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【小説】のけものけもの(1)

社会からはじきだされた獣が二匹。
唯一の肉親に見捨てられた少女とひょんなことから少女を拾った孤独な鎌鼬かまいたちが衝突しつつも寄り添いあっていく話。
6話程度で終わる予定です。

「反省するまでそこにいな! このクソガキ!」

 鈍い衝撃が走り、一拍遅れて頬がじんじんと痛みを訴える。少女は呆然と母親を見上げた。傷んだパーマを振り乱し、彼女は鬼のような形相で吐き捨てると、荒っぽくドアを閉めた。

「ご、ごめんなさい。もうわがまま言わないから。まって、まってよおかあさん」

 車は無言で発車し、排気ガスをまき散らしながら闇の中へと消えていった。少女は必死に走ったが、幼い子どもの足では到底追いつけるものではない。
 まだ日が落ちると肌寒い春の日。ましてや擦り切れたTシャツ一枚ではあってないようなものだ。骨と皮ばかりの薄っぺらい体を抱きしめ、少女はぶるりと身を震わせた。
 ひと一人いない森の中だ。当然街灯などあるわけがない。月が出ているのが唯一の救いだろうか。
 それでも少女の目の前に広がるのは底なしの闇だ。化け物の手のような奇怪な枝が揺れ、時おり口笛のような高い奇妙な声が上がる。少女はそのたびにびくりと体を震わせた。瞳はみるみるうちに涙の膜が張って、今にもこぼれ落ちてしまいそうだ。
 しかしべそをかいたところで状況が好転しないのは経験からわかっていた。運が良ければ五人目だか六人目だかのカレシとのデートが早く終わって迎えに来てくれるかもしれない。
 だがそれはいま偶然親切な人が通りがかって少女に手を差し伸べてくれるよりも儚い希望だ。デートが早く終わるのはよほど「うまい」カレシでなければ彼女の機嫌は地を這う。
 そうなれば彼女は娘のことを忘れてしまう。娘が自宅の扉を叩くまで、娘の存在がすっかり頭から抜け落ちてしまうのだ。
 いや今考えるべきは母が少女のことを思い出してくれるかどうかではない。朝が訪れるまで夜をどうやり過ごすかが問題だった。せめて風のしのげる細長い箱があればいいのだが。
 透明な縦長の箱はたいてい薄黄色か青白い明かりがあり、しかも四方が透明な壁で囲まれているため、身を休めるには天国みたいな場所だ。隅には蜘蛛の巣やら、それに囚われた羽虫の死骸やらがひしめいていることが多いが、それは家にいようがさほど変わらない。
 きれいな部屋は母親とカレシが「いいこと」をするための場所で、少女に与えられた居場所は狭い押し入れか北風が吹き抜けるベランダだけだ。押し入れのようなかび臭さはないし、ベランダの隅にも似たような虫の死骸は転がっている。少女にとって両者の違いはないのだ。
 少女はもう一度我が身をぎゅっと抱きしめた。骨の浮き出た瘦せすぎの体は僅かなぬくもりすら灯してくれなかった。
 ひとまずアスファルトの道路をたどっていけば、何かしらの人工物に出会えるはずだ。少女が一歩を踏み出そうとしたそのときだった。
 背後でガサリと物音がした。はっと振り向くと草葉の間へ何かが消えていくところだった。一瞬見えた色は黄色に近い明るい茶色。
 おつきさまみたい。少女はそんな感想を抱いた。
 少女はとにかく寒かった。
 昔、一人でテレビをぼうっと眺めていたとき、ふわふわの子犬たちが転がっている映像を見たことがある。雪の中でも駆け回れるのは彼らがあたたかいからだと専門家だか司会の男の人だかが紹介していた。
 ふわふわはあたたかい。少女の頭にはそれだけが残っていた。
 おつきさまのようにきらきらしていて、あたたかいふわふわの体。あれを抱きしめたらどんなにあたたかくなるだろう。

