見出し画像

自分なりのオタク道(極めるばかりが正義じゃない)

(※深夜に勢いで書いた文章です)


私は、自分をオタクだと思ってる。

中学生の頃から、半ば誇るようにオタクを自認してきた。


ただ、いわゆる正統派のオタクでもない、とも思っている。

なぜならアニメや漫画、ゲームといった2次元コンテンツにめちゃくちゃ疎いから。


漫画はまだいい。

メジャーなシリーズもの…たとえば鬼滅の刃やワンピース…をことごとく読まないというだけで、漫画自体は好き。

アニメやゲームは、ほとんどわからない。

ポケモンもほぼ知らないし、ドラクエもモンハンもやったことないし、どうぶつの森も好きになれなかった。

学生時代は特に、ニコニコ動画で人気の音楽なども履修していなかったから、オタクの友達ができても話が合わなかったし、カラオケでは謎の早口で高音な歌を黙って聴いているしかなかった。


そんな話はどうでもよくて。

好きなもの、趣味、ライフワークにしていること、追いたい推しやご贔屓の活動が、私には結構いろいろある。

2次元に疎いとはいってもオタクだから、好きなものはつい、時間を忘れてのめり込んだり、アホみたいにコンテンツを吸収して知識を蓄えたり、したくなる。


ただ、必ずしも好きなものを極めなければいけないわけではないよな、と最近思うようになった。

これが今回の本題。


たとえば、短歌。

短歌が好きで、自分でも詠むことがある。

穂村弘さんや笹井宏之さんなど、好きな歌人さんもいる。
穂村弘さんはいっときハマりすぎて、歌集を読みまくるだけでは飽き足らず、当時『ダ・ヴィンチ』で連載されていた「短歌ください」という公募コーナー(穂村弘さんが選定を担当)に応募して、一度だけ載せてもらったこともある。


でも、ものすごく正直にいうと、「短歌が好きな自分、が一番好きかもしれない」とも思う。

短歌という文化、コンテンツそのものはとても好きだけど、いろいろな人の歌集を読もうと努力してもなかなか食指が動かない。

小説などと比べると、短歌に対しては圧倒的に腰が重くなる。


まあでも、そんな中途半端な「好きさ」でも別にいいか、と思えるようになった。

読んでみたいとずっと思ってるあの歌集もこの歌集も読めていないし、定期的に書き溜めようと思っていた短歌のストックはぜんぜん溜まっていない。


それでもいいじゃないか、と。

私にとって短歌は、思い出したときに水をやって気まぐれに花が咲くくらいの、サボテンみたいなものなのだと思うことにした。


他の趣味に関しても、そう。

舞台観劇は一時期病的なまでに情報収集に明け暮れていたけど、今は年に数回観に行けたら十分な気持ち。

推しが書いた本や漫画は絶対に持っていたかったけど、「コレクションはしないオタク」になってからは書籍もずいぶん手放した。

サブスクは解約したりまた入ったりを繰り返すし、グッズも毎回買うわけじゃないし、推しの出演作も気が乗らないときは観ない。

ファッションは好きだけど洋服よりも優先したいことがあるときは放ったらかしにするし、着物はゆるっと楽しみたいからあまり勉強してないし、本も映画も、気が向かない時期は読まないし観ない。


それでも全然いいな、と思う。

どんな世界も声が大きくてこまめに発信する人が目立つから、声が大きいオタクや精力的なファンみたいな人が際立って見えるけと、実際はそれ未満の、にわかに毛が生えたみたいな有象無象の人たちがたくさんいるはず。

なのに、声が大きいオタクや精力的なファンみたいな人に引っ張られて、あの人ほどは熱中できていない(お金を落とせていない/活動できてない/情報を追えてない/アウトプットできてない…)と、自分を比較して落ち込むのはナンセンスだなあと思う。


有象無象のオタク(未満)やファン(未満)がいなければ、コンテンツは成長しない。

極められなくても、浅ーい範囲でも、そのコンテンツに触れて、楽しんで、たまにお金を落としたりアウトプットしたりするだけでも、十分な活動になる。


だから他人と比較せず、自分のペースで趣味を楽しむのが一番。

なぜか真夜中にそんなことを考えたので、ここに残しておきます。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?