【短編小説】記憶の置き傘

あなたが忘れたものはなんですか?
男と何度も現れる赤い傘の話。

 それを見つけたのは小雨降る夕方だった。電柱の影に隠れるようにひっそりと立てかけてあったのは一本の真っ赤な雨傘。これをさして歩いていればさぞかし目立つことだろう。だが先ほど足早に通り過ぎていったサラリーマンの男も、向かいからやってきた女子高校生の集団も誰ひとり気づく様子はない。
 誰かが忘れてしまったのだろうか。それにしてもなんでこんなところに……。
 ここは通学路にもなっている住宅街だ。そのど真ん中に傘を置き忘れる人などいるのだろうか。
 影にひっそりと佇む傘はどこか物寂しげで、思わず手を貸してやりたくなる。だが交番に届けるほどのものでもない。
 男は電柱に寄りかかっている傘をブロック塀にたてかけた。これで先ほどよりは気づかれやすくなっただろう。
 男は自身のビニール傘を持ち直し、雨の中を歩き出した。

 

 次の日も細かな雨が降り注いでいた。こうも雨続きじゃいやになるな、と愚痴をこぼす同僚に苦笑しつつ、食堂で流れるニュースをちらりと見る。週間予報は灰色と陰気な青で占められていた。今週は天気がいまいちになるでしょう、と聞き取りやすい声で、アナウンサーが伝えていた。

 

 青白い街灯がぽつぽつと夜道を照らしている。雨はしとやかに降り続けていた。
 昨日の傘がふと頭をよぎった。あの傘は無事持ち主のところに帰ることができただろうか。雨の中、誰にも気に留められずひとりで濡れるのは寂しかろう。せめて暖かなところにいてくれるといい。
 いつの間にか傘の幸せを願っていて、自分のことながら笑ってしまう。傘の幸せとはなんだ。そもそも昨日の道は自宅ルートではないので、見つかるはずもない。
 と、何気なく道に目をやったとき、椿のような赤が目に飛びこんできた。はっと足を止めて見れば、それは真っ赤な傘だった。人工的な光の下で、静かに雨に打たれている。
 ――昨日の傘だ。
 直感的にそう思った。
 いやそんなことがあるはずがない。昨日の道とはまったく方向が異なる。たまたまだ。たまたま連続で赤い傘を見つけてしまっただけだ。まったく運がいいんだか、悪いんだか。
 笑おうとしたが、口から漏れたのはいびつな呼吸だけだった。
 水たまりが跳ねる。ズボンの裾がまとわりつく不快な感触も気にする余裕がない。男はほとんど駆け足に近い早足でその場を立ち去った。

 

 ニュースキャスターが言ったようにその週はずっと空模様がぐずついていた。雨こそ落ちてきてないものの、どんよりとした雲はこちらまで陰鬱な気分にさせる。
 例の傘の件も相まって、男は外に出たくなかった。しかし傘に付きまとわれているかもしれないので外回り行きたくありません、なんて道理はまかり通らない。
 なるべくよそ見せずに無心で足を動かそう。重苦しい息を吐いて男は仕事鞄を持ち上げた。


 仕事自体は恙なく終わり、ポケットの中に座った名刺入れの硬い感触を感じながら帰路につく。空からはぽつり、ぽつりと水滴が落ちてきていた。
 今回は公共交通機関を利用できる場所でよかった。あれをみたのはどちらも街中。建物内では見ていない。最寄り駅から会社までの距離は徒歩十分。先方とのやり取りを反芻しながら歩いていれば、道端にたてかけられた傘など意識の縁にも掠るまい。
 そんなことを考えていたからだろうか。視界の端に赤がちらついた。――赤?
 思わず足を止めて振り返る。その瞬間、男は口から引きつったか細い悲鳴を漏らした。
 時刻表が貼られたコンクリートの柱に赤がいた。例の傘だ。灰色の壁に鮮血のような赤はよく映えて、だからこそいっそう不気味さを際立たせていた。
 血の気の引いた顔で立ちすくむ男を、周りは迷惑そうに一瞥して歩き去っていく。やはり誰もあの傘に目を向ける者はいない。

「なんなんだよ、本当に! 俺が一体何をしたって言うんだ!」

 付きまとわれるようなことをした覚えはない。むしろ他の通行人よりもずっと善意に溢れた行動をとったはずだ。もしや目立つところに立てかけてやったのが余計なお世話だとでも言うのか。だったらそうとわかるようにしてくれ。始めから見て見ぬふりをしてやるから。
 男は頭をかきむしった。
 傘のストーカーなんて冗談じゃない。どんな怪談話だ。頼むから消えてくれ。自分の息づかいがどんどん不規則になっていく。それを傘は無言で見つめていた。
 ようやく落ち着きを取り戻したとき、例の傘は忽然と姿を消していた。見れば男の周りだけ半径一、二メートルほどの空間ができている。通行人たちの奇怪なものをみるような目が肌を刺す。誤魔化すように咳払いを一つして男は改札を通り抜けた。


