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【小説】ある伯母の告解

以前書いた「のけものけもの」に出てくる雪華の伯母、藤子とうこ視点からみる、姪と「母親」について。

上記の話の番外編です。本編は長いのでお時間のある時にお読みください。

 私には妹がいた。いつも私にくっついて回る子だった。私が絵を描けば妹も色鉛筆を取り出し、私が本を読めば絵本を引っ張りだした。
 愛情深くて優しい子だった。おままごとで人形に向けていた眼差しはまさに母と呼べるもので。彼女はきっといい母親になる。幼心にそんなことを思ったのを覚えている。
 彼女が本当の母になった日、彼女がまだ首もすわらぬ赤子に向けていた眼差しはあのときよりもさらに慈愛に満ちていて。式も挙げずにいつの間にか人生のステージを一段上がったことを不安に思わないではなかったが、その目はたしかに愛で溢れていた。
 赤々と本日最後の光を燃やす太陽が妹の横顔を茜色に染め上げる。いつかの日に見た、眩い夕陽に照らされながら繕い物をする母がそれに重なった。
 ――それなのに。
 どこから歯車は狂ってしまったのだろう。

「仕方がなかったじゃない! だってあの子がいたら、私はしあわせになれなかったんだもの!」

 これは誰だ。この女は誰だ。ゴミが散乱するアパートの一室で泣きわめくこの女は誰だ。鼻が曲がるような香水を振りまき、美しい濡れ羽色を汚い茶色に染めて、風になびく絹糸を下品な縮れ毛に変えたこの女はいったい何者なのだ。

「姉さんにはわからないわよ! 姉さんはいいわよね! 仕事だけやっていればいいんだから。旦那に裏切られてさ、たった一人、子ども抱えて今日の食事を心配しなきゃいけない生活なんてわかるわけないわよ!」

 けばけばしい化粧は涙でかき乱され、まるで内面の醜さが漏れ出るかのようにぐちゃぐちゃだった。愛であふれていた目は敵意を宿してこちらを睨んでいる。
慣れない、それも身内からのむき出しの憎悪に喉がひりつく。だがここで引くわけにはいかない。

「でもそれとこれとじゃ話は別でしょう」
「はっ、姉さんらしいわね。いつも正しいほうに立つんだから。ま、女を捨てた姉さんに私の気持ちなんてわかるわけがないわ。未だ彼氏の一人もいないんでしょ」

 嘲笑を浮かべた彼女は手元の灰皿に煙草を押しつける。
 頬を張られたような気がした。鋭いナイフは私の一番やわいところを容赦なくえぐる。私は動揺を悟られぬよう唇をかみしめた。

「……わかった。警察を呼びましょう。今までろくにあなたのことを顧みない愚かな姉で悪かったわ。でもね、桃華。あなたがやったことは立派な犯罪よ。私は最後まで一緒にいるから。さ、いきましょう。それがあの子……雪華にできる唯一の償いだわ」

 警察の一言が出た瞬間、これまでの威勢が嘘のように消え去った。瞳を揺らして服の裾を握りしめるその姿は迷子のようにも、怯える少女のようにも見える。ひび割れた爪の先はきっと冷えきっているであろう。
 幼い頃であれば、彼女の手を包みこんで息を吹きかけてやればよかった。それだけで妹は笑顔になった。しかしもはや私には彼女を慰めるすべも資格もない。私にできるのは妹の手を掴んで然るべき機関に引き渡すことだけだ。たとえそれが塀の中に続く道だとしても。妹のために、私の指を掴んで笑いかけてくれたあの子のために、私はやらなければならないのだ。

「け、警察? 冗談よね。姉さん本気?」
「ええ、本気よ。だってあなたがしたことは虐待、それに実質殺人のようなものでしょう。小学生の女の子が夜の森に置き去りにされて生きていけるはずがないじゃない」
「い、いや! なんで、なんで私だけこんな目にあわなきゃいけないのよ!」

 喚き散らす彼女を私は憐憫のこもった目で見つめた。
 たしかに妹は不幸な人生だっただろう。夫と離婚し、女一人で子どもを育てなければならなかった。
 父は頭の固い、いわゆる頑固おやじみたいな一面があったから、デキ婚で挙式もせずにくっついたなんて知られた日には二度と家の敷居を跨がせてもらえない。だから親には頼れないが、私だって高給取りではないから、私に頼るわけにもいかなかったのだろう。それでも言ってくれればできる限りの援助はしたのに。
 彼女の頼みの綱は夫から送られてくる月々の養育費だった。それが彼女を母として生かすか細い命綱だったのだ。それが途切れた日が、母親としての命日だったのだ。
 金は人を変える。余裕のない生活が妹を母から鬼に変えた。

