【小説】花より団子、月より兎 ちらし寿司
そういえば春編を書いていなかったので、久しぶりにこのシリーズです。全部で3編になります。
今回は新しい兎を入れた三人の雛祭り。
畳んだタオルの山にうららかな日があたる。洗濯物を畳み終わった佳奈子は大きな欠伸をした。暖かな陽光は油断すればすぐさま夢の世界に引きずりこんできそうだ。
朝晩はまだまだ冬の気配が色濃く残るが、昼間はすっかり春の陽気が大手を振って闊歩している。そろそろ近くの公園にも桜の蕾がほころぶころだろうか。そうだ、あの公園と言えば――
「っていけないいけない。噂をすれば何とやらって言うじゃない。やめてほしいものだわ」
図々しい元居候が自分の名を呼びながら駆け寄ってくる姿が頭に浮かび、佳奈子は首を横に振った。
冗談じゃない。また食べ物をねだられても困るのだ。騒ぐだけ騒いで材料費も置いていかない兎なのだから。
空には青白い横顔がひっそりと浮かんでいる。
ああ、あの兎は元気に餅をついているのかな、なんて思いが自然に浮かんで、苦笑した。よほど人恋しくなっていたらしい。これも出会いと別れの季節が近づいてきているからだろうか。
と、そのときだった。
鈍い音と共に部屋がぐらりと揺れた。
「まさか……」
覚えのある感覚に佳奈子の眉間に皺がよった。
窓を開けてベランダに出ると空の青がいっそう鮮やかに映えている。しかしその青さを愛でている暇はない。じろりとアパートの屋根を睨みつける。やがて頭に思い描いた通りの白くて長い耳が顔を覗かせた。
「すみませんカナコちゃん。またドジっちゃったので中に入れさせてもらってもいいですか?」
「はあ……噂をすれば何とやらって、考えただけでも起きるものなのね」
前髪をかき上げてぼやけば、頭上の塊が首をかしげた。
「? 何か言いましたか?」
「何でもないわよ。ほら早く降りてきなさい」
だが予想に反して、兎はためらうように留まったままだ。佳奈子は眉根をよせた。
「何よ。アンタ今さら私に遠慮するようなタマじゃないでしょ、しらたま」
「ええ!? そんなことないですよ」
「じゃあ今までの食費請求したら出してくれるのかしら。あと居候していたときの家賃も請求したって構わないのだけど」
しらたまはぐっと言葉を詰まらせた。
「う、それはそうなんですけど……」
しかし視線を彷徨わせながらしょんぼりと項垂れるしらたまを見ていると、罪悪感が刺激される。佳奈子はため息をついて手招いた。
「はあ、別に怒ってないからおりてらっしゃい。いつまで屋根の上にいたって何もはじまらないでしょう」
「え、いいんですか?」
「初めから悪いなんて一言も言っていないじゃない」
思えばこのとき、やけにしおらしい態度を怪しむべきだったのだ。だが既に佳奈子は許可を出してしまった。一度出してしまった言葉は戻らない。
途端に笑顔になったしらたまはくるりと後ろを振り返った。
「だ、そうですよ先輩! よかったですね!」
「は? いやちょっと待ちなさいよ。先輩ってアンタ……」
佳奈子が止める暇もなく、白い塊と黒い塊がするするとおりてきた。佳奈子を見上げるのは見慣れた白と見慣れぬ黒。
「えっと……」
佳奈子が言いよどんだそのとき、勢いよく黒兎が頭を下げた。
「うちの後輩がいつもお世話になっております。突然の訪問、さぞ驚かれたことでしょう。大変申し訳ございません。しかし想定外の事態が起こってしまい、なるべく安全な場所に不時着せざるを得ず、最も信用できると後輩が太鼓判を押したあなたの家に緊急着陸をさせてもらった次第です。失礼を承知で頼みたいのですが、船のシステムが復旧するまでの数時間ほど滞在させてもらっても構わないでしょうか」
「い、いやそれは構わないけど……。ひとまず中に入ったら?」
怒涛の謝罪に佳奈子は思わず口から出かかっていた嫌味を引っこめた。それどころかベランダの戸を開けて、歓迎するように部屋に招いていた。