「おつきさま、まって」

 少女は駆けだした。
 草葉の間から覗くのはほんのわずかな毛先だけだが、それは意外にも大きいようだった。揺らめく草が作り出す影は細く長く、下手すれば雪華の背を超えているかもしれない。
 またそれは予想以上に速かった。油断すればすぐに見失ってしまう。草の間から覗く黄茶を必死に追いかけた。白く細い腕には幾筋も赤い筋ができた。穴のあいた靴からは小石が入って、足裏を突き刺した。擦りきれた長ズボンは唯一意地の悪い草葉から少女を守ってくれたが、裾から覗く無防備な足首だけは守ってはくれなかった。
 息がきれる。先ほどまで震えるほど寒かったはずなのに、体があつい。これもおつきさまのおかげだろうか。
 あれ? そもそもなんでおいかけようと思ったんだっけ? まあいいか。
 思考がまとまらない。少女の頭にあるのはもはや毛玉を見失わないように足を動かすことだけだった。
 どのくらい走ったのだろう。ふいに視界がひらけた。草原くさはらが揺れ、月光が淡く周囲を照らす。そこに鎮座していたのは一軒の廃寺だった。
 瓦は剥がれ落ち、垂木は歪んで一部は折れている。わずかに踏ん張っている戸も枠だけ残し、もはやその役目を果たせていない。むき出しの畳や板張りの床は落ちてきた屋根の柱や舞いこんだ落ち葉や動物の糞で目も当てられない有り様だった。
 傾いた格子戸の隙間に例の毛先が一瞬ひらめいた。
 雪華もその後を追おうと一歩を踏み出そうとしたそのとき、ぐるりと視界が回った。草が高くなって、空が遠い。なんできゅうに背がちぢんじゃったんだろう。おつきさまも見えなくなっちゃった。なんで――
 自分が倒れこんだことにも気づかないまま少女の意識は闇に落ちた。


「やたらしつこいと思ったら、なんだいこのガキ」

 気絶した少女の顔に影がさす。覗きこんだのは大きなイタチだった。


 夢を見た。まだ幸福だった頃の夢。
 母が少女の頭を優しく撫でてくれたあの頃。すきま風が吹く部屋の中、ぎゅっと抱きつけば、同じ温度で抱きしめ返してくれた母がいたあの頃。

「あんたを産んだときはね、雪が降っていたのよ。真っ白で小さな花みたいにふわふわとかわいらしい雪。だからねあの日見た雪のようにかわいい子に育つように雪華ゆきかって名づけたの。素敵な名前でしょう?」
「うん!」

 母の胸にすり寄ると母の笑い声が降ってきた。安っぽくてやたらと匂いの強い柔軟剤の香りが母本来の匂いと混ざると、ミルクのような優しくて安心できる香りに変わるから不思議だった。
 あたたかい、陽だまりの記憶。擦り切れたモノクロ写真の向こう側のようにその記憶はもうずいぶん遠くなってしまったが、雪華にとって今でも大事な宝物だ。
 たとえそれがもはや埃を積もらせていくだけのガラクタだったとしても。現実は暴言とこぶしを雨あられのように降らせる鬼しかいないとしても。夢の中なら雪華はたしかに幸せなのだから。


 あたたかい。それにあかるい。いくらか埃っぽい気もするが、こんなに心地よく眠れたのはいつぶりだろうか。
 きっとまだ夢の中なのだ。目を覚ましてしまえば、冷えた森の中に転がる擦り傷だらけの惨めな少女。だが目を覚まさなければ温かい毛布に包まれて眠る幸福な少女だ。
 しかし雪華の平穏は長くは続かなかった。湿った何かが頬をつっつき、雪華が夢の世界に閉じこもることを良しとしないのだ。
 雪華はしばらくそれに気づかないふりをした。だがそれは諦めるどころかどんどんつつき方に遠慮がなくなっていく。
 ついに我慢できなくなった雪華はまつ毛を震わせて瞼を上げた。

「おお、目を覚ましたぞ」

 視界に飛びこんできたのは頭髪の薄い丸顔。その上には茶色く丸い耳が生えている。鼻は丸が潰れたように広くて黒い。人の良さそうな、いわゆるえびす顔の中年男性だったが、雪華の記憶にはない、まったく見知らぬ顔だった。

