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【短編小説】梅ジュース

日常は当たり前ではない。それを理解するのには若すぎた。
梅ジュースにまつわるある女の話。


「そういえばさっき中央館でアスパラ売っていたんだよね。買っていこうかな」

 友人が鞄を探りながらなんともなしに呟いた。二人が通う大学は農業系の学部が入っていることもあり、時折構内で格安の野菜の販売がある。
 そういや若草色の塊を見かけた気がする、と女はぼんやり思った。
 値札と小銭をいれるアルミ缶に、真っ白な若い茎が無造作に詰め込まれたコンテナ。人通りが多いため料金を払わない不届き者はいないだろうが、なんとも無防備な無人販売所だ。
 たとえ盗っていく人はいなくても料金より少ない小銭をいれるとか考えないのだろうか。

「アスパラといえば、もうバイト先のアスパラは物が悪くなってきているし、そろそろ旬が過ぎるかもね」
「あっ、そっか。バイト先、農産センターっていっていたもんね」

 彼女の目に納得の色が浮かぶ。
 女が勤めているバイトは野菜の詰め込み作業だ。玉ねぎやブロッコリーなどは年がら年中くるが、届く野菜の傾向は季節によって違う。例えば、夏はとうもろこし、秋は柿、冬は大根。そして春先から初夏の前までにかけてはアスパラであった。それこそ折れてしまいそうな小枝クラスものから親指より太い立派なものまで延々やってくるので、少々見飽きているくらいだ。

「木にも若葉がついてきたし、昼間は暑くなってきたしさ、もう終わりだろうね」
「すごいね。そういうことわかるんだ。これから何が旬なのか聞こうかな」
「詳しいっていうほどじゃないけどね。うちで取り扱うものにも偏りあるし」

 純粋な賛辞に女は苦笑する。ふいに彼女は足を止めてこちらを振り返った。

「ねえ、そっちでは梅取り扱っている?」
「梅? うーん見たことないけどなんで?」
「今年の夏は梅酒作りたいなって思ったから。そっかぁ、取り扱ってないんだ。残念」

 軽やかに笑って彼女は次の話題に移った。
 梅酒か。たしかに夏のイメージがあるな。でも私の中では、夏といえば梅酒というより――
 耳の奥でカランと氷が鳴る。コップに並々入った、透明感溢れる薄いレモン色が揺れた。一瞬で幼い記憶がよみがえり、郷愁の念に駆られる。しかし次の瞬間には胸に穴が開いたような虚無感が押し寄せた。

「……馬鹿だなあ。もうあれはないのに」
「何かいった?」
「ううん、なんでもないよ」

 女は首を振って誤魔化し笑いを浮かべた。足元に淀む昏い影から目をそらしながら。


 女には夏の風物詩とも呼べるある飲み物が存在した。それは梅ジュースである。風におぼろげながら夏の気配が漂いだす頃、祖父が道路まではみ出さんばかりに茂る枝を長い棒で突っついて、まだ青い梅の実を落とす。うっすら毛が生えた小さな実は手触りがよく、幼い頃の自分は落ちて汚れて使い物にならない梅を弄んだものだった。そうして集めた青梅は園児が腕いっぱい回してなんとか抱えこめるほど大きなプラスチックの瓶に、これまた本当に氷山から切り出してきたのではないかと見間違うような巨大な氷砂糖たちと共に閉じ込めておくのだ。
 そうしてじわり、じわりとその内に秘めた瑞々しいエキスが氷の肌に染み出して、太陽照りつける真夏には黄玉色の液体で満たされる。そこには垢抜けない未熟さはすっかり鳴りを潜めて、老成した彼らが底で揺蕩うのだ。
 祖父が作るのはもちろんそれだけではなく、梅酒も作る。ただ子供の自分は飲めない。だから祖父母の家からもらってきた濃い原液を水で薄めて氷を浮かべたジュース、それが女にとって夏の象徴であった。
 梅は身体にいいからと、母が毎朝のようにだすそれは女が進学のために故郷を離れるまで続いた。爽やかで甘酸っぱいジュースは蒸し暑い一日の始まりに元気を与えてくれた。年を経るにつれて半ば義務的のようになっていたが、朝に鳴り響く軽やかな音色と舌を流れる爽快な甘さは今でも昨日のことのように思い出すことができる。
 女は愚かであった。この毎日がいつまでも続くと信じて疑わなかったのだ。

