見出し画像

【小説】神の贄 下

神への手がかりを掴んだジルは、妹を取り返すため神が住むとされる北西の丘を目指す。果たしてジルは妹を取り返すことができるのか。

上の話の続きです。神に中指を立てる系少年の話、最終話。

 街から一歩外に出るとだだっ広い野原が広がっていた。進めば進むほど緑は減り、景色はモノクロになっていく。寂しく佇む一本の枯れ木の脇を通り過ぎたとき、ふいに声をかけられた。

「やあ坊主。鬼のような形相をしてどこに行くんだい?」

 声の方向を見上げるとてっぺんの枝に一羽のカラスがとまっていた。小首をかしげながら、ガラス玉のような瞳がじっとこちらを見つめている。

「決まっているだろ。カミサマを殺しに行くんだ」

 見下ろす瞳が大きく見開かれる。黒い生物はジルの直上の枝に飛び移り、左右に首を振って無遠慮にじろじろと眺めた。

「そのなりでかい?」
「何でもいいだろうがクソカラス。俺はあの野郎から妹を取り返さなきゃなんないんだよ」

 カラスは驚いたようにのけぞった。羽を羽ばたかせてギャアギャアとわめく。

「妹? まさか坊主、彼の情けを受け取らなかったのかい?」
「情けだぁ? 妹がみんなから忘れられたことを言ってんのかよ」

 そういやあの野郎も哀れな子だの、身を委ねよだの何だの言いたい放題言ってくれたものだ。あれが情けというのであればこちらを馬鹿にしすぎている。妹を奪われたときから奥底でくすぶっていた炎がついに弾けた。

「ふざけるなよ……。記憶さえ消してしまえば何してもいいわけねえだろうが! カミサマってのはずいぶんおめでたい頭をもっているんだな!」

 衝動のままにカラスの首を掴もうとしたが寸でのところで逃げられた。カラスは旋回して手の届かないてっぺんの枝に降り立つ。

「それで彼に殴りこみに行こうって寸法かい?」
「さっきからそう言ってんだろ。こっちの言ったことを理解できないんならくちばし閉じてろ鳥頭」

 ジルは吐き捨て、歩きだそうとした。このカラスに構ったところで時間を無駄にするだけだ。風を切って歩みを進めるジルに振りかかってきたのは耳障りな笑い声だった。

「カカカッ長年人間たちを見てきたがここまでの馬鹿は初めてみた。温情を跳ね除け、彼に歯向かう身の程知らずめが。いいだろう。お前なんぞが殺せるわけではないが、これから降りかかることを思うと実に面白い! ちょうど平和ボケした人間の顔も見飽きていたころだ。途中まで案内してやろうじゃないか」
「いやいらねえ。夕飯にされてえのか」
「お前みたいな坊主が捕まえられるとは思わないがね。それに彼がいる場所まで行くにはちと特別な道を通らねばならんぞ? お前さんはちゃんと道を知っているのかい?」

 ぐっとジルは返答に詰まった。正直図星だった。てっきり北西に向かえば目当ての建物はすぐに見つかると思っていたのだ。しかし思えば奴は仮にも神と崇められているものである。そう易々と来られる場所に居は構えないのかもしれない。

「……勝手にしろ」

 苦しみまぎれに言い捨て、ジルは歩き出した。後ろから耳障りな声が追いかけてきていた。


「それでどこに特別な道とやらは存在するんだよ」

 火が木肌を舐め、枝が小さな悲鳴を上げながらくずれ落ちていく。傍らのカラスはのんびりと羽づくろいをしていた。

「まあ落ち着け坊主。ちゃんと俺の言う通りにしていれば着く」

 既に常人ではたどり着けないところに足を踏み入れているのだが、目の前の少年は気づいていないようだ。相変わらず人間は目が悪い。これでよくぞ彼を殺そうと思ったものだ。
 カラスに内心嘲笑われていることも露知らず、ジルは揺らめく炎を見つめていた。妹は今どうしているだろうか。酷いことはされていないだろうか。そもそもなぜカミサマとやらは妹を連れ去ったのだ。供物は大聖堂の前にごまんとあっただろう。わからない。奴の行動理由も目的も何もかも。
 ボロ布を身体に巻きつけ、ジルはいつまでも炎を見つめていた。


