中編小説『東洋の忘れ形見』②

本吉はすごく真面目な男だった。朝九時からの練習にも、七時半には来ていて自主練習をしていたし、五時に終わる練習の後も夜の八時までみっちりと延々ピアノを弾き続けた。楽譜読みものみ込みが早く、最初はドレミファソの説明からだったが、一か月もすれば初見で軽い練習曲くらいなら弾けるようになっていた。私はこんなに飲み込みが早いと思っていなかったから彼の成長速度に底知れなさを感じた。
しかし、帝都音楽院の入試はただ初見で課題曲が弾けるだけではだめなのだ。
聴音という、聴いた旋律、和音などを楽譜に書きこむ試験や、新曲視唱という初めて見る楽譜を声に出して歌う試験、があるのだ。そして、本吉はそのどれもが苦戦していた。
「楽譜をちゃんと読んで、推測しないで」
私はまた本吉に注意をした。
新曲視唱は歌う前に楽譜を読む時間を少しだけ与えられるのだが、本吉は譜読みが間に合わず、どうしても歌っている間に音を勝手に推測してしまう癖があった。
 これは本吉が以前していたピアノの奏法から来るものだった。というのも、彼は以前耳で聞いて覚えそれらしいメロディーを自身で編曲して弾いていた。だからか、彼自身は無意識で編曲してしまうのだ。初見も聴音も同じように本吉はたびたび推測で編曲をした。
 一見楽譜をしっかり見ていないと、分からない編曲も多いので私も一緒に問題を解かなければならなくて、体力を使った。クラシックピアノは、楽譜に従うという前提がある。楽譜に従って弾くことができなければ、感情表現を乗せたとしても評価はされない。
 最初は楽譜通りに弾いているのだが、楽譜が複雑になると演奏に意識が引っ張られ譜読みがおろそかになっていく。こればかりは練習しかない。譜読みの速さはやはり慣れがものを言う。楽譜を読む訓練を日ごろからしていなければ、譜読みと同時進行で演奏をすることは難しいのだ。
 また、本吉にはもう一つ問題があった。と言うのも、それは手の使い方にあった。
ピアノはただ鍵盤をたたけば音が鳴る楽器だ。他の弦楽器や、金管楽器と違い初心者でも初めから音を鳴らすことができる。強くたたけば、大きな音が鳴り、優しく触れれば小さく音が鳴る。音を鳴らすことに関してだけ言えば、ピアノほどとっつき易い楽器はないように思う。ただ、ピアノはそのシンプルな性質上、どの指でも均等に同じ大きさで音が鳴るように訓練が必要だった。
本吉はその均一にどの指でも同じ大きさに調整する能力には非常に長けていた。しかし、ピアノには強弱のほかにもう一つ音を大きく左右する要因がある。それが、指と手の甲の形だ。
ピアノは指から甲にかけて手を丸く卵を持つように曲線を意識し弾くと、ぽろぽろとした一つ一つの音が粒立ったような音になる。反対に指を寝かせてピアノを弾くと柔らかくふんわりとした音が出る。また、この手の使い方は間違った弾き方をすると、手の故障などの要因になりやすい。本吉はこの指と手の甲の使い方がめちゃくちゃだった。今までよく故障をしなかったと私は正直呆れたほどだ。
「手のかたち、意識して」
私が冷静に本吉を分析して意識を逸らしている間に、彼はまた手の甲の使い方をいい加減にした。
本吉のピアノには問題点が沢山あった。ただ、そんな問題も些末に思えてしまうほど、彼のピアノの音には何か大きな見えない力があった。そして、その力は彼が日に日に少しずつピアノの知識を自身のピアノの経験と繋げるたびに何か大きな渦のようなとてつもないエネルギーのようなものに変化している最中なのが私には分かった。