「ごめんね。もっと私が早く気づいていれば、こんなことにならなかったのにね。でもどんなことがあっても桃華が私の妹だというのは変わらないわ」

 私はにじり寄って妹を抱きしめた。安っぽくて主張だけは強い香水の匂いが鼻をつく。彼女の体は想像していたよりもずっと薄かった。背を撫でさするたびにびくりと体が震えた。

「ご、ごめんなさいおねえちゃん。私、わたし……」
「あなただけのせいじゃないわ。私のせいでもあるもの。ごめんね桃華」

 懐かしい「おねえちゃん」呼びに目頭がつんと熱くなる。
 ボロアパートの一室は、しばらく二人の嗚咽で濡れていた。
 ようやく感情の整理がついた妹がそっと体を離した。

「でも最後に片付けでから行きたいの。こんな部屋のまま出頭するのはちょっと……」

 妹は恥ずかしそうに部屋を見渡した。たしかに周囲には空き瓶やらゴミ袋やら吸い殻やらが散らばっている。お世辞にもきれいな部屋とは言えない。

「ごめんなさい。勝手なことを言ってるってわかってはいるんだけど……」

 俯く妹に苦笑した。

「じゃあ金曜に一緒にいきましょう。私、早めに上がるから」
「うん……」

 妹はしおらしく頷いた。涙で顔はぐしゃぐしゃだったが、不思議と先ほどのような嫌悪感は浮かんでこなかった。
 だが約束の日。妹はいつまで経ってもドアを開けなかった。
 夜逃げ同然のように部屋を引き払っていったと大家に告げられたあのとき。私の知る妹はとっくに死んでいたのだと、間抜けな私はようやく思い知ったのだった。

 妹の足取りは追わなかった。本来ならば今からでも警察に事情を話して妹を探してもらったほうがいいのかもしれない。だが私にはそれをする気力が残っていなかった。
 抜け殻のようにただ職場と家を往復する日々。それでもふとした瞬間、妹の裏切りを思い出しては吐きそうになる。仕事に打ちこんでいる時だけが余計なことを考えずに済んだ。
 その結果が称賛に繋がるのだから皮肉なものだ。いやこんな姉だから妹は最後まで私に頼れなかったのかもしれない。たまたま私が彼女の家を訪ねなければ、きっと妹は今でも忌まわしい過去を隠して、狭いアパートの一室ですさんだ生活を送っていたことだろう。
 あのとき、見て見ぬふりをすればよかったのだろうか。そうすれば妹は少なくとも住処を追われずに済んだ。だがそれではあの子が浮かばれまい。それに身内の罪を見過ごせるほど自分の正義は腐っていなかった。

「藤子さん、大丈夫ですか?」

 後輩の女性社員が話しかけてくる。「心配です」と書かれた顔に私はなんとか笑みを返した。

「大丈夫よ。大丈夫じゃなかったら、こんなにバリバリ仕事しているわけないじゃない」

 書類をトントンと叩きながら笑みを深めたが、後輩はさらに眉を下げただけだった。

「でも最近本当に元気ないように見えますよ。あの、何か悩み事があるのなら言ってください。私のアドバイスなんて必要ないかもしれませんけど、でも話すだけでも楽になると思うんです」

 ぐっと拳を握りしめ、後輩が身を乗り出した。私はさりげなく身を引きながら口を閉ざすしかなかった。
 そうは言っても事情が事情だ。いくら仲の良い同僚とはいえ、身内の恥を晒せるほど私の神経は図太くなかった。しかしこの様子では私が説明するまで諦めまい。運の悪いことに仕事はひと段落ついていた。というかここ最近は業務がそれほど忙しくない。部署全体も気が緩んだような、ゆったりとした時間が流れていた。