「で、この道を真っ直ぐいけばいいんだな?」
「ああ、その通りだ。じゃあ気をつけて行きたまえよ。愚かな人の子よ」

 カッカッカッとしわがれた不快な声を上げてカラスは飛び去っていった。霧でぼんやりとした輪郭しか見えないが、丘の上には巨大な建物があった。ジルはごくりと唾を飲んで一歩を踏み出した。
建物は石造りで、頑丈で無骨な印象は受けても、とてもではないが神のいる場所には思えない質素さであった。装飾は一つもない。単に石を積んだだけの四角い建物だ。扉はジルが三人いてもゆうにくぐれそうなほど大きかったが、人のいる気配はなかった。

「って言ってもここから入れるわけないよな」

 鉄と木でできた扉は分厚く重い。貧相な身体のジルにはとうてい開けられそうになかった。試しに押してみてもびくともしない。と、次の瞬間だった。
 軋みながら扉がゆっくりと開き、ちょうどジルが入れるほどの隙間が開ける。背後から生ぬるい風がジルの背を押した。入ってこいと奴が手招いているようだった。

「上等だ。やってやらあ」

 あのすまし顔をぶん殴ってやる。ジルは棍棒を握りしめ、薄暗い廃墟に足を踏み入れた。
 建物内は埃っぽく窓一つなかった。しかし完全な暗闇というわけでもなく、薄っすらと足元が見える。松明もたいていないのに奇妙なことであった。
 ジルがたてる足音以外は完全に無音だ。永久とも思えるほど長い時間、一直線の廊下を歩き続けてようやく突き当たりまで来た。突き当たりには上る階段があった。上がり終わると、眩い光が目を刺す。
 目の前に広がるのは大聖堂の祭壇ほどの空間だった。床から天井まである窓が三対並び、そこから純白の光が差しこんでいる。真紅の絨毯が足元から真っ直ぐ正面の扉まで続いていた。
 きっとあの扉の先には奴がいるだろう。ジルは慎重に歩みを進めた。心臓がうるさい。今隣に人がいれば、自分の心音が聞こえてしまうのではないかと錯覚するほど鼓動は速かった。ジルは震える指先で扉を開いた。
 扉の先には意外にもこぢんまりとした部屋が広がっていた。長椅子が三個ずつ対称的に並び、その先に誰かが倒れている。その正体がわかった瞬間、ジルは駆け出していた。

「ニーナ!」

 身体には特に外傷などは見当たらない。だがどれほどゆすってもその瞼は固く閉ざされたままだ。頬を叩いてみても大声で呼びかけてみても結果は変わらなかった。
 ふと妹の顔に影がさす。はっと顔をあげて気がついた。奴だ。奴はこちらをただ静かに見下ろしていた。妹を背に庇い、ジルは睨みつけた。

「ニーナに、妹に何をした!」

 奴は答えない。逆光と傘から垂れた布で奴の表情は見えなかったが、温度のない瞳がこちらを見つめていることだけはわかった。

「答えろ。答えないのなら口を割らせるだけだ」

 腰の棍棒を構えたとき、空気が震えた。

“なぜ抗う。私に身を委ね、全てを忘れてしまえばここまで苦しむこともなかっただろうに”

 視線がジルの全身を滑っていく。ただし色はなく、道端の石を観察しているような無機質な眼差しだった。

「なぜ、だと? んなもん決まってんだろ。忘れたくなかったからだよ! ニーナは俺の家族だ。たった一人の妹だ! 俺の生きる理由なんだ!」

 ジルは母親に十の頃捨てられた。娼婦であった母は、ただでさえ貧しい暮らしだというのに、商売の邪魔になる子供二人を抱え、一人で治安の悪い貧民街で子育てをすることは不可能だったのだ。ある日出かけると言い残し、母は二度と戻って来なかった。何度太陽が昇っても母が戻ってくる気配はなく、妹がお腹すいたと袖を引っ張ったとき、ジルは決意した。妹だけは何があっても守ろうと。
 そうだ。妹がいたから今まで踏ん張ってこれたのだ。凍えるような冬の日も、仕事先で大人たちに鬱憤のはけ口にされても、へまをやらかして顔が腫れるまで殴られた日も妹のことを思えば耐えられた。一人であればきっとどこかで心が折れていたはずだ。

「カミサマだか何だか知らねえが、俺の生きがいを奪うなんて許さねえ。返しやがれ」

 奴は首をかしげた。

“私は契約に従っただけだが?”
「契約だと?」

 神に守ってもらう代わりに、神へ供物を差し出すという契約を結んだ、あのことだろうか。だが人を贄に選ぶなど聞いたこともない。

“知らないのか? 知らないのだろうな。顔を見ればわかる。では教えてあげよう無知で哀れな子よ。お前が如何に的外れなことを言っているのかということを”

