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【短編小説】厄介な隣虫

その虫は最も近しい隣人である。
医者の源斎げんさいが患者に頼まれて体の中で暴れ回る「虫」をとる話。

 日本橋本町。薬屋が軒を連ねるその通りの一本先の通りだったか、はたまた今川橋を渡った先だったか、どこだかは詳しく伝えられていないが、江戸の喧騒から距離をとるようにひっそりと佇む一軒の屋敷があった。
 家の前には一本の柳が立っているが、風に揺られるその姿は昼間ですら陰鬱な影を落とし、近所の長屋に住む子どもたちから幽霊屋敷と恐れられているほどだ。
 さて幽霊屋敷と呼ばれているものの、その家は何も空き家というわけではない。一人の男が悠々自適の生活を営んでいる。男の名は政木源斎。無造作に束ねた白髪一つない黒髪に、狐を思わせるつり目、すっと通った鼻筋、微笑をたたえた口元。道行く女性が振り返るほどには整った顔立ちをしているが、声をかけるのをためらわせるのはどことなく滲む妖しげな香りのせいだろうか。掴みどころのない空気が男から人々を遠ざけ、親戚すら滅多なことがない限り近寄らない。
 それでも源斎が社会から締め出されることなく生活できているのは、ひとえに彼の職にある。源斎は医者だ。それも飛びぬけて腕の良い医者である。腕が良すぎて普通では不可能な病ですら解決してきた。例えば卒中、性質の悪い風邪、疱瘡、狐憑きまで治したことがある。何年経っても変わらぬ容姿も相まって、人々は彼を名医ならぬ怪医と呼んだ。
 だがどれほど不気味であろうとも腕はたしか。今日もまた一人、誰にも話せぬ悩みを抱えて戸を叩く者がやってくる。

「それで今日はどうなさいました」

 今日一番の患者は正吉まさきちと名のった男だった。股引に半被を羽織ったいかにも出職らしい男だ。
 しかし出職らしい威勢の良さは一切見られない。細身とはいえ筋肉のついた体は可哀想なほど震えて、視線は左隅を見たかと思えば次の瞬間には右隅に視線を移すなどせわしない。何もとって食いやしないのに、と源斎は内心呆れていた。
 ようやく腹を決めたのか正吉が顔を上げる。その目に強い光を見つけて源斎は口角を上げた。

「虫退治をしてほしいんでさ」
「虫退治ですか」

 源斎は濃い茶をすすった。唯一ここで働く下女、おふくが淹れた茶だ。源斎はもっと薄いほうが好みだが、何度言っても彼女は火傷するほど熱くて濃い茶を淹れる。まったく、主人の好みよりも自分の好みを優先するとは何事か。するとお茶は濃くて熱いほどいいじゃないですか、とおふくが頭の中で頬を膨らませたので思わず表情筋が緩みかける。おっと話がそれた。今は患者のことに集中しなくては。
 虫退治を頼まれるのは源斎にとってさほど珍しい話ではない。やれ腹痛はらいたが続くから腹の虫をとってくれだとか、やれ肺に虫がついたせいで咳が止まらないから何とかしてくれだとか、そんな相談はごまんとされてきた。
(虫か……今のところ特に病の影は見えないが)
 源斎は正吉をざっと観察してみたが、病特有の陰りは見当たらない。強いて言えば顔色が悪いくらいだろうか。

「それで、どこの虫をとってほしいんです?」
「へえ、あっしの胸に住み着いた頑固な虫を取り除いてほしいんでさ」
「胸ですか? 咳が出ているようには見えませんが……」

 それとも肺の病ではなく心の臓の病か。だが手足にむくみがあるわけでも倦怠感があるようにも見えはしないし、何より自分の足でやってきたのだ。医者にかかるほど切迫した状態には思えない。

「いえ、そいつは嫌な野郎で、咳や熱がでることはねえんですが、あっしを物心ついたときから悩ませ続けてきたんでさ。誤魔化し誤魔化し今日までやってきたんですが、もう我慢ならねえ。ただ、普通の町医者じゃあこの虫はとってもらえるどころか笑われて終わっちまう。そんな虫はいねえってさ。でも先生なら、源斎先生ならあっしの虫も退治してくれるかもしれねえと思って……」