しらたまのように堂々と居座ろうとしていたならば、何倍もの嫌味で応酬していただろうが、本気で申し訳なく思っていることがひしひしと伝わってくるのだ。ここで叩き出すのはいくらなんでも鬼であろう。
「え、カナコちゃん何だか先輩に甘くないですか?」
口をポカンと開いたしらたまに、佳奈子の眉が跳ね上がった。
「は? 居候した挙句、アポなし訪問を繰り返しては食べ物をねだるだけのアンタと比べたら、そりゃ大半はもっとマシな対応になるわよ。わざとでもなさそうだしね」
「えっ、僕カナコちゃんのところでわざと事故を起こしたことなんて一回もありませんよ」
「当たり前でしょ。故意だったらとっくに研究所に送りつけてやっていたわ」
佳奈子が鼻を鳴らせば、しらたまの情けない泣き声が追いかけてきた。
「それで、船のほうは大丈夫そうなの?」
佳奈子は茶をすすって問いかけた。
「ええ。急なエンジントラブルでしたが、先ほど申し上げた通り、数時間ほどお時間をいただければ復旧できるかと」
ちょこんと目の前に座った黒兎はこちらを真っ直ぐ見つめて言った。マグカップになみなみつがれた麦茶には一口もつけられていない。隣のしらたまは既におかわりまでしているというのに、だ。
ほとほとこの元居候は先輩に似なかったらしい。爪一枚分くらいこの礼儀正しさを受け継いでくれればよかったのに。佳奈子は心の中で本日何度目かのため息をついた。
「そう。ならよかったわ。ところでなんて呼べばいいの? どうせ本名は教えられない決まりなんでしょ?」
しらたまが初めて家に来たときもそうであった。ごちゃごちゃと歯切れの悪い言葉を並べたてながらニックネームをつけろと注文したのだ。しかもせっかく挙げた名に文句をつけてきて、あのときは半ば本気で非常食と名付けてやろうかと思ったほどだ。
ああ、今思い返しても腹がたってきた。斜め前に座っている元凶は呑気にもらい物のおかきを頬張っているのが、さらに火に油を注ぐ。
佳奈子の機嫌が急降下したのを察したのか、黒兎がびくりと体を震わせた。
「ええ、すみません。お手数をおかけしますが、本当の名は教えられないので、好きな名をつけてくださると幸いです」
深々と頭を下げられ、佳奈子はひとまず怒りを引っこめた。彼に非があるわけではないし、責められるべき兎はどうせ反省しない。
佳奈子は片肘をついて、黒兎を上から下まで眺めた。大きさはしらたまとほとんど変わらない。くりくりした大きな瞳も同じ。唯一異なるのは対照的なその毛色だけ。以前しらたまから聞かされていた特徴と一致する。ならばつける名前はもう決まっていた。
「え? 先輩で良くないですか?」
「だって私の先輩じゃないし。アンタは黙ってなさい、しらたま。あと何の断りも入れずに人の食べ物あさらないでよ」
じろりとねめつけると、しらたまはぴょんと飛び上がって伸ばしかけていた手を引っこめた。佳奈子は釘を刺すかわりにもう一度強く睨みつけ、黒兎に向き直った。
「じゃあそうねえ……あんこ。あんこでどう?」
「構いません。それでは短い間ですがお世話になります。佳奈子様」
黒兎ことあんこはぺこりと頭を下げた。文句一つこぼさない潔い態度だ。散々ごねたしらたまとは天と地の差である。
「佳奈子様はやめてよ。佳奈子でいいわ」
「いえそれでは流石に気が引けるので。そうですね……では佳奈子さんと呼ばせていただきます」
あんこは強い意思のこもった目で首を振った。佳奈子は肩をすくめた。
「別に呼び捨てで構わないのに。まあいいわ。で、さっそく修理にとりかかると思うけど、終わるの多分日が落ちる頃よね。大丈夫そう?」
壁掛け時計の短針が差しているのは三と四の間。どれほど作業を急いだとしても、夜になってしまう可能性が高い。春に片足踏み入れているとはいえ、夏と比べれば日は短いのだ。手元が暗くなってしまえば、作業に支障が出てくるのではないか。