 奴はおもむろに手を伸ばした。反射的に振り払おうとしたが、身体は石のように動かさない。ひんやりとした手が額に触れる。瞬間、洪水のように映像が流れこんできた。


 大司教と交わした協定はこうだ。街を降り注ぐ災厄から守る代わりに年に一度、祭りの日に街の中から一つ望むものを持っていってもいい。彼が初めに選んだのは大司教の娘だった。顔をひきつらせた彼に問う。

“私はこの街を守ってやる代わりに人間たちの一番大事にしているものを要求するだろう。お前の娘のように。それでも構わないか”

 返ってきたのは沈黙だけであった。街一つ守ってやる対価にしては安いものだろうに、人間は身勝手なものだ。背を向けたとき一つの声が空気を切り裂いた。

「いきます。私、あなたのもとにいきます」

 振り返ると例の娘が立っていた。彼の制止も振り払い、彼女は覚悟を決めた目でこちらを見据えた。

「だから、どうかこの街を救ってください神様」

 わめく大司教の声も耳に入らなかった。私の目に映るのは膝をついて祈る彼女だけ。一心に祈る彼女のなんと美しいことだろうか。彼女は縁もない、ただこの街に住もうとする見ず知らずの者のために身を捧げようとしているのだ。
 天に己の腕を掲げる。願いは聞き届けられた。空を覆う重苦しい雨雲は霧散した。
 娘を連れて私は自分の住処まで帰ってきた。娘は跪いたまま動かない。

「あの、勝手なことはわかっているのですがもう一つお願いが……」

 視線で彼女に続きを促した。彼女は唇をわななかせながら望みを口にした。

「どうか慈悲深き神様。贈りものを選んだときに、贈りものに関する記憶を消してはくださいませんか」
“なぜ”

 意味がさっぱりわからなかった。契りは絶対。忘れようが忘れなかろうが、対価は変わりはしない。
 彼女はさらにすがる。

「神様は街に住む人々のもっとも大切なものを要求するのでしょう。奪われたものたちは身が裂けるような哀しみに襲われてしまいます。私のことはどんな扱いをしても構いません。ですからどうか、どうかお願いします」

 彼女は地面に頭をつけた。私にすがることしかできない弱者そのものの姿であった。しかし赤の他人のために我が身を差し出そうとする清らかな魂には心惹かれた。
 元々出した条件は身勝手な願いをのけるための無理難題であった。だが彼女をみているうちに気づいた。私は心が欲しかった。愛情をたっぷりもらって育った暖かな心が。一人ぼっちだった私には、彼らが羨ましかったのだ。

“お前が私を愛してくれるのならば、その願い聞き届けよう”

 娘ははっと顔を上げた。金糸がはらりと垂れた。

「わかりました。生涯かけてあなたさまを愛します」

 彼女の献身は見事なものだった。彼女が息を引き取るまで私の心は満たされた。だから彼女の望みも叶え、彼女が死ぬまでは受け取るものも命なきものに限った。
 が、人間は脆く、儚い。彼女がいなくなってから再び私の心は満たされなくなった。彼女を食べても渇きは消えなかった。だから私は貰う。お前たちのもっとも愛したものを。いいではないか。忘れてしまえば。私は一時の渇きを満たし、お前たちは嘆きも苦しみも何もなく、安全な箱庭で生きるといい。


 ジルは渾身の力をこめて頭を掴む奴の手首を引き剝がした。

「だからなんだっていうんだよ。街のためにニーナを置いてけっていうのかよ」

 ふざけるな。箱庭だと? 華やかに生を謳歌する貴族や聖職者たちの裏で貧困に喘ぐ自分たちがいるというのにか。手を差し伸べもせず唾を吐くような連中のために妹は食われなければならないのか。
 きっと眼光を鋭くするジルに奴はやれやれと首を振った。

“お前が妹を取り返せば契約は破棄されたことになる。彼女の思いを、今まで私に捧げられてきたものたちへの犠牲を無に返すことになるのだぞ。街への守りは解け、災いは再び降り注ぐ。軟弱なお前たちは耐えられまいて”
「だからどうしたっていうんだ。俺は絶対に妹を取り返す。ニーナを生け贄にしてのうのうと生きられるわけがないだろ」
“お前はあまりにも醜いね。しかも愚劣な頭しかもっていない。自分一人のために他がどうなろうと知ったことではないとのたまう姿は実に醜悪だ。彼女と同じ生き物だとは到底思えない”
「うるせえよ!」

 手にしたオークの棍棒で殴りかかる。鈍い音がしたが、奴は微動だにしなかった。腕が上がらなくなるほど殴っても相変わらず毛ほども動いてはいなかった。

“無駄なことを。何の力もないただの人間が私を傷つけられるわけがない”
「さっきから愚か愚か、無駄だ無駄だってしつけえんだよ! お前に何がわかる。一人でうずくまっていただけの化け物に、俺とニーナの何が!」