 正吉の声はどんどん先細りになっていく。そんな正吉にお構いなく源斎は身を乗り出した。

「ほう、もっと詳しくお話しいただけますか?」

 お手上げだと降参するならばともかく、一笑に付すとは一体どういうことなのか。正吉を長年苦しませておきながら冗談だと流された「虫」とはなんなのか。久しぶりのの気配にぞわりと腹の底が疼いた。

「診てくれるってことですかい」
「それはあなたが仔細を話してくれなければ判断できかねます。私だって全ての病を治せるわけではありませんからね」

 勢いよく顔を上げた正吉に、源斎はにこりと微笑んだ。正吉はさっと頬を紅潮させ目に剣呑な光を宿したが、結局唇を震わせただけで、悪態をつくことさえしなかった。なんだつまらないな、と落胆しつつも源斎は目で続きを促した。

「その虫が騒ぐのはそうですねえ……たとえばあっしがまだ見習いとして親方のところで世話になっていた頃、おかみさんが船橋屋の羊羹を部屋に持っていくのを兄弟子と一緒に目にしたことがあったんでさ。おかみさんは甘いもんが好きだったから、戸棚の奥にしまいこんで大事に食べるつもりだったんでしょう。
 ただ、食べ盛りの子どもらでしたからね。兄弟子が言ったんです。ちょっとくらい味見したっていいじゃないか。なあに、ほんの一切れ切り取るだけだ。かんなくずくらい薄く切れば、おかみさんにだってわかるめえよってね。
 でもあっしはその話にのっかることができやせんでした。虫が暴れたからです。あっしの胸の中で奴はひっかき、嚙みついてそんなことは許されねえ、たとえおかみさんが気づかなくたって、お天道様が見ていなくたって、俺がてめえの悪行をこの目で見ているからなと。俺の目が黒いうちは絶対にてめえの悪さを見逃してやるもんかって唸るんです。
 結局あっしは兄弟子の誘いを断りました。断らなければ奴はあっしの胸を食い破りそうな勢いだったもんでね」

 息をついた正吉の顔は心なしかやつれていた。

「たしかにそれは困りますが……。しかし行為自体は褒められるべきことでは? 子どものしたこととはいえ、盗みは盗みですからね。まあ菓子をほんの少し拝借したくらいなら奉行所のお世話になることなんてありませんが」
「とんでもねえ! あっしはこいつのせいで終始こんな調子なんでさ。いえ、先生が言いたいこともわかってまさあ。ですがね、あれは本当に潔癖な奴でほんの小せえことすら見逃しちゃくれねえんだ。
 世の中生きてりゃいろんなことがある。どんなに清く正しく生きようとしたって、大なり小なりやましいことに関わっちまうことはあるってもんです。あ、もちろんお奉行様の世話になるようなことはしてませんぜ、誓って。
 でも奴はさっきの菓子の話のように人が見咎めねえようなちっせえことまでぎゃあぎゃあ責めたてるんで、もう参っちまって参っちまって。あっしはこのままだと仲間から爪弾きにされるか虫に胸を引き裂かれるかどっちかしかねえんです」

 たしかにいき過ぎた清廉さは人から疎まれるものだろう。正吉が望まずとも虫が暴れる以上従わざるをえないが、それは傍から見れば正しさを振り回す厄介者としか映るまい。しかもそれを正直に明かしても笑われるか、噓つきめと機嫌を損ねられて終わってしまう。彼が抱えた孤独は如何ほどだっただろうか。
 源斎は茶をすすった。茶はすでに冷めていたが、正吉は一口も手をつけていなかった。

「なるほど、事情はよくわかりました」
「先生、どうかこの通りだ。どうかあの虫を退治してくだせえ」

 正吉が床に額をこすりつける。源斎は息をついて立ち上がった。

「暫しお待ちを。準備するものがありますので」

 先生! と希望にあふれた声を背に源斎は薬棚がある奥に引っ込んだ。


「お待たせしました」

 源斎が持ってきたのは透明な瓶と紙に包まれた緑の丸薬だった。深い緑のそれは苔を丸めたものと言われても納得できてしまうだろう。

「これを飲めば奴を退治できるんで?」

 おっかなびっくり丸薬に触れる正吉に源斎は頷いた。

「ええ、薬を飲んでこう唱えるのです。『出よ出よ出でよ、キンメノハッカのケ』と。上手く効けばすぐに吐き気がこみ上げてきますから、この瓶に出してください。瓶の中にはあなたの内に巣食っていた虫がいるはずです」
「は、はあ……」