「どうだ? どこか痛いところはないかい」

 笑い皺の刻まれたたれ目に案ずる色がのった。雪華は首をかしげた。
 なぜそのような色をのせるのか雪華には理解できなかった。今まで出会った母親以外の大人たちはどこか身をような引きつった笑みを浮かべるか、あからさまに顔しかめて雪華のことを見ないふりをする。まれにこわい顔をして何やら難しい言葉を並べたてたり、雪華には猫なで声で話しかけるくせに、母はいじめる意地悪な人がいたりするくらいだ。
 そのかっちりした白と黒の服につつまれた人たちのことが、雪華は嫌いだった。彼らがくるたびに母は荒れ、雪華に仕置きをする。なにより彼らは母を泣かせる悪い人たちだった。
 男は雪華の背に手を回して上体を起こすのを手伝ってくれた。その手つきはひだまりのように優しい。なぜだか雪華は目頭が熱くなった。ぶたれてもいないというのにいったいどうしたのか。雪華のちっぽけな頭では答えなど出てこなかった。
 雪華が寝かされていたのは濡れ縁だった。周りは落ち葉まみれだったが、雪華の周りだけ掃き清められており、さらには薄いタオルが敷布団代わりに敷かれていた。さらには隅がやや汚れた茶色の毛布がかけられ、うららかな日差しが優しく雪華の上に降り注いでいる。

「可哀想になあ。こんなに痩せて。そうだ、お腹はすいてないかい?」

 雪華が返事をするより先に腹のほうが返事をした。雪華の頬がかっと熱をもった。
 男は突き出た腹をゆすって笑った。

「そうだよなあ。お腹すいているよなあ。ちょっと待ってな。握り飯でもつくってあげよう」

 よっこらしょ、と腰を持ち上げ、男がくるりと背を向けた。と、そのとき。

「ええい、おどき! どんくさいタヌキなんぞに任せていられないよ!」

 羽ばたきと共に男の頭を何かが蹴飛ばした。男が悲鳴を上げて倒れこむが、飛来した物体は一瞥もくれずに雪華の顔を覗きこむ。金属質な光沢を帯びた黒が鈍く光った。

「……カラスがしゃべってる」

 そう、雪華の前に現れたのは一羽のカラスだった。
 ここはまだ夢の中なのだろうか。それとも雪華が知らないだけでカラスの中には喋るカラスがいるのだろうか。少なくとも雪華が住んでいたアパートのカラスは言葉らしきものを発したことはない。電線にとまってカアカアと鳴くだけだ。

「腹すいているんだろ? 今日はいい物を見つけたんだ。うまいよ。こいつを食べると元気がでる。あんたもきっと気に入るさ」

 そう言ってカラスが差し出した食いさしのフライドチキンだった。衣には小石らしき黒い粒が点々とついていて、油っぽい匂いの中に鼻をつくような異臭がした。雪華は思わず顎を引いた。
 カラスは黒真珠のような瞳を輝かせて雪華を見つめている。
 本能がけたたましく警鐘を鳴らしたが、せっかく持ってきてくれたものをはたきおとすのは気が引ける。

(まあ、まえにもへんな匂いのするのたべたことあるしいいのかな)

