私が「国語教材」の校正者になった理由

そもそも小学生くらいの頃から、私は誤植を見つけやすい子どもだった。

読んでいた児童書に漢字のまちがいを発見したり、授業中に教科書の誤りを見つけて指摘したり。

そして、この特技は煙たがられることはあっても、もてはやされることはあまりなかった。

そんな細かいこと、いちいち気にしなくてもいいじゃん」と言われたり、言われずとも態度でなんとなく示されたり。
他のみんなはあまり気にならないのか……と思うようになって、だんだんと細かい指摘をすることは減っていった。


しかし数年後、この特技が役立つ時が訪れた。

大学生になり、小劇場の制作業務を請け負うようになると、演劇のチラシの最終チェックという仕事を任されるようになった。

ここで、誤植を発見する能力が本領発揮。

「こことここ、数字と漢数字が混ざってます」
「この数字だけ半角になっていませんか?」
「名前の漢字が間違っています」
「この部分だけ、文字の大きさが違うのが気になります」

制作者は丁寧にチラシのチェックをする人が多いけれど、これほど大量の指摘をするのは周囲で私くらいだった。


この経験から「自分は校正者に向いているかもしれない」と気づき、後に校正者を目指すきっかけとなった。


ただ、今も昔も変わらずに胸に残っている思いがある。

それは、「こんな細かいこと、他の人は気にしないかもしれない」ということ。

演劇のチラシのチェックにしても、「あらすじの文章が変な気がする……でも、脚本家がこれでいいと言うならいいか」と指摘をあきらめてしまうことも多かった。

さらに、演劇の台本というものは誤字脱字の宝庫だ。
出版されて一般に流通しているものでも、なぜかものすごい数の誤植がそのまま載っていることもざらにある。

言葉の意味や用法が正しくないと思った場合は脚本家に指摘することもあったが、驚くほど指摘を無視されることが多い。

演劇の台本は、美しい言葉の響きや脚本家がイメージするリズムを重視する傾向にあるせいか、日本語の正確さは二の次にされるパターンが多いように思う。

そこで再び頭をもたげてくるのが、子ども時代に周囲に煙たがられた記憶。
気になっているのが自分だけなら、わざわざ指摘しなくてもいいか……」とつい口をつぐんでしまうのだった。


小説でも論説文でも随筆でも、校正者の視点で読んでいると、日本語の不正確さや言い回しの奇妙さに引っ掛かることが多い。
たとえいくつも作品を発表しているプロの文章であっても、それは変わらない。

どこまで「正確さ」や「伝わりやすさ」を重視して、どこまで「筆者の意図」や「不正確な表現でしか伝わらないニュアンス」を重視するべきか。

このボーダーラインを見極めるのは、正直、非常に難しい。


私の場合、この葛藤にある程度折り合いをつけて臨むことができるのが、「国語教材」の校正業務なのだ。

主に小学生から高校生までが触れる国語科の教材や試験問題は、学生たちの「学び」をサポートし、力試しをするための文章である。

そこには、「筆者の意図」や「不正確な表現でしか伝わらないニュアンス」の介在する余地はない。
「どうすればより正確に日本語の意味が伝わるか」「どうすれば納得のいく形で解答に辿り着けるか」が最優先事項となるのだ。


問題文として引用する小説や論説文の中身は、正直、自分で添削してしまいたくなるくらいややこしい文章やわかりにくい文章もたくさんある。

しかし、大切なのは「たとえややこしい文章やわかりにくい文章であっても、筆者の主張を読み取る方法」を学生に伝えることだ。


私はこの作業に、どこまでもやりがいを感じてしまう。


国語がなんとなく好きな人、なんとなく嫌いな人、好きでも嫌いでもないけどなんとなく点は取れてしまう人、はたくさんいる。

日本語は誰もが普段から使っている言葉だから、勉強をあまりしなくてもなんとなく問題が解けてしまったり、なんとなくよくわからなくて成績が上がらなかったり……ということが起こりがちなのだ。


私は、国語教材の校正に携わりながら、ずっと心の中でメッセージを送り続けている。

国語は「なんとなく」ではなく、知識とテクニックで解けるんだよ、と。

日本語はルールに沿ってより正確に書けば思いが伝わりやすいし、逆にあえてそのルールを無視することで新しい表現が生まれる。
だから、まずは日本語のルールをきちんと身につけることが大切だよ、と。


SNSで誰もが手軽に文章を発信でき、誤植や不正確な日本語だらけのコンテンツがあふれている現代。

校正者の仕事は、どこまで必要とされるのか?
私自身、ずっと考え続けてしまう。


だからこそ、現代日本で唯一、正確な日本語に触れるチャンスである「国語教材」の世界だけは、できるだけこの手で守っていきたい。


私は「国語教材」の校正者という仕事に、神話の森の守り神のような誇りを持って取り組んでいるのだ。

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