 正吉は半信半疑のようであったが、言われた通り丸薬を口に含むと茶を一気に飲み干した。

「で、えっとたしか……」
「出よ出よ出でよ、キンメノハッカのケ、ですよ」
「ああ、そうだった、そうだった。出よ出よ出でよ、キンメノハッカのケ」

 唱え終わった瞬間、正吉が口を押さえた。

「さあ、瓶を持って」

 源斎が小刻みに震える手に瓶を押しつけた。正吉の喉が膨らんで何かがせりあがってくる。おえ、と正吉がえづいたそのとき、口から黒い物体が滑り出た。
 べしゃと瓶の底に叩きつけられる音がする。それが瓶の口に飛びつくより前に源斎が盆で蓋をした。

「な、なんですかいこりゃ……」

 正吉が青ざめた顔で後ずさる。その瓶の中にいたのは拳大ほどの虫だった。黒光りする胴体に六本の足。体だけ見れば大きな甲虫だ。しかし普通の虫と違う点が一点。――虫の顔は正吉の顔と瓜二つだった。
 虫は正吉を憎々しげに睨みつけている。正吉は小さく悲鳴を上げて部屋の隅まで後退した。

「これがあなたの胸の内にいた虫です。どうです? 荷を下ろしたかのように体が軽くなりませんでしたか?」
「え? ああ、本当だ」

 目を瞬かせた正吉は恐る恐る胸を触っていたが、体の変化に気づくや否や歓声を上げた。

「ああ、先生のおかげだ! ありがとうごぜえやす。感謝してもしきれねえ。ったくこの糞虫め! ざまあみやがれ」

 しばらく飛び跳ねたり、虫を挑発したりと興奮気味に部屋を動き回っていた正吉は突然動きを止め、がばりと頭を下げた。

「見苦しい姿を見せちまいました。どうぞお礼です。受け取ってくだせえ」

 包みの中には一分あった。出職は給料がいいとはいえ、町人にしてはなかなかの大金だ。よほど節約して貯めたのだろう。
 源斎は胡散臭ささえ感じるほど人のよい笑みを浮かべて言った。

「いえいえ、それが私の仕事ですからね。ああ、そうだ、一つだけ耳に入れておいてほしいのですが」
「へえ、なんでしょう」
「この虫はしばらく私の手元に置いておきますので、もしも返してほしくなったら訪ねにきてください」
「まさか! 絶対にあり得ませんぜそんなの」

 腹を抱えて笑う正吉に源斎は一切笑みを崩さない。正吉は笑いを引っこめ、礼もそこそこにそそくさと帰っていった。

「あら源斎先生、お客様もうお帰りになられたんですか?」

 盆に新しい茶をいれてやってきたおふくが首をかしげる。

「ああ、帰ってしまったよ。まあ近いうちにまた来るだろうからそのときは対応頼んだよ」

 虫は瓶に体当たりしたり、ひっかいたり、嚙みつこうとしてみたりと暴れ回っているが、瓶を突破することはかなわない。目があうと鋭い眼光が飛んできた。
 威勢のいい虫だ。悪い笑みを浮かべて顔を近づけると怯えたように飛びすさる。臆病なところは主似なのかもしれない。

「まあ、先生ったらまた人をからかって遊んだのね。そんな意地悪するとよくない噂されますよ」
「それは今に限ったことじゃないじゃないか」

 くすくすと笑う源斎におふくは呆れて肩をすくめた。


 数日後、再び正吉が戸を叩いた。
 正吉の顔はこの間よりも頬がこけ、やつれているように見える。

「源斎先生、その……」

 口ごもる正吉に源斎は笑みを返した。

「虫を返してほしいのですね?」

 おずおずと正吉が頷く。

「構いませんよ。想定してましたし」

 源斎は後ろに置いていた瓶を正吉の前に置いた。先日は目を向けただけで威嚇していた虫は今や緩慢な動きでこちらを見上げてくるだけだ。散々いじくりまわされて歯向かう気力がなくなったためとも言う。
 正吉は項垂れてぼそぼそと言った。

「情けねえことです。あんだけ鬱陶しく思っていたのに、こいつがいなくなった途端、どうにも仕事に身が入んなくて、胸に空いた穴が寒くてしょうがないんでさ。ちょっと悪い遊びに手を出したってもう咎める奴ぁいねえのに、どうも虚しくてしょうがねえや」
「それはそうでしょうね。この虫はあなたにとって疎ましいものであったでしょうが、同時にあなたに益をもたらしてもいたのですから」