 以前緑の斑点が浮き出た食パンを口にしたことがある。その日の母は朝早くに出かけたきり空が赤くなっても帰ってこなくて、雪華は腹と背中がくっつきそうな酷い空腹感に苛まれていた。
 冷蔵庫の中は銀色に光る缶が置いてあるきりで、雪華の腹を満たしてくれるものは何一つなかった。銀の缶は母が飲むもので雪華が飲むものではないらしい。
 いつかの夜に赤ら顔で母がそのようなことを言っていたのを雪華はちゃんと覚えていた。母の言うことは絶対だ。逆らえばきつい折檻をくらう。母の命令に従うことが雪華の生きる知恵だった。
 雪華は隅に転がった安っぽいプラスチックの台を引きずって台所の前まで持っていき、流しを覗きこんだ。流しは乾いていて水垢がこびりついていた。隅に座る三角コーナーには野菜の切れ端が張りつき、その周りをゴマ粒のようなコバエが飛び回っている。
 野菜の切れ端ではコバエの腹は膨れても、雪華の腹は膨れまい。雪華は早々に見切りをつけて、隣のゴミ袋の口を開いた。原型をとどめていない混沌の中で白く縁取られたかのようにそれは浮かび上がっていた。半透明の袋の中にはほとんど手をつけられていない食パンがある。開いたままの口からは四角い茶色の耳が雪華に手を振っていた。
 雪華は躊躇なくゴミ袋に手を突っこんで、今日初めての食事をすくい上げた。
 それは今まで見たパンの中で一番酷い見た目をしていた。白くてやわらかかった肌はかさつき、毛穴が開いて老婆の肌もかくやというほどくすんでいた。おまけに気味の悪い緑のシミがまだらについている。
 だがケチをつけるほどの余裕もない。既に雪華の頭は早く目の前の食物を口に入れろと騒ぎたてていた。
 雪華は迷うことなくパンにかぶりついた。お世辞にも食感がいいとはいえないぼそぼそした硬いパンでも、雪華の舌は待ちわびた食物の訪れに歓声を上げて迎え入れた。たとえそれが嗅ぎなれぬ辛っぽい奇妙な匂いがしても、妙な味が舌をさしても、だ。
 無我夢中でたいらげると少しは空腹感がましになった。
 雪華は蛇口をひねって未だ舌の上に居座る埃かぶった土のような後味を流しこんだ。これで明日まではもつだろう。
 母は月が天辺に昇る頃になってようやく帰ってきた。帰宅するや否や布団に倒れこんでいびきをかいていたので、雪華の行動は正解だったのだろう。
 しかし異変は翌日起こった。テーブルに投げだされた菓子パンをもそもそと口にしていたとき、ふいに針で刺されたような痛みが胃に走ったのだ。雪華は動きを止めて、手の中のパンを凝視した。
 手のひらに収まる小ぶりのあんぱんはいつもと変わらぬ薄っぺらい生地の腹に成形された餡が座っているだけだ。安っぽい甘さが鼻をくすぐる。だがもう雪華がそれに手をつけることはなかった。
 痛みはどんどん強くなり、全身から冷たい汗がふき出した。
 雪華はくの字に体を折り曲げて、迫りくる痛みを誤魔化そうとした。しかしどんなに歯を食いしばってみても、ぎゅっと目をつぶってみても痛みが消えることはなかった。
 結局その日は一日中布団とトイレを行き来する他なかった。せんべい布団を頭からかぶって、しくしく泣く胃をあやすのは惨めだった。心細かった。せめて腹をさすってくれる暖かい手があればよかったが、それができる唯一の人物はうずくまる雪華を胡乱な目で一瞥したきり、再び扉を閉めた。そしてその日も真夜中過ぎまで扉が再び開くことはなかった。

(でも一日たえればいい話だから……)

 腹痛に苦しめられたのはたった一日だけだ。本能は早く物をよこせと責めたて、口内には唾液が滲み出る。雪華は無意識のうちに唾を飲みこんだ。
 カラスはじっと期待のこもった目で雪華を見上げている。唯一この場で頼りになりそうな男は未だに蹴られた頭をさすりながら呻いていた。当然その手には何もない。覚悟を決めるしかなかった。
 雪華は頬を引きつらせながらおずおずと手を伸ばした。酸化した弊衣に手が触れるまさにそのとき、飴色の手が雪華の手を制した。

「やめなヤタ。そんな腐りかけの肉なんて与えたら人間は腹こわすよ」
「おお、椎菜。いったいどこに行っていたんだい。あんたが拾ってきた子どもだろう」

 雪華の背後に立っていたのは胴の長い一匹の獣だった。黄色に近い明るい茶色の毛が陽光を反射して、昇りたての月のようだった。
 一瞬狐が頭をよぎったが、その顔は黒く、鼻先は雪華が知っているものよりずっと短かった。何より耳が半月をくっつけたような半円形だ。山のような三角形ではない。

「あんたらがぎゃあぎゃあ騒ぐからわざわざ人間用の飯とってきてやったんだろ。感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはないよ」

 椎菜と呼ばれた獣は鼻を鳴らした。と、ふいに手に重みがかかって雪華は己の手を見た。そこにはプラスチックと海苔のスーツに袖を通した正三角形があった。
 雪華がはっと顔を上げたが、獣は相変わらず雪華に目もくれずにカラスと言い合いを続けている。

「あ、あのこれ……」

 勇気を振り絞って声をかけても獣が振り返ることはない。だが獣の背から顔を覗かせたカラスは雪華の手の中にあるものを認めるや否や、大げさにのけぞり、目を三日月のように細めて獣を見上げた。

「おやおやおやぁ? あんた本当に持ってきたんだ。優しいねえ椎菜」
「馬鹿言ってんじゃないよ。あんたらが騒ぐから仕方なく持ってきてやったって言ってんだろ」

 ゆるく突き出た鼻に大きく皺が寄り、しなやかな尾が地面を叩く。鞭のようなそれに雪華は身震いして獣の顔色を窺った。対してヤタは動揺する素振りも見せず平然と続けた。

「昔のあんただったら、私がいくら言おうが聞き流していただろうにねえ。律儀に食事を用意してあげるなんて、よっぽどその子が気に入ったのかい。なら自分の子にしてもいいかもね。天狗やキツネだって昔は気に入った子を自分の子にしていたんだ。あんたがやったって誰も責めやしないさ」
「冗談じゃないよ。こんなガキ誰が自分の子にするっていうんだい。冗談は人間のガキにも腐った肉を差し出すその感性だけにしな」