「ねえ今から言うことをよく聞いてほしいんだけど」

 久しぶりの故郷は自分の想像よりもずっと湿気を含み、まとわりつく生温い風が気持ち悪い。一年向こうで暮らしてきたが、湿気がない分、夏はあちらのほうが好きかもしれない。気休め程度の風を顔に受けながら運転する母の横顔に視線を移した。

「なに?」
「あのね、じいじね、膵臓癌なんだって」

 静寂が落ちる。女は無言のまま先を促した。視界の端に白髪混じりの髪がなびいていた。

「末期でね、歳も歳だから手術するより病院に通いながら自宅でゆっくりしたほうがいいんじゃないかって」
「……どのくらいなの?」
「お正月はもつと思う。春休みはどうだろう。来年の夏までもてばいいけど」
「……そう」

 正直実感がなかった。最後にあったのは向こうに旅立つ前で。そのときはいつもと変わらないよく笑う祖父そのものだった気がする。

「この前みんなで集まってこれからどうするか話し合ってきたところ。入院することも勧められたけど、じいじは家から通院するほうがいいみたい」
「そっか」

 窓から流れる景色は数か月にみた景色と大して変わりはない。せいぜい禿山が豊かな髪をつけたくらいだ。車内に置いたリュックが一度大きく跳ねた。

 その年もやはり薄く黄色みがかった水は朝を知らせた。祖父母の廊下に鎮座する瓶たちも常と変わらず、やはり病気になんて罹っていなかったのではなかったのかと錯覚するほどだ。

「おお、よく来たな」

 満面の笑みを浮かべて歓迎した祖父も変わらない。強いて言うならば、少し瘦せたような気がする。それでも生命の灯火が消えるような印象なんて一切受けなかった。
 やっぱりなにかの間違いなんじゃないか。握りしめた指先から力が抜け落ちる。女は先ほどまで恐れおののいていた自分を笑い飛ばしたくなった。
 窓の外では例年通り蝉がけたたましく鳴いている。

 冬。成人式のために再び故郷の地を踏んだ。色とりどりの振袖で着飾る見知った顔ぶれは、端々に自分の知らない色をにじませていて、彼らの成長をひしひしと感じる。が、それと同時に彼らとの間に見えない壁ができてしまったようで置いてけぼりにされてしまったような感覚に陥った。

「本当におっきくなったねえ」

 友人の母が目じりに皺を刻ませながら笑う。小学校から高校まで同じ学校に通い続けた彼女も、進学と共に会う機会はめっきり減った。何をせずとも顔を合わせた日々が噓のように、今では土産を渡すという口実を作らなければわざわざ会うこともない。一抹の寂しさを感じていると友の母が口を開いた。

「そういえば進学先ずいぶん遠いわよね。飛行機じゃないといけない距離でしょう」
「まあ、そうですね」

 自分の進学先は、友人も目の前のおばさんも知っている。遠いところなのに一人で偉いわねえと、ねぎらってからおばさんは続けた。

「でもねえ、やっぱり親としては心配じゃない? ほらやっぱり何かあって駆け付けられる距離じゃないと……。せめて地続きのところがいいわよね」

 おばさんは堰を切ったように、一人暮らしを始めた彼女について喋り始めた。勉学からバイトから始まり、必要最低限のことしか連絡してこないだとか、ちゃんと食べているのかだとか愚痴や不安まで。
 女はおばさんの話を聞き続けていくうちにある考えが首をもたげた。
 もしかして彼女が目指していた大学とは全く縁もゆかりもない県に進学したのは――
 実は友人の第一希望だった大学は自分と同じ県の大学であった。しかし蓋を開けてみれば彼女が進学した先は自分とは真反対の場所で。彼女が目指した大学のレベルは自分とは比べものにならないほど高いものだったから、てっきり力及ばなかったのかと思いこんでいたのだが。

「寮に入るまで決めていたんだけど、遠すぎるし、あの子絶対に帰ってこないと思ったから。受験の日も大雪で大変だったし」

 彼女があんなにも切望していた大学だったというのに。
 女の喉から鋭い切っ先が飛び出すその瞬間だった。

「それにねえ、そんなに遠いと親の死に目にも会えないでしょう?」

 女の動きが止まる。瞬き一つにも満たない沈黙の後、女は曖昧な笑みを浮かべて、肯定とも否定ともとれぬ返事を返した。おばさんは女の動揺を気にすることなく、結局話したいことだけ言い終わると、幾ばくかすっきりした様子で帰っていった。女はおばさんが見えなくなった途端に、深い嘆息をもらした。