佳奈子の疑問をあんこはきっぱりと否定した。
「ええ、大丈夫です。その程度ならば作業に何の問題もありません。宇宙ではもっと深い闇の中を泳ぐこともありますので」
「あ、それもそっか。アンタたち月から来ているんだものね。日が暮れたくらいなら訳ないか。あ、でも他の人には見つからないようにしなさいよ。下からはまずないでしょうけど、ヘリコプターとかたまに飛んでいるときあるからね」
すっかり頭から抜け落ちていたが、この兎たちは月の出だ。宇宙の暗さに慣れているならば、地球の夜くらい余裕だろう。
だがそれはいいとしても、先ほど述べた通りこの兎たちは宇宙人いや宇宙兎である。佳奈子の知る限り月に兎が住んでいるというニュースは聞いたことがない。つまり未確認生命体。
今は太陽が照る穏やかな午後だ。明らかに普通よりも大きな兎たちがアパートの上で何か作業をしているのをうっかり目にしてしまえば、不思議に思うだろうし、それから芋づる式にしらたまたちの正体がばれてしまえば、それこそ大ニュースである。
ただの一介のOLではできることは限られている。国やらマスコミやらが乗り出してきたら、隠しきることなど不可能に近い。
「お気遣いありがとうございます。その点に関しましてはご心配なさらないでください。特殊迷彩機能は故障しておりませんので、まず人目に触れることはないかと」
「あ、そうなの」
「ええ」
あんこの目には嘘はなさそうであった。
しらたまと話していても時おり思うが、この兎たちの文明は割と高度なようだ。下手をすればこちらよりも進んでいるだろう。
まあ彼らの技術力の全貌はただのOLである佳奈子には見ることもできないし、話してもらったところできっと理解できない。本人たちが大丈夫というのならば信じる他ないのだ。
「それでは早速ですが、修理にとりかからせていただきます。細心の注意を払いますが、多少の物音はどうしてもしてしまうと思います。その点はご理解いただけますと幸いです」
「まあそれは構わないわよ。早く直るといいわね」
あんこはお礼を言って、椅子から飛び降りた。しらたまの尻を突っついて、席からおりるよう促す。
しかしここで素直に従わないのが、この面の皮の厚い食いしん坊兎である。
「ええーせっかく僕たち来たんですから、なんかおいしいものないんですかー?」
「アンタねえ……」
「おいこら、やめないか」
佳奈子は呆れた目を向け、あんこは慌てて小突いたが、しらたまは止まらなかった。
「だって地球のご飯おいしいんですもん。そりゃたしかに今日のは不幸な事故でしたけど、せっかくカナコちゃん家来たんですし、何か食べて帰りたいです! だって今から修理始めたらお腹へるじゃないですか」
「空腹くらい我慢しろ!」
あんこが𠮟りつけるが、まったく意に介することなく、しらたまはじたばたと駄々をこね始める。
「いーやーでーすー。春ですよ、春。ほら桜もちとかお団子とか菜の花とか山菜とか、たけのこご飯とかいっぱいいいのあるじゃないですか! 僕勉強しましたからね」
「いやそんなこと勉強する暇あったら、仕事のミスを減らす工夫を考えなさいよ」
胸を張っているが、内容はひどくくだらないものだ。佳奈子は冷めた目でつっこんだ。だがその程度で怯む兎だったら苦労しない。
しらたまは椅子からおりると、佳奈子の足元に駆け寄って、きらきらした目を向けた。
「ねえカナコちゃん、いいじゃないですか。頑張ったご褒美ってことで、おいしいの作ってくださいよ」
「すみません、こいつのことは気にしないでいいので。おい、ここで油売っている時間はないんだ。行くぞ」
平謝りしながらあんこがしらたまを引っ張る。しらたまは引きずられまいと佳奈子の足にしがみつく。コントみたいな綱引きを見ているうちに佳奈子は馬鹿馬鹿しくなった。