 途端に漆黒の羽がぶわりと逆立った。

「言うじゃないか椎菜。あんたの目くり抜いてやろうか」
「ふん、やれるもんならやってみな。無駄に長生きしただけの鳥風情に負ける気はないよ」

 獣はせせら笑った。上がった口角から鋭い犬歯が覗いた。
 と、ふいに丸い瞳が雪華を見た。ぶっきらぼうで愛想があるとはとても思えない顔つきだったが、雪華は不思議と恐怖を感じなかった。

「で、あんたはいつまでぼさっと突っ立っているつもりなんだい。それ食べ終わったらとっとと帰んな」
「え、でもあの……」

 雪華は瞳を揺らした。無我夢中で毛玉を追いかけてきたので、帰り道なんてわからない。言葉に詰まる雪華を見下ろす獣の瞳は冷えていく。
 責めるような眼差しに、必死に事情を説明しようとしたが、しようとすればするほど舌がもつれて言葉が出てこない。

「おいおい椎菜、その子は森の中に倒れていたんだろう? 大方迷子にでもなったに違いない。せめて出口まで案内してやったらどうだ」

 見かねて助け舟をだしたのは丸顔の男だった。刺さる鋭い眼光から雪華を庇うように獣と雪華の間に立つ。

「じゃ、あんたが案内しな。私は倒れているところを介抱してやって、飯まで持ってきてやった。これ以上情けをかけてやる義理はないよ」
「おい椎菜!」

 そっぽを向いた椎菜に男が語気を荒げる。だが椎菜は背を向けたままだ。詰め寄ろうと踏み出した男の足を長い尾がはらった。男はぎゃっと声を上げて尻餅をついた。
 ヤタが無様に転んだ男へ野次を飛ばす。そうかと思えば、最後まで面倒をみてやれと椎菜に向かって非難した。男は腰をさすりながらヤタの言葉に乗っかって椎菜を責め立て、対する椎菜も二匹に反撃する。
 言い合う声は次第に大きくなり、事態の収拾の目途はたたない。だから雪華は声を上げた。

「あの、わたしはだいじょうぶです。黒いみちがでるところまで教えてもらえれば、あとはそこをあるいていくので。よくあることだし」

 水を打ったように場が静まり返った。雪華は慌てて周りを見たが、雪華を見下ろす顔たちは先ほどとは打って変わって一切の表情を落としていた。にこやかな笑みをたたえていた男ですら怖い顔をしていた。

「……あんた今なんて言ったね」
「え?」

 黒真珠は瞬きもせず、困惑した雪華の顔を映している。静かな目だった。しかし嵐の前の静けさのように不穏な緊張をはらんだ眼差しだった。

「いつもってどういうことだい。あんた森を彷徨ってそんなやせっぽちになったんじゃないのかい」

 椎菜が低い声で問うた。このとき気の利いた嘘をつければよかったのだが、雪華は幼かった。ゆえに誤魔化すという発想すら浮かばなかった。
 雪華はただ己を取り囲む能面たちが怖かった。自分の言動が彼らを怒らせたことは辛うじて理解できたが、自分の何が彼らの気に障ったのかさっぱり見当もつかなかった。

「え、えっと、わたしがわるいことすると、おかあさんおこって森のなかにおいてくの。で、でもだいじょぶだよ。ちゃんとおうちまでたどり着ければ、おかあさんうちに入れてくれるし、やさしいの。わるいことしたわたしがわるいの。おかあさんはわるくなんだよ」

 ふとスーツ姿の大人たちを思い出した。彼らもこのように怒ったような顔で雪華を見下ろしていた。なぜか苦しそうに顔を歪めて雪華を見ていた。
 だから雪華は弁明しなければならない。母は悪くないのだと。自分は不幸な子どもではないのだと。
 依然として静寂は場を覆ったままだ。まだ足りなかっただろうか。彼らには理解できなかっただろうか。さらに言葉を連ねようと口を開きかけたときだった。