「家庭の考えはそれぞれだから私が口出しすることなんてないじゃない」

 胸中のやるせなさを振り払うように呟く。しかし「親の死に目にも会えない」、その言葉だけは心の中にしつこい黒ずみのごとくこびりついたままだった。

 春休み。記録的な豪雪も収まり始め、冬休みのときのように雪で交通網が麻痺することなく、無事に目的地にたどり着いた。出口に顔を向け、女は破顔する。到着ロビーに佇む見知った姿へ、女は一直線に向かっていった。
 

「じいじの様子はどう?」
「いいとはいえないね。自宅療養だけど、本当にいつそのときが来てもおかしくないって。あと脂質の多いものは駄目だって。消化できないからね」
「えっ、ごめん。私、ちょっと脂多いの買ってきちゃったかも」

 祖父の大好きな酒の肴に合うものを、と選んだのは干し貝柱だったが、帆立だけならまだしも、それはさらにチーズまでついてきていた。慌ててパッケージの成分表を見る。表示された数値は自分の予想よりはるかに高い値。
 女の顔から血の気が引く。
 失念していた。正月に買ってきた鮭の漬けはとても喜ばれたから、またあの顔が見たくて祖父の好みに合いそうなものを選んだのに、それが逆に仇となるなんて。――これがもう最後の土産になるかもしれないのに。
 握りしめた紙袋が大きな皺を作った。

「いやそんなに神経質になることでもないよ。それくらいだったら大丈夫」

 母は自分の不安を笑い飛ばすかのように明るい声で返した。休みの間に会いに行こうね、という母の言葉に女は一にも二もなく頷いた。
 向こうに帰る前、宣言通り祖父に会いに行った。瘦せたというのでまるで枯れ木のようになってしまったのではないかと戦々恐々していたものの、祖父は予想よりしっかり立っていた。しかし一回り小さくなった身体に黄色くなってしまった肌。病が祖父を蝕んでいることは明らかだった。

「あの、これお酒に合うって評判だから買ってきたけど、もししんどかったら食べなくていいからね」
「おう、ありがとうな」

 おずおず渡した袋は拍子抜けするほどあっさり祖父の手にわたった。祖父は正月と同じ笑顔を浮かべていた。大学の話を少々すればあっという間に別れの時はやってきた。

「じゃあお邪魔しましたー」
「がんばれよ」

 女はいつもと同じように祖父の手を握って祖父母の家を後にした。祖父の手は自分のものよりずっと薄くて乾いた手だったが、なぜか力強い手だった。
 向こうに帰って一か月も経たない頃、バイトから帰ってきたとき、自分のスマホに一通のメッセージが入っていたことに気がついた。母からだった。

『じいじ、緊急搬送されました。やれる処置がほとんどないので自宅に帰ってきました。意識はあるけどよくはないって』

 冷えていく指先とは裏腹に思考は冷静だった。
 ――ついにか。夏までもってほしかったな。
 またはここでどんな駄々をこねても状況が変わらないことを理解するだけの分別はあったからかもしれない。女は母に短い返信を返してベッドにもぐり込んだ。
 翌朝、新たなメッセージが入っていた。

『じいじ、今朝亡くなりました』

 それはとても簡素な文だった。
 やっぱりだめだったか。心に浮かんだのはそれだけだった。涙も出ないなんて、薄情な孫だ。頭の片隅でそんな声が浮かんだが、悲しみ一つさえ湧き上がらなかった。
 文章はさらに続いている。お通夜や葬式の日程、世界的に蔓延する感染症のため帰る必要はないこと、代わりに自分の名前で花をだしておくなど。
 それに既読をつけて女はスマホの電源を切った。そのままベッドに倒れこむ。見上げた天井は昨日と全く変わらない。この世から一人の命が消えた。それなのに驚くほど自分の周りは変わらない。薄っぺらな長方形が伝える報せは、それに比例するように情報本来の重みを軽くしてしまうようだった。