「……わかったわ」

 ため息と共に言葉を吐き出すと、後輩は居ずまいを正した。

「この前妹に会ったんだけど」
「ああ、しばらく連絡とっていなかった妹さんですよね。元気でしたか?」

 息が詰まる。嘘でもその問いに頷くことなどできなかった。黙りこんだ私を後輩が不思議そうに見つめている。それが怪訝なものに変わる前に声を絞り出した。

「その、久しぶりに会ったらずいぶん雰囲気が変わっていてね。それにもびっくりしたんだけど、あの子、ずっと大事にしていた人形を森に捨てたっていうのよ。人は変わるとはよく言うけど、ここまで変わるものかしらと思ってね。こんなことで……とも思ったのだけど想像以上にショックを受けていたみたい。気を遣わせたならごめんなさいね」

 もちろん人形はあの子のことだ。愛おしげに人形をあやしていた妹は、娘を慈しんでいた妹はもういない。わかっているはずなのにどうしようもなく未練が滲んだ。

「それはショックですね……。せめてその大事だったお人形さんを探し出すことができれば、藤子さんの心も少しは軽くなるんでしょうけど。でも森ですもんね。もう雨風でぼろぼろになっちゃっているかも」

 ぜんぜん役に立たなくてすみません、と後輩は肩を落とした。だが私にとっては天啓だった。
 そうだ。せめてあの子だけは弔ってやらねばならない。たとえ骨の一片しか残っていなかったとしても。いつまでも森の中に打ち捨てられているのは寂しいではないか。
 あの子の生きた証を見つけ出すこと。それが私にできる唯一の贖罪だ。

「いいえ、とてもためになったわ。ありがとう」

 後輩がきょとんと瞬いたが、私に気にする余裕はなかった。頭の中はあの子のことでいっぱいだったからだ。
 しかし思っていた以上に捜索は難航した。予想よりも遥かに森は深く、広かった。あの子がもし誰かに保護されていたのならば、とっくに妹に連絡がいっていただろう。何も音沙汰がなかったということは誰にも気づかれなかったということ。
 車で向かったと言っていたので森の一番深いところで車を降りたが、本当に人気がない。時おりすれ違った車は法定速度をゆうに上回るスピードで通り過ぎていく。昼間ですらこれなのだ。ましてやあの子が置いていかれたのは夜。いったい誰が真夜中道路脇でうずくまる少女を見つけることができるだろう。
 一歩森に足を踏み入れると、湿った土の香りがふわりと漂う。草は伸び放題、整備された道など当然ない。飛んでくるブユやらハエやらを追い払い、道なき道をかき分けること一時間。あの子の手がかりはおろか、人が入った気配すらわからなかった。
 一か月も経つと、諦めの文字がちらついた。あの子がいなくなったのはもう五年以上も前だ。もしかしたら悪人に捕まってここではないどこかに連れ攫われてしまったのかもしれない。あるいはこの森でないどこかに眠っているのかもしれない。
 それでも私は休みのたびに森に足を運んだ。
 だからたまたま途中で降りた街の中であの子を見かけたとき、脳が見せた願望ではないかと、夢ではないかと思った。頬をつねるとちゃんと痛かった。
 あの子はセーラー服に赤いリボンをつけて歩いていた。高校時代の妹が記憶から出てきたのかと錯覚するくらいにはそっくりだった。他人の空似だと頭の片隅で理性が止めたが、足は既にあの子の元へと向かっていた。
 思わずこぼれた私の呟きを拾ってくれたあの子が振り返る。ああ、やっぱり妹にそっくりだ。緩む涙腺を閉めて、私はあの子の腕を掴んだ。
 痩せておらず、傷や痣があるわけでもない。誰がどう見ても健康的な腕だった。

「雪華よね、やっぱりそうよね」
「えっと、わたしは雪華ですけど、あなたは一体……」

 今にも警察に電話しようと身構える姪の姿に傷つかないわけではなかったが、私が最後に顔をあわせたのはまだ雪華が幼い頃だ。忘れてしまっても仕方がない。気を取り直して私は雪華の目を真っ直ぐ見つめた。
 とにかく自分の名を告げて話を繋ぐ。せっかく出会えた縁をこれっきりにしてはいけない。祈りが通じたのか表情は硬いままだったが、彼女は私の誘いに頷いてくれた。
 さりげなく手を差し伸べてみる。赤ん坊のときのように私の手をとってくれるのではないかと思って。
 だが返ってきたのは明確な拒絶だった。距離をとった雪華の目にはありありと不信感が浮かんでいる。
 気まずい沈黙が落ちた。なんてことのない顔を取り繕って歩き出すと遠慮がちな足音が追ってくる。
 微妙な距離が寂しいと感じながらも、私は姪と共にファミレスに入った。