「はあ、わかった。わかったわよ。作ってあげるから、早く修理に向かいなさい」
「カナコちゃん!」
「佳奈子さん!?」
ぱっとしらたまが喜色満面の笑みを浮かべ、対照的にあんこは悲鳴混じりの声を上げた。
「いいわよ。どうせ叶うまで駄々こね続けるだろうし、その分アンタたちが帰るのも遅くなるでしょ。流石に二匹分の兎を泊めるスペースはないし」
佳奈子はひらひらと手を振った。経験則から言ってこうなってしまえば、こちらが折れるまでぶうぶうと鳴きながら付きまとうはずだ。だったら、さっさと希望を叶えてしまったほうが、最終的にかかる労力は少ない。
あんこが疲れたように肩を落とした。
「はあ、本当に何から何までご迷惑をおかけします」
「いいわよ、慣れているし。あ、あと茶くらい飲んでから行きなさいよ。一口も口つけないのはちょっと傷つくわ。心配しなくても毒なんて入ってないから」
ぶっちゃけ月の兎にとって何が毒で何が食べ物なのかは知らないが、しらたまは普通に飲んでいたので、アウトではないだろう。
あんこは目を丸くして、それから気まずそうに目をそらした。
「それではお言葉に甘えて」
あんこは席に戻ると、短い手で器用にマグカップを掴み、一気に飲み干した。
「美味しかったです。ごちそうさまでした。それではなるべく早く済ませますので」
あんこは一礼した。そして有無を言わさずしらたまを捕まえ、引きずるようにしてベランダへと消えていった。
さて、約束してしまったからにはしらたまを満足させる春らしいメニューが必要となる。
「しかし春らしいって言ったって、そんなに季節ごとに意識してご飯作っているわけじゃないしね」
しらたまと出会ってからは多少季節のものに敏感になったとはいえ、元々一人暮らしの社会人だ。いちいち自分のためだけに丁寧にメニューを考えるはずもない。済ませられるものなら、簡単に手早く済ませたいというのが本音である。
「ま、ひとまずスーパーに行けばわかるかしら」
佳奈子は買い物バックを肩にかけ、本日の夕飯に頭を巡らせた。
「カナコちゃん、カナコちゃん、終わりましたよ。で、今日のご飯は何ですか」
期待に満ちた目が佳奈子に突き刺さる。が、それには一瞥も投げずに、佳奈子はおたまをぐるりと回した。
「はいはい、もうすぐできるから待ってなさいよ」
「はーい! 何か手伝うことはありますか?」
耳をピンと伸ばしてしらたまが問う。
「じゃ、お箸とスプーン用意しといて」
「わかりました!」
騒がしい気配が離れる。だが今度は後ろめたそうな、しらたまとは種類の違う鬱陶しい視線が絡みついた。
「本当にすみません……」
「別にいいわよ。アンタは勝手がわからないだろうから、大人しく座ってなさい」
佳奈子は相変わらず鍋を見つめたまま答えた。何か言いたげな視線はそのままだったが、渋々椅子を引く音が聞こえてきた。
「で、今日は何ですか?」
今にもスプーンを手にとろうとうずうずしているしらたまに、佳奈子は素っ気なく答えた。
「いきなりアポなし訪問してきた上に、面倒なリクエストまでつけてきたから今日は手抜き。ほら包み開けたら?」
しらたまたちの前には桜模様が印刷された桃色の風呂敷包みが鎮座している。包みを開いたしらたまたちから歓声が上がった。
「わっ、きれい! なんですかこれ」
「たしかちらし寿司? でしたっけ?」
「あたり。よく知っているわね」
そう、今日のメインは海鮮やらレンコンやら錦糸卵やらを花畑のように散りばめたちらし寿司だ。流石にスーパーのものをそのまま出すのは味気ないだろうと、家にあった風呂敷で春らしさを演出してみた。
「でもなんでこんな豪華なんですか? カナコちゃんだったら、てっきり味付き肉を焼く程度で済ませるものと思っていたのに」