「なんてこった! ああ、こんなことってあるかい!」

 ヤタが叫んだ。羽を激しく動かしてわめいた。雪華はぎょっと身を引いたが、ヤタは雪華の顔が引きつったのに気づいていないのか早口で何やらまくしたてている。ほとんど聞き取れはしなかったが、どうも悪態をついているらしかった。

「あんたこそこのガキにずいぶんな肩入れをしているじゃないか」

 椎菜が呆れた声で言った。ヤタは彼女をきっと睨みつけた。黒々とした目の奥に炎が躍る。

「これが怒らずにいられるかい椎菜! 親が子を捨てるなんて! 人間ってのはつくづく理解ができないね。私だって子どもを育てた身だ。子育ての大変さはわかるつもりさ。でも森の中に置いていくなんて! それも何度も! たとえ自分が腹空かせていようが子のために飯を探し、子どもを狙う不届き者から身を挺して守るのが親ってもんじゃないのかい! そんな親は親と名のる資格はないね。そんな親だったら私が代わりにこの子を育ててやるさ」

 ヤタの羽は興奮で逆立ち、時おりカッカッと短い鳴き声が混じった。

「けど人間は死肉じゃ育たないんだよ。あんたには向いてないんじゃないのかい」

 椎菜が意見した。だがその口調は角をとったように丸い。泣きわめく子を宥める親にも似た声音だった。

「じゃあうちはどうだ?」

 二人の会話を見守っていた男が手を上げた。正直雪華はこの三匹のうちから選ぶのであればこの男が良かった。一番温和そうだからだ。だがそれは無情にもヤタによって一蹴された。

「ろくに変化へんげもできないタヌキに人の子を育てられるわけないだろ。どんなものになったって必ず耳やら尻尾やらが見えてんだからさ」

 はげ頭をヤタが叩くと、情けない悲鳴が上がる。頭と連動して丸い耳が動くのが妙に滑稽だった。
 ヤタが振り返って椎菜に視線を定めた。その口角は上がっているようにも見えた。

「だからあんたしかいないんだよ椎菜。尾曾おそ山の天狗に習ったとき、こいつは最後の最後までできなかったが、隣で見ていたあんたは習得できたじゃないか。人の社会にも溶けこめる。まあ私は人に腐った肉与えてしまうような感性だし? まさか死肉を漁る古烏こがらすに年端もいかぬ少女を押しつけるほどあんたも薄情じゃないだろう?」

 雪華は恐る恐る椎菜を見上げて後悔した。椎菜の顔つきは先ほどよりも鼻に皺が寄り、眼光も険しい。今にも言葉の刃物が飛び出てくるのではないかと雪華は俯いた。
 しかし予想とは裏腹に椎菜が絞り出したのはたったの一言だった。

「……よりにもよって私にそれを言うのかい」

 はっと雪華は顔を上げた。太陽が雲に隠れ、椎菜の顔に影が落ちる。それは触れるのもためらうほどの憂いだった。恐らく雪華の何倍も生きているであろう椎菜の面立ちに迷子の子どもの影が重なった。

「いいじゃないか。番もいない独り身なんだ。ちょっとくらい賑やかすぎるくらいのほうがうじうじ塞ぎこんでいるよりよっぽどいいだろ?」
「誰がうじうじしているだって?」

 灰の中から再び火が立ち上がるように椎菜の瞳の奥に火の粉が散った。ヤタは肩をすくめた。

「だってそうだろう。そりゃあれには同情するけどさ、事あるごとに辛気臭い顔されちゃこっちだってたまらないってもんさ。相性も悪くなさそうだし、ま、軽くお試し程度にやってみなよ」

 椎菜の目が微かに揺れた。それを目ざとく見つけだしたヤタは畳みかける。

「なあに私らも全面的に協力するさ。なあ大三郎?」

 ヤタが男を仰いだ。男は突如話を振られて目を瞬いたが、すぐに笑顔を浮かべた。

「ああもちろんだ。私にできることなら何でも言ってくれ。そうと決まれば手続きをしなくっちゃな。椎菜とこの子が家族になるためには人間の決まり事に則らなきゃいけない」

 大三郎は肉のついた顎をなでさすった。

「それなら尾曾山の猿じいがいいさ。あいつなら人間界のことにも詳しいだろうよ。さ、そうと決まれば早速出発しなきゃね。大三郎あんた車になりなよ。尻尾が生えた珍妙な車でも足くらいにはなるだろ」
「だからなんでお前はいちいちけなさなきゃ気がすまないんだ」
「事実だろ」