「親の死に目にも会えないで」

 おばさんの言葉がふとよみがえった。自分は不孝者なのだろうか。夢のために故郷を離れた。それは後悔していない。
 本当に? 本当にこの選択は正しかったのだろうか。家族の一大事に駆けつけられないどころか、葬式すらも出られないのに?
 女はそれ以上思考することを辞めた。中断しなければ自分の非情さを突きつけられような気がしたからだ。
 送られてきた葬式の写真は最後に会ったときよりも血色がよく、若々しかった。とてもいい笑顔。何年前の写真を使ったのだろう。ぼんやりそんなことを考えた。やはり涙はでなかった。

 ドラマのように祖父の死をきっかけに劇的に生き方が変わる、そんなことは起こらない。日々は淡々と何事もなく過ぎていく。

「ここの酒蔵有名だから寄ってみたいんだよね」

 友人が日帰り旅行の帰り道によったのはある日本酒の蔵だった。資料館とも呼べぬ十人が入るか入らないか程度の一部屋にはその歴史を語る写真やポスターがずらりと並ぶ。併設する売店には当然のことながら酒瓶が棚一面に整然と鎮座している。試し飲みさせてもらった友人が思わず感嘆の声を上げた。感激する彼らを見守りながら、女は透き通った滑らかな硝子の肌に目をやる。
 ――お土産でお酒贈ればよかったな。
 送るのはいつも菓子類ばかりで酒を贈ったことは一度もなかった。それどころか酒を一緒に飲んだことすらなかった。正月、叔父に勧められたときに乗っかって一杯くらい付き合えばよかった。今さら何を言っても遅すぎるけれど。
 女は無意識のうちにきつく拳を握っていた。

 また別のある日のこと。女の指が青く輝く自販機のボタンを押す。出てきたのは冷えたココアだった。友人が推しているちょっと珍しい冷やしココア。振ってからプルタブを引くと、空気がぬける音がした。冷たいココアの強い甘さが喉を通る。意外にも不快なべたつきを残さず、絶妙な甘さだけ口内に居座った。さすが彼女が熱弁していただけのことはある。ゆっくり飲もうと思っていたのに、いつの間にか缶は軽くなっていた。ゴミ箱を探す前にプルタブだけとっておこうとして手が止まる。

「別にプルタブをとっておかなくてもいいじゃん。もう集める人いないし」

 祖父は早朝から長い散歩に出てプルタブ集めに勤しむ人だった。微々たる額だが、一応お金になるらしく、毎日毎日コツコツ貯めた袋いっぱいの銀のつまみを、車椅子だかどこかの団体に寄付していた。だからプルタブを持ち帰ってくると祖父は喜んだものだった。
 でももうその必要はない。女はため息をついてゴミ箱に放り投げる。小さな缶が底にあたって寒々しい音を立てた。

 女はある日買い物に出かけた。醬油が切れてしまったためだ。
 しかし調味料コーナーに向かうはずだった足は自動ドアを通り抜けたところで止まる。

「あなたも梅酒をつくってみませんか?」

 若葉が目立つ季節にスーパーの店頭に並ぶのは見覚えのある大きなプラスチックの瓶と氷砂糖、そして青みがかったやわらかな緑の玉。

「そういえば結局梅酒も飲む機会なかったなあ」

 祖父が作るあの渋い橙色はどんな味だったのだろう。知る術はないが、だからといって自分で作る意欲もわかない。どれだけ似せても結局完璧に再現することなどできやしない。
 存在感を主張する一角から目をそらし、女は足早にそこを後にした。


「どうしたの? 行かないの?」

 友人の声で意識が戻ってくる。

「ううん、今いくよ」

 首をかしげる友人に笑いかけて、女は固まっていた足を動かした。
悲しくはない。涙もでない。ただ日々の中に祖父の面影を見つけては胸にすきま風が吹くだけだ。いや胸というより足元に一瞬ぽっかり真っ暗な穴が開くような錯覚を覚えるのほうが正しい。
 生活の端々に祖父の欠片を探して、勝手に空虚感に囚われる。女はそんな無駄な行為を繰り返していた。
 カラン。耳の奥で氷が鳴る。
 今年から慣れ親しんだ夏の知らせはこない。あの涼やかな薄黄色も、酸っぱさに混じるすっきりした甘さも、心の中で色あせ、埃が積もるのを待つばかり。
 今年の夏はいつもより厳しく、寂しい夏になりそうだった。

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