「アンタが春らしくしろって言ったんでしょ。それに今日はひな祭りだから安かったのよ。文句言うならあげないわよ」
失礼なことをいけしゃあしゃあとのたまう兎だ。プラスチックの玉手箱に手を伸ばすと、慌ててしらたまが抱えこんで背に隠そうとした。
「い、いらないとは言ってないじゃないですか! もうこれは僕のですからね」
「だったら文句言わない。誰が用意してやったと思ってるのよ」
冷ややかな目で見つめれば、しらたまは平謝りした。
「ひな祭りですか。たしか女の子の幸せを願うこの国の行事ですよね」
興味深げにちらし寿司をいろいろな方向から眺めていたあんこが呟いた。
「そうね。結構地球のこと詳しいじゃない」
「まあそれなりに勉強しますので。一番近くの星ですしね」
あんこはぼそぼそと答えた。
「じゃあカナコちゃんの日ですね。あれ? でもたしか資料ではなんか仰々しい服きたお人形飾ってましたよ。見当たらないですけど、カナコちゃんは飾らないんですか?」
不思議そうに辺りを見渡すしらたまに佳奈子は苦笑した。
「もう女の子って年でもないでしょ。いちいち雛人形なんて飾らないわよ」
「えー? でも前女の子は何歳になっても女の子ってテレビでやっていた気がするんですけど」
「アンタ、テレビで何学んでんのよ……」
佳奈子は呆れたため息を落とした。つくづく無駄なことしか学ばない兎である。
「ほら、ごちゃごちゃ言ってないでさっさと手をつけなさい」
「それもそうですね!」
「はい、それじゃいただきます」
いただきます、と手を合わせた佳奈子に倣って、しらたまたちも唱和した。
生き生きとスプーンを持って、しらたまは勢いよくちらし寿司に突き刺した。佳奈子も箸をとって、黒い器を持ち上げた。あんこは二人が手に取ったのを見て、遠慮がちにスプーンを掴む。佳奈子はそれにちらりと視線を投げた後は、目の前のご馳走に集中することにした。
錦糸卵の絨毯の上にはエビが何匹も乗っかり、その隙間を真っ赤な真珠のようなイクラが埋めている。鮮やかな緑のさやえんどうが芽吹いた新芽のようで、いっそう春らしさを際立たせていた。
「おいしい! カナコちゃんこれおいしいです!」
一足先にちらし寿司を口にしていたしらたまは、頬をぱんぱんに膨らませたまま身を乗り出した。
「あっそう。ならよかったわ。でも口に物いれたまま喋らないで」
近づいてきた白い塊を押し戻し、佳奈子もちらし寿司を摘まみ上げた。
茹でたエビは柔らかく、歯で数回噛んだだけであっさりとほぐれる。
エビを最後に食べたのはいつ頃だっただろうか。ああ、そういえば小さい頃、親と行った回転寿司ではエビのしっぽが固すぎて嫌だと残していたっけ。まあ今も得意ではないのだけれど。
イクラのプチプチとした食感が楽しく、食べる者を飽きさせない。海の者たちが濃厚な旨味を弾けさせるが、ご飯が酢飯なので、さっぱりと食べられる。あ、ニンジンも入っていたんだ。気づかなかった。ニンジンの優しい甘さは全体の調和を邪魔することなく、上手く溶けこんでいる。
「値段のわりには美味しいじゃない。さすが私」
佳奈子は自画自賛した。
あんこも手を止めることなく、スプーンを動かし続けていたのだが、ふいに手を止めて傍らの椀を覗きこんだ。
「佳奈子さん、これは何ですか?」
あんこが首をかしげて突っついているのは椀の中の身だ。薄く白いもやの中に沈んだ、黄色がかった塊は、何とも言葉で表しづらい奇妙な形をしていた。
「それはハマグリのお吸い物。感謝しなさい。アンタたちの手じゃ取りづらいと思って貝からとっておいてあげたんだから」
「おお、これがハマグリですか」
興味津々といった顔でしらたまも椀を覗きこんだ。
「今日は海鮮尽くしですねえ、カナコちゃん。いつもは渋るのに」
「しょうがないでしょ。私の中での兎はかわいい草食動物なの。肉とか魚とか目の前で食べられると微妙な気持ちになるのよ」
