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【短編小説】落ち蝉

落ち蝉:寿命を終えて地面に落ちた蝉のこと。秋の季語。
蝉のような画家の話。

 ザッザッ
 カンバスに絵の具が塗りつけられる。塗っては重ね、塗っては重ねを繰り返し。
 絵を描くというのは地中を進むことと似ている。真っ暗な世界の中で手探りに、自分の理想形を追い求め、ただ進み続ける。色の塊がぶつかっては、古い皮の上に新たな模様を作った。
 と、突然男は動きを止める。次の瞬間、唐突に絵筆を投げつけ髪をかきむしった。黒髪に色とりどりのまだら模様ができるが気に留める素振りもない。

「ああダメだダメだダメだダメだ」

 パレットが画布にべったりと張り付き、精巧に描かれた木々や空が無残に汚された。薄汚れた床の上には、塗料の厚化粧をしたナイフが転がっている。そのときドアの金具が軋む音がした。

「おいまた飯ぬいただろ。流石に一日飲まず食わずは身体壊すぞ」

 片足で扉を開けて入ってきたのは金髪に染めた若者だった。手には盆が握られている。湯気と共に味噌と米の甘い香りが鼻腔をくすぐった。しかし若き画家はぶつぶつと呟き続けているだけで視線すら投げかけない。金髪の男はため息をついて、散乱する画用紙や鉛筆をどかし、机の上に盆を置いた。のっているのは味噌汁と米、千切りキャベツ、そして安っぽい油の匂いをまとった魚のフライ。

「せめてこれだけでも食えって。せっかく俺が作ってやったのにさ」
「いらない。時間の無駄だ」

一瞥すらよこさず男は再び絵筆に手を伸ばす。しかしすぐにその手は止まった。いくら何度色を重ねられるとは言っても、流石にパレットごとついてしまえば修正するより取り替えたほうが早い。もっとも敢えて取り除かずにやってみてもいいかもしれないが。芸術は広いのだ。

「ほら今日は自信作だぜ」
「どうせほとんど既製品頼りだろう」
「んなことないって。今日の米の硬さはドンピシャだぞ。やっぱり俺って天才だな」
「田中みたいな頭が羨ましいよ」

 男の嫌味にも友は苦笑して流すだけだった。再び盆を持ち直すと座り込む男のところまで歩み寄り、それを手元に置いた。絵筆の代わりに箸を握らせ、もう片方には茶碗を押しつける。

「こんな生活続けてちゃあ作品を終わらせる前にお前の命が終わりそうだよ。ほら持て。さっさと食う」

 男は茶碗を押しのけようとしたが、タイミングよく腹の虫が鳴いた。顔に熱が集まる。

「やっぱり腹空いてんじゃん」

 ニヤニヤ笑う友人の視線から逃げるように男は飯をかきこんだ。たしかにべちゃべちゃしすぎず、硬すぎず、程よい柔らかさだった。


「で、今度は何を書くつもりなんだ?」
「空」
「空ぁ? どんな空だよ」
「わからない」

 ただ描きたいのだ。頭にはたしかにありありと存在しているのに、筆にのせた途端全てが色褪せる。それでもその青が男に筆をとらせた。
 空の青と一口に言っても様々だ。夏の終わりのような爽やかなのに、どこか物寂しさを感じるような青。行ったこともないのに郷愁を思い起こさせる田舎の空色。それとも夏休みの元気弾ける海の空か。どれも違うようで、どれも正解のような気がする。掴んだと思った次の瞬間には霞を掴まされている気分だ。

「わからないのに描くのか?」
「ああ。きっと俺はこれを描くために生まれてきたんだと思う」
「んな大げさな」

 田中は呆れ果てたが、男は本気だった。額から汗が流れ落ちる。シャワシャワシャワと蝉の合唱が窓の隙間から押し入ってきていた。


 次の日。洗濯物を抱えた男はベランダに足を踏み入れる。ベージュの壁に一体どこから上ってきたのか蝉の抜け殻がついていた。割れた背面には白い糸がつき、滑らかな殻がつるりと光る。昨日は見かけなかったので恐らく昨日の夜から今日の早朝にかけて羽化したのだろう。

「蝉か……」

 陽が昇ったばかりだというのに、既に雨あられのように蝉の声が降りそそいでいる。ふいに枝にしがみつく蝉が目に入った。まだ青みがかった翅から透かし見える腹が細かく振動している。そのつぶらな瞳に太陽が反射したその瞬間、男の脳内に光が生まれた。

「……閃いた」

 男は抱えていた衣類を全部放り投げ、窓も開けっ放しのまま木炭をひっつかみ、キャンバスがかけられた部屋へと駆けた。


 ザッザッザッザッ
 狭いアパートの床から天井まで届くような巨大な布の上を炭が滑る。指先は真っ黒で、木炭自身ももはや爪の先しか残っていない。男は無造作にそれを放り投げると、新たな木炭を手に取った。床にはボロ布と何本もの欠片が散らばっている。
 何もない世界に線が生まれ、それらが繋がって新たな世界が構築されていく。やがて男の手が止まった。

