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冬の吐息、春のあらし. 1

冬はわたしを匿ってくれる。わたしがかつて、怖いと思っていたものものから、わたしの姿が見えることのないように、すっぽりと覆い隠してくれる。真っ白く一面に広がる冬の、きらきらのかけら。冬は音も色も吸い込んで、あたりは眠ったように、身じろぎもしない。

 今日もわたしは冬の中に駆け出して、足下の感触や温度をひとり楽しむ。足を、わざと奥深くまで埋めたり抜き出したり、ばたりと倒れこんだりして。きいん、とするほどの肌触り、耳の奥の静寂。冬の中でわたしは、わたしの持ち物のことを忘れて、安心と自由を得るのだ。
 冬の陰になるところは、どこにもない。冬は隙間なく世界を白くする。隙間なく白くして、昼も夜もきらきらときらめいている。時々、ざざざ、という音を立てて、雪が針葉樹から滑り落ちる。冬の寝姿のようなそれを落とした後の枝は、のしかかられていた重みで、下に垂れたまま戻らない。深緑色の、ぼさぼさとした枝先に、凍りついて残ったかけら。わたしはそれに手を伸ばし、指先で掬い取って口に含む。さあ、と広がる冬の匂い。それは甘くはなく、香ばしくもなく、ただ冷たく、何ものをも寄せ付けない。冬に触れた指先は、ほんのりとあかく、硬く水を含んで尖っている。わたしはそれを噛みほぐし、感覚が戻るまで口で温める。針葉樹の上には、新しく降り落ちた冬がまた、柔らかく重みを増して枝をしならせている。

 柔らかくなり始めた指先を、なおも唇に当てながらわたしは歩き、そのうちに、不自然な雪のかたまりのある場所に行き着く。ひとつは背が高く、ひとつは横に長く、最後のひとつはずんぐりと丸い。無造作に降り積もった雪。ぼこぼこと、無頓着に積み重なった冬の覆い。わたしはそれらをしばらく眺め、そうして確認する。昨日よりもその姿がひとまわり大きくなっていることを。昨日よりもさらに、周りとの区別が曖昧になっていることを。
 そうしてわたしは、再び冬の中を歩き始める。ず、ず、と一歩ずつ音を立て、軋むように沈む、足下の雪を感じながら。吐く息が白く浮き上がり、それが今日もちゃんと寒いのだと言っている。冬はわたしを自由にする。わたしの足跡は刻まれて、そうしてそのうち消えていく。冬の景色はどこまでも続く。わたしはつい行き過ぎて、帰れないところまで来てしまうけれど、どこも見知ったようで、あるいはどこも見知らぬようで、ああ、きっとこれなら、帰れようと帰れまいと、同じなのだ。

 針葉樹の森から、ぎちぎち、という幹のうなりが響き、わたしは森の中に入る。ひかりを遮られてほの暗いそこでは、ものものの音をほんの耳元に感じる。幹のうなりも、ぞう、という葉ずれの音も、枝先から落ちる雪水のタッ、という音も、耳元で鳴るかのようにひとつひとつがはっきりと空間に満ちる。自分の息遣いもその中で浮かび上がるように聞こえ、音につられて頭の中も冴えていく。
 見上げると、降り落ちる雪と針葉樹の深い緑だけが目に入る。次から次へと視界を覆う冬。日の当たらないここでは、きらきらを輝かせることなく一心に降りしきる。わたしはそれを身体中に染み込ませたいと思い、針葉樹の間に仰向けになって目を閉じ、冬がわたしに降り積むにまかせる。しんしん、しんしん、しんしん、しんしん。しんしんと冬は降り積もり、やがてわたしは見えなくなる。そうして、白い世界の中で、冷たくあたたかな冬の布団に覆い隠されたわたしは、ほんの少し、眠る。

 気がつくと、ホウホウ、と夜が呼んでいる。わたしは目を覚まし、体を起こしてあたりを見回す。夜の始まりの薄闇は、針葉樹をボサ、とした影に変えて、ところどころ金色の灯りを浴びせかけている。空を見上げると、低いところにぼんやりとした月がかかっている。そうそくの灯火のようなひかり。幾重もの輪があたりに散らばって暖かに見えるけれど、わたしは知っている、冬の月は、一面を凍らせるほど、冷たいのだ。
 来るときにつけたわたしの足跡は、もう随分と前に覆い隠されて、けれどわたしはそれを辿るようにして、家に帰る。凍り始めた冬のかけらが、散りばめられたように一歩ごと眩しくひかる。追ってたどり着いたと思った時には身を潜めてしまう、冬のひかり。翻るように輝きを振りまいては隠れ、振りまいては隠れ、わたしは目の端でそのひかりをいくつも数えながら、深まる冬の夜を歩く。

 冬の夜は沈むように深い。深く深くまでたどり着くとそこは、もうすぐ訪れる終わりのように、安らかだ。わたしは想像する。夢の最後を見ずに、眠ってしまえる場所。すう、と息を吐いて、あとはじっとしている。そうすればその場所に、降りていけるはずなのだ。じっと、じっと、ずっと。けれどわたしはいつも、そこにたどり着く前に、目を覚ましてしまう。冬の夜は深く、眠りは安らかだけれど、冬はわたしを、そこに連れて行ってはくれないのだ。

 帰り着いて先ず湯船にお湯を張り、ひりひりするほど冷えた体を
温める。湯気にむせながらふくらはぎをもみほぐして、明日の冬の散歩に備える。明日はきっと、もっと、ずっと冬が深い。月の冷やした冬の上に、また冬が降り積もり、一段と深く、一段と白く、世界を覆うのだ。そんな風に思いながら寝床に入り、瞼のとろりと落ちるのを感じて毛布をえいっと引っ張る。窓の外では先ほどよりも高く登った月が、相変わらず灯火のように灯っている。わたしは訪れた夜に包まれて、月明かりの元、寒さと温もりのどちらにも抱かれながら、ぐっすりと、眠る。

(2 に続く)

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