 雪華は森でさまよっているうちに親切な人に拾われて今日まですくすくと育ってきたらしい。彼女は目をそらしながら頬をかいていたが、愛情を注がれて育ったことは明白だった。普通ならば喜ぶべきなのだと思う。だけど私は――
 グラスの氷がカランと鳴る。
 雪華の表情とは対照的に私の心は冷めていった。
 何の繋がりもない赤の他人が拾った子どもを育てられる? そんなわけがない。実の親ですら無理だったのだ。絶対に何かしら訳があるに決まっている。もしかして犯罪の片棒でもかつがせる気なのか。
 許せるわけがない。この子の血縁者で頼れるのは私だけだ。私だけが雪華を守ることができるのだ。

「ねえ雪華、もしあなたがよければなんだけど、またこうして話してもいいかしら」
「まあ話すくらいなら……」

 雪華がおずおずと頷いたのを見、私は内心握りこぶしを作っていた。
 雪華を悪人の手から救いだす。それが私の役目だ。そのために私たちは出会ったのだ。
 店を出たところで雪華とは別れた。その背を網膜に焼き付けるように、私は雪華が見えなくなるまでその場に立っていた。

 雪華が家に転がりこんできたのはそれから数か月後のことだった。
 保護者と喧嘩したのだと頬を膨らませていた。なんでも私が泊まりに誘ったのが事の発端らしい。
 やはりその保護者とやらは雪華を利用しようとしていた悪人だったのだ。計画通りに進んでほくそ笑んでいたところに私が出てきたから焦ってボロが出たのだろう。
 私は傷ついた雪華の肩を抱いて慰めた。好きなだけここにいればいいと半ば本気の願いを軽い調子で誤魔化しながら吹きこんだ。雪華は浮かない顔つきだったが、私の家から学校に通うようになった。
 それから一週間後、雪華は酷い有様で帰ってきた。葉っぱをいたるところにつけ、手足は擦り傷だらけ。目元は赤く、指先は冬でもないのに冷え切っていた。何よりその雰囲気が雨に叩かれた子猫よりも惨めで絶望に満ちていた。
 私は悲鳴に近い声を上げて怪我の手当てをし、汚れた服を着替えさせ、風呂にいれた。
 落ち着いたところで話を聞き出すと、どうも彼女の保護者と訳あって決別したらしい。
 私は快哉を叫びそうになる口を何とか抑えて憐れむ伯母の顔を作った。
 ああ、やっぱり赤の他人が子どもを拾って育てるなんて無理だったのだ!
 雪華を育てられるのは妹がいない今、私だけ。血の繋がりは強い。ただの他人ごときに超えられるはずがなかったのだ。
 雪華はよほどのショックを受けたのだろう。魂が抜けたように部屋に引きこもってしまった。心の整理をする時間も必要だろう。その間に私は雪華を育てるための諸々の手続きにかかった。
 書類は煩雑だったが、元々事務員として働く身だ。それほど苦であるとは思わなかった。何より私が雪華と暮らすために必要な手続きだ。一つ終えるごとに家族というゴールが近づいているように感じて、心躍りさえした。
 ただあの子は保護者を否定することだけは嫌がった。母親は桃華だけだというのに見ず知らずの女のことを母と呼んだ。まだ混乱があるのだろうとそっとしておいたが、内心は腹がたって仕方がなかった。
 どうして無関係の人間を慕うのだろう。百歩譲って桃華を母と慕うのはわかる。どれほど酷い仕打ちにあっても実の親に対する愛情はなかなか消えないものだ。だがなぜ雪華は赤の他人をいつまでも母と慕うのだろう。私には理解できなかった。
 それからさらに一週間くらい経った頃だろうか。ふいに雪華が学校に行くと言って立ち上がった。その前日もろくにご飯も食べずに引きこもっていたからそんな体で学校にいけるはずもない。私は慌てて彼女の腕を掴んだ。
 雪華は無言で私の腕を振り払った。それでも呼び止めようと縋った私の目に映ったのは深淵だった。表情はごっそり抜け落ちているのに、私を責め立てる目。妹が私を責めたときのような熱さはないが、どこまでも冷たい眼差しが私を貫いていた。思わず手が離れた。離してしまった。
 雪華はドアノブに手をかけた。私は「雪華!」と叫んだが、あの子が振り向くことはなかった。
 その日、私が帰宅したときにはまだ雪華は帰ってきていなかった。
 もし例の女と再会してしまったらどうしよう。あの子はまだろくに世間も知らない子どもだから騙されてしまうに違いない。私が守らなければいけないのに、むざむざ手を離してしまった。私が桃華の代わりにあの子を育てなければならないのに!
 震える手で二人分の食事を用意したが正直気が気でなかった。何度時刻を確認したかわからない。秒針が時を刻む音だけが部屋に落ちていた。
 それから何時間経っただろう。いや本当は一時間程度しか経っていなかったのだが、私には一日経ったと言われても信じられるほど長く感じた。
 ふいにガチャリとドアが開く音がした。