 それからも傘は行く先々で現れた。現れるのは決まって雨の日。モノクロの街並みに突如として入りこんでくる鮮明な赤は男を慄かせるのに十分な威力を発揮した。
 唯一の幸いは視界に入りこんでくるだけで、怪奇現象の類を一切起こさなかったことだろうか。それどころか誰に気にかけられることもなく、モノクロの街角に佇む姿は哀愁さえ感じさせた。
 だが不気味なことには変わりない。いったい傘が何を望んで自分に付きまとうのか、どうやったらこの状況が改善するのか何の手だても思いつかない。完全にお手上げ状態だった。
 神社に行ってお祓いをしてもらっても、伝手を頼って高名な霊能者にみてもらってもまったく効果はなかった。それどころか、邪悪な気は一切感じないと、神主も霊能者も首をひねるばかり。所詮は信仰心だの人の不安をあおって安心を買わせるペテン師だと吐き捨て、調べることすらやめてしまった。このまますがりついても時間と金を絞りとられるだけだろう。
 相変わらず傘はふとした瞬間に視界の中に映りこむ。小雨の中、一人ぽつんと濡れている。それに胸がしめつけられるのはきっと気のせいに違いない。伸びようとする手を押さえこみ、男は踵を返した。


「そういえば、最近先輩元気ないですね。どうかしたんですか」

 隣の後輩がキーボードを打つ手をとめてこちらを覗きこんできた。

「いや別に……」

 男は口ごもった。まさか傘にストーカーされて神経を擦り減らしているのだ、なんて言った日には頭のおかしい奴認定されてしまう。

「いやいや、最近ずっと目の下に隈飼っているもんだから、パンダ目指すつもりなのかなって俺けっこう心配しているんですよ」

 後輩は大げさな身振り手振りで訴える。しかしその目は冗談の欠片もない純粋な心配だけがあった。

「いや、まああそこに赤い傘があるもんだから、ちょっと気になってな」

 さすがに後輩の気遣いを無碍にはできず、男はちらりと窓に目をやった。あの赤がぼんやりとこちらを見上げている。思わずため息が口から漏れた。
 後輩は男の視線をたどり、目を瞬いた。

「赤い傘? どこです? 見えませんけど」
「いやだから、あのビルのところ。いるだろ?」

 男は窓の外を指差した。
 正面のビルとビルの隙間にある、路地裏へと続く細く薄暗い道に溶けこむようにひっそりと傘が寄りかかっている。くすんだ赤は暗がりの中で、まるで淡く発光しているかのようにぼんやりと浮かび上がっていた。
 後輩は男の指差した先をじっと見つめていたが、やがて訝しげに首をひねった。

「いや、やっぱり見えませんよ傘なんて。先輩疲れているんじゃないですか?」
「っ、そんなはずは……!」

 振り返った男は後輩の表情を見た瞬間口をつぐんだ。後輩の顔に嘘は見えない。間違いなく自分と同じ箇所をみているのに、あの赤が目に入っていない。真っ黒な瞳には薄汚れた路地しか映っていなかった。
 もう一度狭い道を見る。やはりそこには一本の傘が灰色のコンクリート壁に背を預けていた。
 ぞくりと背筋に冷たいものが走った。
 本当に幽霊の類なのか。それとも自分の目か頭がおかしくなって幻覚をみせているだけか。もしかして自分が行くべき場所は神社でも自称霊能者でもなく、病院なのではないか。

「……いやなんでもない。お前の言う通り疲れているのかもしれないな」

 男は内心の混乱をおくびにも出さず、眉間をもんだ。

「絶対そうですって! 今日はもう早く帰ったほうがいいですよ」

 身を乗り出して訴える後輩に男はふっと息をついた。

「まあこの仕事が片づけばな」

 パソコンの前に置かれた書類の山をとんとんと叩く。新規開拓のために力を入れているプロジェクトがいよいよ大詰めを迎えている。この山を来週には完璧に仕上げおかなければならないのだ。

「いーや、先輩そう言って残業する気でしょう。俺は騙されませんからね! 書類くらい俺がちゃちゃっとやっておくんで、先輩はさっさと帰って寝てくださいよ」

 今日は残業ダメですから! あ、早退するなら部長に話つけときますよ! と、大きすぎる声で釘を刺し、後輩は風のように去っていった。呼び止める暇もない。中途半端に伸ばした手が不格好に宙に浮いていた。
 周囲から好奇の視線がちらちらと送られていたが、それもすぐに散っていく。

「いやお前の仕事もかなりあるはずだろ……」

 ようやく一人前の仕事をこなせるようになったばかりの後輩では、男の仕事を手伝う余裕はないはずだ。だが男の口元は言葉とは裏腹に隠しきれない喜色をたたえていた。


 その後あれよあれよと言いくるめられ、終業時刻ぴったりに追い出された男は直帰する以外道はなかった。
 ただいま、との返事に返ってくるのは無音だけだ。一人暮らしなので当然だが、帰宅の挨拶が虚空に消えていくのは、いつでも心にすきま風が吹くような気持ちになる。
 タイマーをかけておいた炊飯器から米をよそい、半額シールが貼られた唐揚げをレンジに突っこんだ。インスタントの味噌汁にお湯を注いでいると、ふいに無機質な着信音が響き渡った。液晶画面に現れたのは母の文字。