私は本吉が何かすごいものに変化していっている傍らで、やはり故郷が懐かしいと思う時があった。それは日本語が分からず困ったときだったり、食べた食事がおいしくなかったときだったり、本当に些細なことだった。私は些細なことに寂しさや苛立ちを感じた時、甘いものを食べる癖がある。今日も私はドロップ飴を本吉の演奏を聴きながら口に放り込む。
最近、師匠のユーゴは食卓でも本吉の話をする。ユーゴは本吉のことを天才だと言い、日本に来てよかったと心の底から思っているようだった。私は本吉がいい演奏をする度に、日本に来てよかったと思ってしまう自分が居てどこかなんか嫌だ。本吉が上手くなればなるほど、私は何かほの暗い感情がむくむくと自分の中で大きくなっていくのを感じた。
ただ本吉はどこまでも真っ直ぐな男だった。ピアノに対する姿勢だけでなく、普段の会話でもお世辞一つ言えない馬鹿正直な男だった。だからこそ、私はこの自分の中で暴れだしそうな感情をどこにやっていいか分からなかった。
口の中でオレンジ味のドロップ飴を転がす。酸味の少ないオレンジは日本で最近食べた蜜柑に味が似ていた。私はその味が好きになれず、奥歯で思いきりかみ砕いた。
その音に本吉は不意に演奏を止めた。時計は十五時を指していた。思い返せば本吉は水も飲まず十三時からずっとピアノを練習していた。
「そろそろいったん休みましょ」
私は本吉に後ろの机に置いてあった魔法瓶を渡した。本吉は魔法瓶を開け、蓋にそそぐと麦茶をゆっくりと飲み始めた。私はそんな彼にドロップ缶を見せ、本吉は手を差し出した。本吉の手の上には赤色のイチゴ味が出てきた。彼の大きな手と小さな飴はどこか不釣り合いで可笑しかった。
 私が口角を少し上げると、本吉がおもむろに話しかけてきた。
「ミシェルはいつもドロップを口にしてるな」
「そうかもしれない、何か嫌なこととかがあると甘いもの食べる癖があって」
私がそう言うと、本吉は焦った顔をした。
「俺のピアノなんか嫌なとこあった?」
本吉の焦った顔に私は否定をした。
「違うの、ただ母国が懐かしくて」
私は本当のことを少しぼかして言った。これは嘘ではない、ただ本当でもなかった。
「なんか、俺にできることはないか?」
本吉は本当に私のことを心配するようにこちらを見ていた。この男は彼のピアノと同じでどこまでも真っ直ぐだ。だからこそ、私は憎めない。
 私は少し悩んで、「日本のお菓子が少し気になるの、ただどれがいいか分からなくて」と言った。それに本吉は嬉しそうに答えた。
「すぐそこの商店街に駄菓子が売っているとこがある、買いに行こう」
日本のお菓子屋さん、私は少し行きたいと思ったが、同時に日本の自分の髪や目や肌の色を奇異に見る視線が苦手なのを思い出した。
「ありがとう、でもいいわ。私は日本語が話せないし」
「俺が通訳する」
「でも、やっぱり外国人って目立つでしょ、だから」
本吉は「ミシェル」と大きな声で私を呼んだ。
「確かにミシェルはこの日本では目立つかもしれない、でもそれはミシェルが美しい、からだと、俺は、思う」
最初勢いがあった本吉の言葉は、最後は尻すぼみになって空中に霧散していった。私はそれが面白くて、つい吹き出してしまった。本吉は耳まで真っ赤で可哀そうになるほどだった。
 「行きましょうか、お菓子屋さん」
目を伏せてしまって真っ赤になった本吉に言う。本吉は未だ恥ずかしそうだが、真っ赤になりながら「行こう」と言った。
 緑のコートの袖の端を握りながら、私は本吉とともに街に出た。
 土埃の舞う乾燥した冷たい空気に、私は首をすくめた。茶色の革の手袋は分厚く手が大きく見えるからデザインはあまり好きではなかった。ただピアノを弾くときに手が冷たいか、温かいかでは動かしやすさがだいぶ違う。そのために、私はいつも出掛ける時はこの手袋を着けた。
