食塩水を流しているからであって本来そんな風に動いているかなんて疑問が残るね」
「ちょっと同じ哺乳類なんだからまったくの別物と捉えるのはナンセンスよ。もう一つの指摘については関節液で満たされているんだし、そんなに変わらないでしょ」

 まったく君がそんなにもつまらない人間だとは思わなかったと彼女は麺をすすった。
 どうやら同意してもらいたかったようだ。あいにくだが自分は彼女側ではない。べつに滑膜が関節の中で揺らめいていようが、内視鏡の映像が神秘的だろうがどうだっていい。それよりもどの部位を治療したのか、どういったところに気をつけているのか。原因や再発を防ぐための予防策を考えていたほうが自分のためにも患者のためにもなるのではないか。
 男の冷ややかな眼差しを感じとったのだろう。女はややむきになって語りだした。

「それに前に授業でも習ったでしょ。細胞外液の成分は古代の海と似ているんだって。私、土に還るって言葉本当は間違っていると思うの」
「間違ってはなくないか? 死んだ後最終的に微生物に分解されるのだし」

 これは中高の生物でも習う生物のサイクルであるし、そうでなくても感覚的に理解できるはずだ。ああ、でも灰は生分解されないんだったか。火葬が主なこの国では土に還るという表現はある意味間違っているのかもしれない。しかしそれを言う気はなかった。言ってしまったら最後、この意味も生産性もない議論が長引いてしまう。

「いやごめん。それは語弊があるか。たしかに土にはもどるんだけど、帰る場所は土じゃないの。海なんだよきっと。だって身体の中までその欠片をもっていくんだから」

 ふいに彼女の目と合わなくなった。正確にいえば正面をむいているのは変わらないが、自分を通りこして遥か彼方を見つめているような視線だった。
そういえば彼女の出身は港町だったんだか。高校まではずっと海が見える場所で育ったと聞いた。余計に身近に感じてしまうのだろう。脳裏に海と空の青が織りなす港町が浮かんで消えた。もっとも彼女の故郷は行ったことも見たこともないので全て想像でしかないが。

「それにしてもずいぶん抽象的だな。非科学的な感覚で議論はできないだろ」
「でも一概に見当外れなことを言っているとも言えないでしょう。だって考えてもみてよ。初めに生命が生まれて繁栄したのは海よ。陸地まで進出したのは約四億年ごろからようやっと。大地は生命にとってゆりかごではなく牙を向けてくる厳しい新天地であり、故郷じゃなくて異国。違う?」

 食べ終わった彼女は律儀に手を合わせた。ごちそうさま、なんて久しく聞かなかった。というよりこの歳にもなって律儀なものだ。男は議題とは全く関係のないところに感心した。

「だからね、私死んだら墓に埋めるんじゃなくて海にまいてほしい。母親のところにかえりたくなるのは君もわかるでしょ?」

 彼女が微笑みながら彼女自身の髪を耳にかける。
 彼女が海の中にゆっくりと沈んでいくのが思い浮かべてしまって、ぞくりと寒気が走った。まるで母の腕に抱かれるように安心しきった笑みを浮かべて藍に飲み込まれていくのは映画のワンシーンのようでもあったが、同時に明確な死の匂いがした。ふと海の香りは死んだプランクトンなのだという雑学を思い出す。これでは母というより墓場だ。そうだ、墓だ。冷たい水や日の光も届かない海の底は産声ではなく、冷え固まった身体が折り重なる死に場所だ。
 本能が悲鳴を上げ、強い忌避感が湧き上がる。こんな場所でする話題ではない。何とかして話の流れを変えねばならなかった。

「やめろよ縁起でもない」

喉から発した声は予想以上に硬かった。剣吞な雰囲気を察した彼女が顔をしかめる。

「なによそんな変なこと言ってないじゃない」

 やっぱり君はつまらないと彼女は口をとがらせた。何か言い返す前に彼女はうねる黒髪をたなびかせ、足音をたてながら席を後にした。残されたのは冷え切ったカレーと、間抜けな顔で固まる男一人のみ。
 海は母か。あの暗く底の見えない化け物の口が母親なのか。男は緩く首を振った。海水浴にいっても暑くて肌がベタベタするだけでいい思い出がないせいなのもあるだろうが。
 だが彼女は本当に海に戻りたいのだろう。死ぬ間際になったら母の腕に抱かれにその身を捧げる。いや捧げるのではなくかえるか。彼女にとって故郷は大地ではなく海らしいので。
 口の中に広がるスパイスの香りはどこか味気なかった。


 鈍い音で目が覚める。気づけば机に額をぶつけてしまっていたようだ。いつの間に意識を失っていたのだろう。それにしても懐かしい夢をみた。卒業してからもう何年も経つ。学校を出てから彼女には会っていないが、彼女は今も元気に働いているらしい。噂によると、例の実習先にいったようだ。彼女らしい。あの診療所の向かいには海がいるから。馬が草を食む新緑の丘の先に広がる青はさぞかしのどかな光景だろう。
 ちなみに自分は無難な就職先を選んだ。急患で夜中叩き起こされることもなければ、きちんと週二日の休みがある職場だ。その代わり胸を躍らせるようなことはない。代わり映えのしない毎日である。にらめっこするのはパソコンか紙の山。あとは上司の顔色。モノクロで停止した世界はあの日感じた死とは別の意味で死んでいるようだった。
 記憶の彼方から潮騒がやってくる。ふいに海に行こう。そう思った。

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