 軽やかな応酬を続ける二匹に雪華はおずおずと声をかけた。

「あの、ヤタさん」
「なんだい?」

 ヤタが首をかしげて雪華を見た。

「もし白い車からあかるいちゃいろの、しいなさんのよりはちょっとくすんでいるけど……パーマの女のひとが、だれかをさがしているようだったらおしえてほしいの。おかあさんかもしれないから」

 そのとき浮かべたヤタの表情を正確に言い表すのは難しい。憤りと憐れみと、その他数多の感情を鍋に入れて煮詰めたような複雑な色が束の間カラスの目にきらめいた。だがそれを雪華が尋ねるより前にその色は消え去り、代わりに慈しむ柔らかな光が顔を出した。

「……わかったよ。私には仲間がたくさんいるからね。森にそれらしい車がきたら教えてもらうよう言っておくさ。安心おし」
「うん、ありがとうヤタさん」

 ぺこりと頭を下げるとヤタは小さく笑った。と、突然視界の端で煙が上がった。思わず雪華は一番近くにいた椎菜に抱きついてしまった。飛びついてから雪華ははっと身を凍らせた。
 どうもこの獣は雪華のことがあまり好きではなさそうだ。悪い獣でもなさそうだが、先ほどの男のように長い尾ではたかれるくらいはされるかもしれない。
 しかし予想に反して椎菜は雪華の頭を撫でただけだった。飴色の毛からは陽だまりの匂いがした。昔かいだ母親の香りとは違うが、安心する香りだった。
 煙が晴れる。そこにはくすんだ黄色の車が座っていた。ひと昔前の、少し時代遅れのデザインだがフロントからバンパーにかけて丸みを帯びた曲線は可愛らしい印象を与える。ここまでなら普通の車となんら代わりはないのだが、ちょうどマフラー部分にふさふさした茶色の尻尾が揺れていた。

「やあ驚かせてすまないね。今度は耳も出てないし完璧だろう」

 車から誇らしげな声が聞こえてきた。心なしか車の顔が笑っているようにも見える。椎菜が深々と嘆息を落とした。

「代わりに尻尾が出ているけどね。これじゃどこぞの茶釜よりもタヌキの仕業だってわかるだろうさ」
「えっ、嘘だろう? そんな、今回こそ完璧にできたと思ったのに!」

 ランプがちかちかと点滅して、ワイパーが右往左往した。

「だからいつも言っているじゃないか。あんたはどんなものになったって尻尾か耳がでるんだって。まさに耳隠して尻尾隠さず、または尻尾隠して耳隠さずだね」

 ヤタがけらけらと笑う。車はヘッドランプを消して、ワイパーをしょんぼりと下げた。尻尾は地面についたまま動かない。

「まあ山の中を突っ切っていけば、よほどのことがない限り人に出会うこともないだろうさ。獣道を通れば隣の山なんてすぐだろうよ。ほら落ちこんでないで、さっさと扉開けな」

 椎菜が軽く車体をはたく。車は一度ぶるりと震えてドアを開けた。
 車はなんとか四人乗れるかどうかのこぢんまりとした車だった。だが今いるのはやせっぽちの少女一人、カラス一羽、大人ほどの背丈のある獣が一匹。十分乗れる人数だろう。

「じゃ、運転よろしく頼むよ椎菜」

 真っ先に後方の席にちょこんと座ったヤタがからかった。

「馬鹿言ってんじゃないよ。人に変化はできても、こんな鉄の塊の操縦方法なんて知るわけがないだろ。大三郎が動きな」
「はあ、わかったよ。でも人間には変化してくれよ椎菜。運転席にイタチが乗っていたら周りから二度見されるぞ」
「尻尾生やした車が何言っているんだい」

 椎菜は鼻で笑って運転席に座った。もちろん姿はイタチのままだった。雪華は迷った。後方に座るのならばヤタの隣だ。また腐った肉を勧められるのは困るが、そうなると椎菜の隣に座ることになる。
 手の中のおにぎりを握りしめて、雪華は所在無げに視線をさまよわせた。

「なにぼさっとしているんだい。乗るならさっさと乗りな」

 椎菜が助手席を顎でさした。雪華の選択肢は一つしかなかった。
 雪華が助手席に腰を下ろすと、扉はひとりでに閉まり、車は唸りながら木立の中に消えていった。


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