 ろくな人生ではなかった。顔をしかめられるような生き方をしてきたことはたしかだ。しかし大変なことばかりではなかった。同じ孤児たちは自分たちによくしてくれたし、何より妹がいた。守るべき存在がいた。

「だいたい呪いなんて数百年以上も続くもんか? もし続いていたとして、絶対に俺たちが乗り越えられないって言えるのか? 数百年も経てばできることだって変わってる。洪水が起きるっていうんなら川を整備すればいい。病が流行るっていうんなら医者を呼んで原因を探ってみればいい。
 そもそもこの街自体が不自然だったんだ。カミサマに守られて不自由なく生きて、だけど影で誰かの大事な人が犠牲になる。でもそれには誰も気づかない。こんなの間違ってる!」

 数多の物言わぬ犠牲の上で、それに真正面から向き合おうともせず、繫栄を謳歌する街はひどく歪だ。純白の箱庭は見るもおぞましい骸でできている。

“では歪みを正すとして、今まで私がはらってきた災厄を今すぐお前たちが対処できるというのか。私にはとうてい思えない。飛ぶことを忘れた鳥に蛇が迫ったとて、ろくな抵抗もできずに飲み込まれるのと同じこと。お前の選択で街を破滅に導くかもしれない”
「滅びるんならそこまでだってことだ。それに今俺を諦めさせたところで、いずれは誰かが気づいて同じ行動を起こすさ」

 自分のような子どもでも気づけるくらいなのだ。誰かが気づくのも時間の問題だろう。
 奴の目がふいに遠くを見やった。どきりとするほど寂しい色だった。

“時代は変わる、か。なあセナ。お前の望んだことは何だったのだろうな……”

 奴は手を天にかかげた。

“いいだろう。お前の言う通りにしてやる。私も彼女のいない街に愛着があるわけでもない”

 目に見えぬ波動が奴を中心に広がった気がした。視界が揺れる。身体がゆっくりと傾いていく。瞼を閉じる寸前、奴の手が頬を撫でた気がした。

“さらばだ、哀れな子。せいぜいもがくがいい”

 そこで意識は闇の中に落ちた。


 気づいたときには冷たい石の床で倒れていた。はっと上体を起こす。奴はどこにもいなかった。

「ニーナ!」

妹は己の傍らに倒れていた。揺さぶるとまつ毛が微かに震えた。

「お、にいちゃん?」
「そうだよ! 俺のことわかるか?」

 焦点が徐々に定まり、自分と揃いの薄茶の瞳に光が戻る。

「おにいちゃん、こんなところでなにしているの? ここどこ?」

 ジルは全身から力が抜けていくのを感じた。はは、とかすれた声が口からこぼれ落ちる。

「なんでもいいだろ。帰るぞニーナ」

きょとんとした妹の手をとってジルは歩き出した。


 数百年安寧を保ってきた美しい水の街は突然の大災害の再来によりその長い歴史に幕を下ろした。しかしその百年後、川の治水や衛生状態の改善により、街の跡地に新たな街が建設され、今もなおその国の主要な都市として栄えている。
 昨年かつて神の居場所とされていた神殿の遺跡を高名な考古学者チームが発見した。遺跡はほぼ立方体に近い石造りの形をなしていたとみられ、唯一神殿内に残された椅子の上には左腕を失った女性のミイラが残されていた。分析結果から都が栄えていた時代前期の女性のものとみられている。

「これ、ご先祖様が生きていたときのものでしょ! 私知ってるもん!」
「まあたしかにそういえばそうだけど、この女性よりはもう少し後に生まれたんじゃないかな」

 新聞を開く少年の膝の上で少女が胸を張る。少年は苦笑して少女の頭を撫でた。

「じゃあご先祖様の話してよ、お兄ちゃん。何かないの? すごい話」

少年は目を瞬き、しばし考えを巡らせていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「うーん……たしかご先祖様は幼い妹を抱えていたっていうのに、街が潰えた後、都まで行っていっぱい勉強して川を直す技術を身につけたんだって。それでご先祖様が作った技でこの街の堤防ができたんだよ」
「へえーご先祖様すっごい」
「だから俺たちもご先祖様に恥じぬよう頑張らなきゃな」

はーいと元気の良い返事をして少女は膝の上からするりと抜け出した。まったく、とかぶりを振って少年も妹の後を追う。
 残されたのは青々と茂った葉を揺らすナラだけであった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?