教案の話

教案というのは授業の脚本のようなものだ。
1つの授業の始まりから終わり、つまり先生が教室に入ってから出るまでの動き方や板書、セリフが事細かに書いてある。

養成講座に通っていた頃にこの存在を知ったのだが、講師によって教案に対する考え方がまったく違っていたことが面白かった。

A先生は、百パーセント完璧な教案を仕上げなければ実習授業に参加できない、と言っていた。
完璧というのは、「文法的な誤りはないか」「その例文で生徒は本当に理解するのか」「誤解が生まれるような例文になっていないか」などがしっかり精査され、分単位(中には秒単位の先生も!)でスケジューリングされ、綺麗な構成になっているものだ。

ぼくが最も解せなかったのは、生徒のセリフまで詳細に書き込まなければならなかったことだ。
授業の台本の読み合わせをするわけでもあるまいし、どうやって書けと言うのだ、と理不尽に思ったことがある。例え書いたとしても、そのとおりに反応する確率はかなり低いのではないか。

しかし以前「水曜どうでしょう」のディレクター藤村さんが、DVDの副音声で語っていたことを思い出した。どうでしょうの企画発表には脚本があり、(その脚本を手にすることが許されていないはずの)大泉さんのセリフまで書いてあるというのだ。もっと面白いのは、大泉さんはほぼ、そのとおりのセリフを言ってくれるのだという。

藤村さんが大泉さんをよく観察し、直感的に分析しているからなせる技だろう。

日本語教師の教案にも同じことが言える。
生徒をよく観察し、よく授業の振り返りをしていれば、生徒がどこでどう間違えるのか、傾向がだんだんつかめてくるものだ。

しかし、それは実際にプロとしてデビューした後の話で、養成講座の段階でそれはちょっと無理だろう、と今でも思う。

それに、こちらが予想したとおりの間違いをすることもあるが、相手は人間だ。予想できないような反応が返ってくることは、別段珍しいことではない。
「予想できない反応が返ってくるような授業をするな!」と言う人にも会ったことがあるが、それは思い上がりだ。何でもかんでも思い通りにいかないのが世の中でしょう。

講師のM先生は考え方が全然違った。
綿密、精密な教案は要らない。その代わりに、つかみ、中継地点、ゴールだけはしっかり決めておきなさい、というのがM先生の指導だった。
M先生は「学習者中心」というキーワードを繰り返し、それを実践している講師だった。
生徒の発話は、それがどんなにズレたものでもさえぎらず、上手に拾ってもとの路線に戻していく。生徒一人一人のことをよく把握し、その日の様子から例文を作って見せたりして、まさにライブだ。

実習をするにあたっていろんな講師の方の説明を聞いたが、ぼくは迷わずM先生を選んだ。
M先生は今でもぼくの巨大な師匠だ。

ただし、自分が現場に立って授業をしていると、教案に対する考え方は変わった。精密な教案を準備するべきかどうかは、その人の性格によるんだろうな、というのが今の考えだ。

M先生みたいな骨格だけの教案で授業をまとめるには、資質、性格、それなりの年季が必要なのだろう。ぼくもきっと、大学卒ですぐ日本語教師になっていたら、綿密な教案が必要だったと思う。

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