前を歩く本吉は、寒そうに外套の袖に手をすぼませ、風に当たる面積を少なくさせようとした。その様子が少し雪だるまのフォルムに似ていて私は本吉に気づかれないように笑った。
 三分も歩くと、お菓子屋さんに着いた。棚に瓶がズラリと並びお菓子がびっしりと入っていた。
「ここはほとんど量り売りだから、食べたいのがあったら食べたいだけ出して、量るんだ。重さによって値段が変わる」
「なるほど」
店をゆっくりとみる。原色の赤や黄色、青色のセロファンに包まれたラムネや、大きな飴玉、カラフルなお菓子に並んで端っこの方にあった、大きい細長い茶色いお菓子が気になった。
「本吉、あれはなに?」
本吉の服の裾を引っ張り、声をかける。私はお菓子に気を取られ、思ったより子供っぽい声が出た。
「あー、あれは麩菓子だな、黒糖の味がするお菓子。あー、黒糖ってのは黒い砂糖で、うーん、説明が難しいな。とりあえず食べれば分かるんじゃないか」
私は本吉の説明を聞いても、さっぱり分からなくてとりあえず麩菓子と、マーブルチョコと笛ラムネを買うことにした。お会計のところに本吉とともに向かうと、店主のおばさんが本吉と私を交互に見た。そして、日本語で何か話しをした。本吉は私の代わりに答え、私に英語で通訳した。
「俺たちは恋人かって、おばさんが言ってる」
「違うわ!」
私は大きな声で答えると、本吉はけらけらと笑い、おばさんにわざとだとわかる泣きまねをしながら何か話をしてお会計をした。
 私は本吉が商品を受け取るのを確認して先に出た。店を出て道の端のところで子供たちが何人か集まっていた。そして、私の方を見て遊んでいるおもちゃもそのままに近寄ってきた。日本語で話しかけられて私は困ってしまった。本吉に助けを求めるように本吉を探すと、店から出てきた本吉が少年たちとの間に入ってくれた。
「こんなにお人形さんみたいな人初めて見たってさ」
私はそれに、「センキュー」と聞き取りやすい英語で少年たちにお礼を言った。少年たちは顔を真っ赤にさせ、可愛らしいなと私は思いながら微笑んだ。
 本吉は嬉しそうに少年たちと何かを一言二言話し、私の手を引いて帰り道と反対方向に歩き出した。
「ここから少し歩いたとこに、河川敷があるって、今の子たちが言ってたからそこでお菓子食べてから帰ろう」
私は手袋越しに本吉の手をゆっくりと握り返した。彼は手を握っていたことに気づいたようで「ご、ごめん」と手を離した。私はそれに何て返せばいいか分からず、下を向いて歩いた。ふと、本吉はどんな顔をしているのだろうと思い、横を見る。本吉は目を輝かせて、前を見ていた。
 何かあるのかと思い、顔を前に向けると私たちは河川敷に来ていたことに気づいた。日が少し傾いていて、空が少しだけオレンジがかっていた。私はその夕日を見て母国のセーヌ川を思いだした。
「私、日本なんて来たくなかったの」
「知ってる」
本吉の方を向く、彼はすごく優しそうな顔で見ていた。私は夕日の当たる彼の黒い瞳を見て綺麗だなと思った。今なら、私のこのもやもやとした感情を言える気がする。
「私は本吉が嫌い」
本吉は嫌いと私に真正面から言われ少し動揺した顔をした。私はそれに気にせず続ける。
「本吉のピアノを聞くと日本に来て正解だったような気がしてしまうから」
「正解じゃなかった?」
本吉は不安そうに、私の顔を覗き込んだ。私は自然と流れる涙を緑のコートが汚れるのも気にせず袖で拭った。
「分からない。だから、あなたが正解にしてよ。私が日本に来てよかったっていう演奏をして。私は正しかったって思わせて」