「これならいけるかもしれない」

下書きの時点で胸が高鳴る。このような高揚感は久しぶりだ。今までもっとも上手く描けた絵を遥かに超える傑作が生まれる予感がする。心の奥底から声が聞こえた。早く、早く描きたい。今あるものを形にしなければきっと酸化してしまう。宝物が黒ずんだゴミに変わるより前に早く。
男はパレットと筆、干されていた油壷も傍らに置き、床に整列していたオイルの瓶を注ぐ。絵具を広げて、筆を油につけた。さあ世界に息を吹き込むときだ。
 男は最も深い青を世界に広げた。


「で、今は微妙な色の調整と。その間何やっていたわけ? 乾くまでの間、窓の戸締りだとか干すのを再開したりだとか俺が作った飯を温めたりだとかやれることはたくさんあったんじゃないですかねえ」

 蝉が鳴いている。僅かな生命の灯火を、燃えカスすら残さぬように鮮烈に。
 見下ろす友の瞳は部屋の温度と反比例するかのように冷ややかだ。その間も男はあのつなぎのぼかし方をもう少し溶け込ませるか、影の色は何色にするか、寒色か、あの曇の間は少量のモーブを白に加えて……と絵のことしか頭になかった。田中もそれを見透かしていたのだろう。深いため息が部屋に落ちる。

「お前の絵に対する並々ならねえ情熱があるのは知っているよ。でもさ、俺は心配だぜ。前にお前この絵を描くために生まれてきたとは言っていたけど、こいつに命とられるんじゃねえの? 今まで飯はぬいても窓はあけっぱ、濡れた洗濯物もそのまんまなんてことなかったじゃん。本当にどうしたお前」

 田中が部屋の惨状に悲鳴を上げたのは事実だ。放置してしまった洗濯物の中のほうは生乾き、地面に接しているところは埃で汚れ、おまけに窓が開けっ放しだったせいで虫が入り、電球の上で踊り狂っていた。
 窓ががら空きだったせいで、強盗か何かに襲われたのかと、前日に刑事ドラマを一気見していた田中は急ぎ車から緊急ハンマーを取り出し、インターホンを鳴らす羽目になったのだ。ドアを開けた瞬間、片手に買い物バック、もう片手にオレンジ色の窓を割る用のハンマーを握りしめた友の姿に目を丸くしたのは記憶に新しい。

「悪い。でも描かなきゃ。ようやっと形になったんだ。今やらなきゃどうする」
「お前人の話聞いてた? どんなことでも身体が資本なんだぞ。身体壊したら身も蓋もないんだからな」
「ああそうだな」

 忠告さえ右から左に通り抜けていく。腹がへっただとか眠いだとか全ての欲はこの絵のために昇華されてしまったようだった。自分の魂を燃やせば燃やした分だけ輝いていく。鈍くなった頭でそんなことを考えた。

「言った端から筆とってんじゃん! お前がもつのは筆じゃなくておにぎり! ほら口をあけろ」

 握り飯を噛む暇も惜しい。押し込まれる塊を無理やり飲み下しながら男は買い足さなければならない絵具の値段を算盤ではじいていた。


 ザッザッザッザッ
 筆を走らせる。扇形の絵筆で均一にならした表面に白を垂らし、乾いた絵筆で境界線を曖昧にしていく。雲の影は寒色に、透き通る光のツヤを出すためオイルの配合を調整。
 窓の外の蝉の鳴き声はもうほとんど聞こえない。時おり出涸らしのようにジジ……ジジ……と断続的な吐息を漏らすだけだ。冷蔵庫に入れられた皿のおかずはまだ形を保っているだろうか。掃除をしたのはいつだっけ。風呂に入ったのは? ああ、そんなことはどうでもいい。筆をとらなければ。まだ足りない。あの色にはまだ。やせ細った腕が震えながらあげられた。


 みずみずしい葉は冷たく乾いた風に晒され、すっかり老人のように乾燥しきってしまった。もう蝉の声は聞こえない。道路の隅に物言わぬ骸として蟻にたかられているだけだ。

「悪い、最近立て込んでいて来れなかった。死んでないか?」

 田中がインターホンを押す。しかし築三十年を超えたアパートの扉は一向に開かれる気配がない。

「出かけてんのか? いやそれなら何かしら連絡があるはず」

 スマホはうんともすんとも言わない。嫌な予感が背中を走る。田中は手の中にある薄っぺらな端末を起動し、友の名前をタップしたが、繰り返されるのは無機質なコールのみで、そこにけだるげで愛想のない声が応答することはなかった。

「……まさか」

田中はすぐさま錆びた階段を駆け下りた。

「大家さんに鍵借りたからな。入るぞ」

 玄関から続く部屋は思ったよりも片付いていた。いや生活感がないというほうが正しいか。水切りカゴに置かれた皿には埃が積もり、シンクには蜘蛛の巣がはっている。己の喉を鳴らす音さえ鮮明に聞こえてしまう。田中は一思いにもう一つの扉を開け放った。そこには倒れている人影が一つ。

「おい大丈夫か!?」

 枯れ木のように細くなった身体を抱きおこす。その顔は満足しきったように柔らかな微笑みを浮かべていた。

「だからあれほどいれこむなって言った、の、に……」

 顔を上げた田中は言葉を失った。上まで届く大きな画板。そこに描かれていたのは空だった。油絵独特の迫力と、油絵にしては驚くほど透明感のある青い、青い空。木々の隙間から眩い太陽が差し込んでいる。晩夏の、力強い生命の輝きの波が引き、終焉を匂わせる足音が聞こえてくるような青色だ。それはまるで命を燃やした蝉が最後に見た空のようであった。

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