佳奈子の兎のイメージはニンジンをポリポリとかじる愛らしい小動物なのだ。それはしらたまに出会った後も変わらない。なまじ見た目が同じだけに、いくら本人たちが食べられるのだとしても、進んで肉や魚を食す兎を見たいわけではない。
佳奈子は本日自分で作った唯一の料理に口をつけた。
滅多に食べられないハマグリのお吸い物はまず汁の味からして違う。アサリの味噌汁もそれはそれで美味しいのだが、やはり食べ慣れているせいかどこか庶民的だ。それに比べてハマグリの出汁は深窓の令嬢のような上品さがある。肉厚の身は食べごたえがあり、噛めば噛むほど旨味があふれてくるのだ。流石、古来より愛されてきた貝なだけある。
「初めて食べましたが、美味しいですね。地球の食べ物」
あんこが感嘆の息をついた。いつの間にかちらし寿司は半分ほどまで減り、ハマグリのお吸い物に至ってはほとんど残っていない。
「そうでしょうそうでしょう! すごいんですよ、地球の食べ物は」
「なんでアンタが誇らしげなのよ。アンタが作ったわけでもないでしょうに」
佳奈子は呆れた息をついた。
「だって先輩にも知ってほしかったんですもん。地球の素晴らしさを。あとカナコちゃんのことも。尊敬する先輩ですから」
あんこが何とも言えぬ顔でもごもごと口を動かした。黒い毛で覆われているというのに、薄っすら上気した頬が見えたような気がした。
至極当然という顔でこういうことをさらりとのたまうから、この兎はドジっ子のくせに愛されているのだろう。佳奈子は緩めそうになった口元を引き締めて、意地の悪い顔を作った。
「なに? 私のことはおまけなわけ? 薄情な兎もいたもんだわね」
「ち、違いますよ! カナコちゃんのことも大好きですってばぁ」
一転して泣きわめくしらたまを佳奈子はくすくすと笑った。
「はいはい、わかっているわよ。ほらさっさと残り食べて帰んなさい。私、明日仕事なんだから」
「まったくカナコちゃんったらいじわるなんだから」
ぶつくさ言いながら、しらたまは再びスプーンを動かした。
「すみません、大変お世話になりました」
ぺこりとあんこが頭を下げた。
「滞在させていただいただけでなく、美味しい食事まで振る舞ってくださり、感謝してもしたりません。この恩は必ず返しますので」
「はいはい、期待せずに待っているわ」
佳奈子はひらひらと手を振った。
「えーカナコちゃん冷たくないですか?」
「だってアンタ、ろくにお礼も返してないじゃない」
「うっ……いやいやでもこの前月のお餅ご馳走したじゃないですか!」
「それだけでしょ」
しらたまは今度こそ言葉を詰まらせた。黒い瞳はわかりやすいくらい右往左往している。隣のあんこが大きく嘆息を落とした。
「……後輩には厳しく指導をしておきます。それから今回のご恩に報いるようなお礼を用意できるかはわかりませんが、何も礼をせず、佳奈子さんの親切を享受するだけで済ますことは絶対にしませんので。月に誓ってもいいです」
真剣な眼差しはからかうことさえ憚られるほどだった。佳奈子は開きかけた口を一度閉じて、何ともない顔を作った。
「そう。ま、気をつけて帰りなさい」
「ええ、またお会いしましょう」
「カナコちゃん、次はたけのこご飯でお願いします!」
にこにこと手を振るしらたまをあんこが軽くはたく。それにしらたまがぶうぶうと口を尖らせたが、どこか甘えが滲んでいた。
二人を乗せた銀色の球体はふわりと宙に浮いて、半分欠けた月に向かって飛んでいく。あっという間に球体は点になって夜に消えていった。
吹きつける風はまだ肌寒いが、冬特有の鋭い冷たさはない。春の足音はもうすぐそこまで迫っている。
佳奈子は微笑んで、しばらくの間青白く輝く月を見上げていた。
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