 正吉がはっと顔を上げた。

「真面目だと褒められたことはありませんでしたか? 実直な性格で丁寧な仕事をすると言われたことはありませんでしたか? それはこの虫のおかげです。この虫を捨てるということはすなわち、自分自身を否定することと同じ。己の一部を切り捨てるなぞ、相当の覚悟がなければ耐えられませんよ」
「でも、こいつがいるとあっしは……」

 不安げに瞳を揺らす正吉に源斎は微笑んだ。

「ご安心を。私がつつき回したので、以前のように些細なことで目くじらをたてることはないでしょうよ」

 ほっと胸をなでおろす正吉に瓶を差し出す。

「さあこの虫を飲めば再び虫はあなたの胸に居つきましょう。どうなさいます?」

 虫を飲まなければならないと聞いて正吉の顔がひどく歪んだが、やがてそろそろと瓶の口に手を伸ばした。
 虫はつまみあげられても大人しく、ただ正吉の顔を凝視している。正吉は自分そっくりな顔に見つめられて気味悪そうだったが、ええいままよと虫を口の中に押しこんだ。水もないまま無理やり飲み下すその顔は苦渋に満ちていたが、何とか正吉は食道の奥に落としこんだ。

「どうです? 気分は」
「そりゃいいとは言えねえですが……なんだかようやく穴がふさがった気がします」
「それはよかった」

 胸をさすった正吉の顔は劇的に変わったわけではないが、先ほどよりは顔色が良くなったように思える。
 ふいに正吉がちらりと視線をよこした。窺う遠慮がちな視線に源斎は次の言葉を察した。

「そ、それで先生お代のほうなのですが……」
「ああ、お代はいりません。私はただ元ある場所に戻しただけですからね」
「そ、そうですか! ありがてえ」

 正吉はぱっと顔を輝かせる。源斎は意味ありげに口元を歪ませた。

「ええ、その代わり、もしまた捨てたくなったときはぜひ私のところに来てください。有意義に使わせていただきますから」

 正吉の瞳に映る源斎の顔はまさに絵草子に出てくる妖怪のようだ。そう、頬まで裂ける大きな口から牙を覗かせる妖狐のように。ひっと顔を引きつらせて正吉は逃げるように部屋を出ていった。

「遅くなりましたけどお茶を持ってきました……ってあら? また先生おどかしたんですか」

 慌ただしい足音がどんどん遠ざかっていくのを耳にし、おふくはため息をついた。

「いいじゃないか。代金の代わりにちょっとくらいからかったって。ああ、それにしても面白かったな。あんな生真面目の塊みたいな虫は初めてみたよ。おまけに気性はやけに荒いし」
「子どもたちから妖怪先生って怯えられますよ」
「どうせ昔から狐の子だ、妖の子だと言われ慣れているんだから今さらじゃないか」
「またそう言って変な意地を張るんですから」

 おふくは正面に座ると源斎と自分の前に湯飲みを置いた。主人の前で茶をすするなど図々しいにもほどがあるが、どうせ二人しかいないのだ。気に留める者はいない。

「前から言っているが、私はもっと薄いほうが好きだと言っているだろう。まあ茶の濃さはしょうがないとしても、この熱さだけはどうにかならないのかね。熱すぎるのも毒になのだよ」
「体を冷やすよりはいいじゃないですか。先生、冬はいつも口癖のように体を冷やすな、体を冷やすなって言っているんですし」
「今は冬じゃないだろう。外を見てみなさい」
「じゃ、冷めるまで待てばいいでしょう。ああ、美味しい。熱いお茶の美味しさがわからないなんて、先生は本当に損してますよ」

 わざとらしく声を張り上げるおふくに返す言葉はごまんと浮かんだが、彼女を怒らせると後が怖い。何せおふくがいなければ食事の用意さえひと苦労なのだ。外に出ようにもいちいち投げかけられる視線が厭わしい。
 嘆息を噛み殺して茶をすすると、灼熱が口腔を焼く。反射的に舌を引っこめた源斎に対し、おふくは涼しい顔だ。

「お前の口の中の神経は熱で焼ききれてしまったのかね、おふく」
「まさか。先生が繊細すぎるだけですよ」
「お前も言うようになったもんだね」
「そりゃそれなりに長い付き合いですからね」

 賑やかな二人のかけ合いを門の外の柳が穏やかに見つめていた。


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