「雪華!」

 はじかれるように飛び出すと雪華がいた。疲労感は漂っていたが、朝の幽霊のような温度のない冷気は消え去って、以前のような溌剌さが顔を出し始めていた。

「ごめんなさい藤子さん。いろいろ心配かけちゃって」

 言いたいことはごまんとあった。が、自分の口からするりと出たのは実にありきたり言葉だった。

「いいのよ。さ、お腹すいたでしょう。夕飯できているから一緒に食べましょう」
「……ありがとう」

 すっかり冷めきった夕飯を二人で食べていると、雪華がちらちらとこちらに視線を送っていることに気がついた。口にご飯粒でもついているのだろうかと口元に指を近づけたそのとき。雪華が意を決したように口を開いた。

「あの、藤子さん」
「なに?」

 私も箸を置いて雪華を見た。

「ここで動物を飼うことってできる?」
「動物? 子犬か子猫でも拾ってきたの?」

 まさかそれで遅くなったとでも言うのか。そんなことで。いやアニマルセラピーというものもあるくらいだ。意外と雪華の心を癒してくれる存在になったのかもしれない。
 無言を怒りととらえたのか雪華がぶんぶんと首を振った。

「違うの! えっとイタチ、じゃなかった……そうフェレット! フェレットを預かることになったって言ったらここで飼える?」

 今イタチって言ったわよね。この子ついに悲しみのあまり野生動物を飼うことで心の穴を埋めようとし始めたのだろうか。
 せめてカメくらいなら許せたが、イタチはさすがにアウトだ。そもそもイタチは飼ってもいい動物なのだろうか。どんな病気もっているかわかったものではないし、危険すぎる。

「ごめんなさいね。ここペット禁止だから飼えないのよ」
「そ、そうだよね。ごめんなさい、変なこと聞いて」

 雪華は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
 静寂が落ちる。追及してもよかったが、これ以上問い詰めると朝のように出ていってしまう可能性が頭をよぎり、結局無言を選んでしまった。
 それにしてもなぜイタチなのだろうか。猫ならまだしもイタチなんて早々目にすることはないはずだ。怪我しているところを保護したとかだろうか。いやそうに違いない。
 胸に生まれた違和感を押しこめ、私は箸を動かした。


 しかし日が経つにつれてその違和感はどんどん膨れ上がっていった。
 あの子がカラスに話しかけているのを何度も見たことがある。見知らぬサラリーマンに飛びついているところを見たことがある。推しだかなんだか知らないが年齢不詳の店主が経営しているカフェに通っているという話も聞いた。週末はどこに行ったのか、葉やらオナモミやらをくっつけて帰ってくる。
 あの子を取り巻いているものは私が想像したよりも遥かに奇妙で手に負えないものではないか。そんな言いようのない不安がむくむくとこみ上げてきた。あの子を育てていた女は果たして何者だったのだろうか。まさか人間ではないのではないか。
 人に話したら大笑いされるような考えだが、しかしこの考えはほとんど当たっていると私は思っている。
 一度だけあの子が謎の獣に話しかけているのを見かけたことがある。それは本当に偶然だった。たまたま早上がりの日で、暇ならどこかでご飯でも食べにいかないかと雪華に連絡を入れたのだが一向に反応がない。いつもならば何らかのリアクションが返ってくるはずだが、いくら待っても既読すらつかない。
 もしかして事件にでも巻きこまれたのではないか。不安が押し寄せ、気づけば高校の最寄り駅で降りていた。
 街を駆けずり回り、ようやく雪華を見つけたのは山だか森だかに隣接する公園の隅のベンチだった。
 雪華の膝の上にちょこんと座っているのは胴が長く、黄色に近い明るい茶色に覆われた獣だった。
 それだけならば私はそのまま話しかけにいってだろう。
 だが私には足を止めるだけの理由があった。それはあの子の手つきだ。
 あの子が獣を撫でる手はいつかの日に妹が人形を抱いたときと、あの子を抱いたときと同じ暖かさであった。
 ただの獣に向けるにはあまりに愛にあふれた手つき。いくら懐いていたとしても妹と同じあの目を向けるだろうか?
 ちょうど近くには低木が植えられていたのでそこに身を潜めて雪華たちの動向を窺った。
 二人の会話は風にまぎれて聞こえないが、獣は上体を伸ばして、しっかりと雪華の顔を見つめている。雪華はその獣に何か話しかけながら楽しげに笑っていた。
 そのとき風が止んだ。だからその単語ははっきりと耳に入った。

