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"Don't be evil"と「きみもぼくと同じくらい悪い人でよかった」

企業のスローガンで最も好きなのは ”Don't be evil" だ。

"Don't be evil" はGoogle社員が行動規範として掲げていたスローガンだ。(邪悪になるな)の精神がテクノロジーで世界を変えると豪語してきたGoogleの大切な価値観だった。

しかし、"Don't be evil" は2015年ごろから徐々に廃止され行動規範からも削除された。新たなスローガンとして "Do a right things"(正しいことをしろ)が掲げられた。

個人的には、"Don't be evil" の方が "Do a right things" より好きだ。「正しさ」は誰かにとっての正義であり常に価値観は変えられてしまう。そして何より(正しいことをしろ)と言われるのはなんだか窮屈だ。



ところで、僕の好きな曲の中にキノピオピーさんというボカロPの「きみも悪い人でよかった」という曲がある。

この曲の

きみもぼくと同じくらい悪い人でよかった

というフレーズが狂おしいくらいに好きだ。(ぜひ曲を聴いてみてほしい)

「同じくらい悪い人でよかった」この言葉の使い方に衝撃を受けた。
「きみもぼくと同じくらいいい人でよかった」ならきっと刺さらなかった。


この曲の文脈でいう「悪い」には、「いい(社会的な正しさ)」に対する「悪い(不完全さ、正しさからの逸脱、自由)」の意味が込められていると思っている。
きっと、正しいだけの人ばかりだと自由のない窮屈でつまらないものに感じてしまう。正しさから抜け出したところに、面白さも豊かな発想もやさしさも詰まっている。人間として豊かであるなら、ここでいう「悪い」人でありたいとも思う。

だけど「同じくらい」。きっと極端な悪さは誰かを傷つけるかもしれないし、自分の許せる「悪さ」の境界が合う人が気の合う・一緒にやっていきたい人なんだろうな、と。


久しぶりにこの曲を聴いて、

Don’t be evil

きみもぼくと同じくらい悪い人でよかった

はすごく似た構造なんだなって気づいた。


"Don’t be evil” は悪さを否定しているわけではない。そこには自由である余白がある。だけどもevilになる「許せない」境界を超えてはいけないと言っていると思う。

「きみもぼくと同じくらい悪い人でよかった」も、僕らが「悪い」ことを前提の上で、一緒の程度まで「悪く」いられる人がいることに幸せを感じるといったことを表現しているように思った。


evilにならずに、同じくらいまで一緒に「悪く」いられる人たちを大切にしていきたい。

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