「もしもし」
『もしもし久しぶりねーって言いたいところだけど、どうしたの。なんかやつれてない? 何か悩み事でもある?』
「いや別に……」

 一言だけでどうして己の不調を見抜けるのだろう。やはり母親だからだろうか。しかし正直に例の傘を打ち明ければ、きっと馬鹿にされるか冗談と捉えられるかどちらかだろう。が、下手な誤魔化しがきく相手でもなかった。

『別に……じゃないでしょう。ほら、ちゃちゃっとしゃべんなさい』

 渋りに渋ったが、結局勢いに負けた。母親にはいつだって敵わないものなのだ。

「ちょっと前に道端見かけた傘が、どうにも頭にこびりついて離れないんだよ。いや何言ってんだとは俺でも思うよ? ただちょっと気になってさ」

 一応本質はぼかしてみたが、これでも何言っているか意味不明である。
 なんだ見かけた傘が頭から離れないって。幼稚園児のほうがまだまともな言い訳を思いつきそうだ。

『傘ねえ……。傘といえば、沙織ちゃん覚えてる? たしか、お気に入りの傘があって、雨が降るたびに真っ赤な傘さしてきていて、それがとってもかわいいんだって、あんた惚気ていたじゃない』

 そうだ。あの傘は彼女が気に入っていた傘とよく似ていた。大学のとき付き合っていた彼女の、交通事故で亡くなった彼女のお気に入りの傘とそっくりうり二つだった。
 雨音が彼方からやってくる。ずっと蓋をしていた記憶が、雨とともに男の目の前に姿を現した。
 彼女は大人しい女性だった。グループワークでみんなの中心になって仕切るタイプではなく、しかしまったくの寡黙というわけでもなかった。重要なときにはしっかり己の意見を述べる女性だった。服装も落ち着いた色のものが多く、目をひくような華やかさがあったわけではない。
 だが決まって雨の日には目が覚めるような真っ赤な傘をもってきていた。聞けば母が誕生日プレゼントに贈ってくれた少し高級な傘なのだという。傘から覗く控えめなルージュが晴天下でみるよりも色っぽくみえるのは目の錯覚か、惚れた弱みか。その艶やかな赤を男は密かに気に入っていた。
 その日も雨が降っていた。ちょうどあの傘と出会った日と同じ、しとしとと静かな雨が降り注ぐ夜のことだった。見通しの悪い交差点で、信号のない横断歩道。お互いが存在を認識したときには既に引き返しのつかないところまできていた。
 ひしゃげたビニール傘は彼女の血で真っ赤に染まっていた。たまたまそのとき、例の傘は男の部屋に置き忘れていたのだ。
 届けに行こうかと尋ねたものの、別の傘があるから大丈夫だと返されて。それからいつも決まった時間に届く、帰宅したことを知らせるメッセージが一時間以上経っても入ってこなかったものだから、あの真っ赤な傘をさして迎えに行こうと思ったのだ。能天気に、やっぱり代わりの傘なんてなかったんじゃないのか、とからかおうと考えながら。
 そして交差点にさしかかったとき、赤が見えた。雨粒に滲むどす黒い赤が。
 点滅を繰り返す一台の車。歪にへこんだフロントバンパー。見るも無残に潰れたビニール傘。それを照らすパトカーのライト。
 彼女の傘がするりと抜けて水たまりに落ちた。


 それから目の当たりにしたショッキングな出来事を必死に忘れようとするかのように男は無我夢中で勉学と就活に励んだ。何かに打ちこんでいなければ、きっと気が狂うと思った。
 高い倍率をくぐり抜け、今の会社に入った後も次から次に降ってくる膨大な仕事をこなしていくうちに、彼女のことを、あの雨の日を心の奥底に沈めようとしたのだ。そうこうしているうちに、いつの間にか預かっていた彼女の傘もどこかに消えてしまった。彼女の実家に返したのか、それとも無くしてしまったのか、記憶は霞がかってはっきりしたことは覚えていない。
 それでも、どんなに無理やり目をそらしたところでずっと心残りだったのだろう。
 あの日、雨に濡れる傘の柄を掴んだ感触はたしかに手の中に残っている。おそらくあの傘自体は本当にたまたま誰かが忘れていったものなのだと思う。だが、それ以降視界に入りこんできたあの赤はきっと己の深層意識によるものだ。あるいは彼女から忘れないでというメッセージか。だからきっと恐れながらも、どこか完全に憎むことができなかったのだ。

「今度、墓参りでもいってみるか」

 雨が屋根を叩く音がする。あの赤はもう見ないだろう。

テーマは「傘」「赤」でした。

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