本吉はその言葉に、目を少し充血させ、大きく息を吸った。夕日はまだ沈みそうにない。本吉が持っている駄菓子の入った紙袋は風を含み音をさせた。私は髪がなびくのも気にせず彼を見た。彼は真っ直ぐ夕日を見つめながら「約束する」と呟いた。
 私は河川敷にハンカチを敷き、座った。本吉もその隣に座り、お菓子の紙袋を漁った。最初に食べたのは笛ラムネだった。私は笛になっているとは知らず、笛ラムネをそのまま口に入れて噛んだ。それを本吉は見ながら、空気の抜けるような鳥の鳴き声にも聞こえる何とも言えない音を出していた。
 マーブルチョコはカラフルで一粒ずつ舐めて楽しんでいると、隣の本吉は五粒くらいを一気に口に放り込んでかみ砕いていた。河川敷で食べたお菓子の味はどれも初めてなのに懐かしい味だった。特に、麩菓子の味付けはいつか食べた焦げ臭いお母さんのキャラメルの味を思い出した。
故郷が懐かしい、帰りたいと思いながら、この男が私との約束を守れるまでこの国に居てやってもいいと心のどこかで思っている私。そんな矛盾さえも全部大切にしたいと思いながら、私はひどくピアノが弾きたいと思った。
「ピアノ弾きてぇな」
隣の本吉がぽつんと夕日を見ながら言った。私はそれに「そうね」と返し、食べかけの最後の一口の麩菓子を口に押し込んだ。本吉はそれを見て笑いながら、「帰るか」と私に言った。
 帰り道夕日を背にして少しずつオレンジ色からネイビーになっていく空を見た。一番星が空には輝いていた。帰ったら一番に弾く曲を私は決めた。
「帰ったら、ピアノ弾いてあげる」
私の言葉に本吉は嬉しそうに「何を弾いてくれるんだ?」と聞く。
「モーツァルトのきらきら星変奏曲」
「聞いたことないな」
「絶対あるわよ、有名だもの」
私は鼻歌で歌う。すると、本吉は「小さい頃、聞いたことあるな」と懐かしそうに目を細めた。
「親が弾いてくれたんだ」
本吉は思い出したように、嬉しそうな声を出した。私は本吉の親はピアノが弾けたのに、どうして本吉に楽譜の読み方を教えなかったんだろう、と思った。けれど、本吉があんまり嬉しそうに私の鼻歌の続きを歌うからなんとなく聞けないまま、屋敷に戻ってきた。
 レッスン室に戻ると私はピアノの椅子に腰かける。本吉は私の演奏を待ちきれないという風にこちらを期待のまなざしで見ていた。
 手袋をピアノの脇に置き。ピアノに手を置く。最初はぽろぽろとした音でお決まりのフレーズを奏でる。少しずつ音が増えながらも、基本のメロディーを意識して弾く。
私は三歳からユーゴの下で預けられて育った。第二次世界大戦の真っただ中だった。母も父も自由フランス軍の関係者だったらしい。らしいというのは、私はあまり覚えていないからだ。戦争中だというのに、私はあまり怖い思いをしたことがなかった。覚えているのは、狭い部屋の中三人で身を寄せ合ったぬくもりだとか、母が家にあったアップライトピアノを弾く音だとか、ラタトゥイユの匂いとかそういうおぼろげなものだった。
 父と母は私の未来のためと言い、私をユーゴに預け自由解放運動に身を投じフランスをドイツの占領から守ったらしい。ただ、私はそんなことどうだっていいと思っている。私のためを思うなら、どうして私を置いて行ったのだろう。幼い頃の母と父の記憶は今ではあまり思い出せない。ただ、ふとした瞬間に、思い出される二人の記憶の中にこの曲もあった。
 きらきら星変奏曲は段々と複雑になっていき、その度に私の感情はぐちゃぐちゃになる。私は気付いたら、涙を流しながら弾いていた。私は涙をぬぐうことも、弾き続けることも上手くできず、演奏が止まりそうになった。けれど、隣で本吉が私のピアノの続きを弾きだした。その旋律はどこまでも私に寄り添うように優しかった。