「――お母さん」

 お母さん? あの獣が母親!?
 気でも触れたのかと思った。雪華が抱えているのはどうみても人間ではない。だがあの子は母と呼び慕った。妹がかつて私の知る妹であったときのように、あふれんばかりの親しみを、愛を向けていた。
 妹が持っていたあの温度を私が間違えるはずがない。
 有り得ない。獣が人の子を育てるなど。そんなものが有り得るわけがない。しかし現実は無情にもそれが真であると告げている。
 そのとき、ふいに獣が私を見た。黒々とした目は静かに私を見ていた。その透明な眼差しに、私の何かが見透かされるようで、私ははじかれるようにその場を後にした。その後の記憶は曖昧だ。
 いつの間にか私は家に帰っていて、いつも通り雪華と食事をとっていた。雪華は特に変わったこともなく、むしろあのときのことをやんわり聞き出そうとした私を不思議そうに見ていた。
 あの日目撃した光景の真相は、結局最後まで聞けずじまいだった。「動物と会話していたなんてそんなメルヘンなお姫様でもあるまいし」と笑われるのも嫌だったが、何より怖いのがそれを肯定されてしまった場合だ。獣に育てられた「ナニカ」を私はそれでもただの姪として接することができるのか。もしできなかった場合、私は鬼に堕ちた妹と同じ畜生に成り果てるのか。真実を知って自分でも知らない醜い面を直視することが、ただ怖かった。

 高校卒業後、雪華は家を出ると宣言した。大学までは費用を出すと言ったが、彼女は頑として受け入れず、就職すると言って聞かなかったのだ。
 今日で雪華は新天地へと羽ばたいていく。真新しいスーツに身を包んだ雪華を私は目を細めて見つめた。

「本当にいいの? 家からでも通えない距離じゃないでしょう」
「いいの。自分だけの力で挑戦してみたいから。それに藤子さんにいつまでも迷惑をかけるわけにはいかないし」

 外は眩い陽の光に包まれている。逆光で彼女の顔は見えないが、なぜか微笑んでいると確信できた。

「藤子さん、いろいろとお世話になりました」
「いいのよそんな他人行儀なこと言わないで。いつでも帰ってらっしゃい。ここはあなたの家なんだから」

 雪華は困ったように眉を下げただけだった。

「本当に今までありがとうございました。さようなら」

 扉が閉まる。薄暗がりに佇む金属の板は冷え冷えと私を見つめていた。
 最後の最後まであの子は私のことを「藤子さん」としか呼ばなかった。「伯母さん」とすら呼ばなかった。
 結局のところ、あの子が求めていたのは私ではなかった。妹でもなかった。あの子の家族はきっとあの獣だけだったのだ。
 私のほうが他人で、邪魔者だったのだ。私が独りよがりの正義と母親面を押しつけていただけだ。こういうところが妹も鬱陶しく思っていたのかもしれない。だから私が押しかけてくるまで相談すらしなかった。

「桃華、あなたの言う通りね。女を捨てた私に子育てなんて無理だったわ」

 崩れるように座りこむと、冷えた板が馬鹿な女を嘲笑う。
 そうして私はあの子が出ていった扉をいつまでも眺め続けていた。もう二度と家族・・が開けることのない扉を。


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