 私は本吉とともに鍵盤に指を滑らせながら、少しずつ話をした。
「私の親も、小さい頃この曲をよく弾いてくれてね」
ポロンとピアノが返事をするように鳴る。
「この曲を弾くとたまに思い出してしまうの」
今度はピアノが和音を奏でた。
きらきら星変奏曲の原型はあまり保ってはいなかった。ただ、本吉と私の即興により新しい別の曲へと変化していった。隣の本吉を見る。本吉は鍵盤を見ながらもしきりにこちらを気遣うようにピアノを弾いていた。
「私は写真でしか両親の顔を覚えていないの。ただね、母が弾いたピアノに、父の歌、そういうのはなぜか覚えているの」
「素敵だな」
ピアノを弾いている本吉は鍵盤に視線を落としながら言った。
「俺はそういうの素敵だと思う、だってミシェルの中にその人たちはいるんだろ」
私はその言葉に演奏をついに止めてしまった。本吉は未だにきらきら星の伴奏を奏でている。コートの裾にぽたぽたと涙のしみが出来て、私は鼻をすする。
「俺はミシェルに日本に来てよかったって思わせる約束をさっきしたよな、あれにもう一つ付け足してもいいか?」
「何よ」
私はなんとなくつっけんどんな言い方になりながら、本吉の言葉を待った。
「ミシェルがおばあちゃんになっても思い出す演奏をするピアニストになるよ」
本吉は伴奏をしながら楽しそうに言った。
「本吉のくせにかっこつけすぎ」
私はつい嬉しくてごまかすようにメロディーを再び弾き始めた。
 母国に居た時、こんな優しくて泣きそうな気持ちでピアノを弾いたことはあっただろうか。自分の感情がピアノの音に動かされるのが分かる。
そろそろこの曲も終わらせなければいけない。私はクライマックスに向けて音を増やした。それに応えるように本吉は伴奏の音を増やしていく。手は疲れてきた、でも楽しい、終わりたくない、延々と弾いていたい。ただ、いい演奏は終わり時を見極めなければならない。私たちはこの曲の終着点はもうとっくに過ぎてしまっていることに気付いていた。だからこそ、蛇足になる前に私たちは静かにピアノの上で踊る手を止めた。
 本吉は立ったまま弾いていたので、その場に寝転がった。私も椅子に思いきり寄りかかり、床に転がる本吉を見た。
「楽しかった」
どちらが言ったか分からないがそんな声が静かなレッスン室に響いた。
 
 約束をした日を境に本吉のピアノは変わった。彼の知識は血となり、技術は肉となり、彼の大きな腕と手はピアノを弾く上で彼の頭の中の演奏を実現させる武器となった。そして元々よかったピアノの音は聴いていると鳥肌が立つほどの音になった。
 本吉の入試当日の朝、ユーゴは本吉の最終チェックとして初見、聴音、新曲視唱、などの試験をした。
「本吉君がまさかここまでとはな」
本吉にばれないように、ユーゴはフランス語で私に耳打ちしてきた。私はそれに得意げになりながら、「でしょう」と何食わぬ顔で言った。
 本吉は演奏を終え、私たちを見た。
「どうですか、受かりそうですか」
それにユーゴは満足そうに、「このレベルならば問題ないだろう」と言った。
 本吉はユーゴの言葉に安心したような顔をした。
「私が教えたんだから当然でしょ」
「ミシェルも、三か月、本当にありがとう」
本吉は目が潤んでいた。私もつられて泣きそうになって、急いで我慢した。
「何感傷的になってるのよ、あなたは私との約束まだ守っていないんだから、もっと頑張ってもらわなくっちゃ」
本吉は笑いながら自身に言い聞かせるように「そうだな、まだまだだ」と同意した。
 玄関先まで本吉を送ろうとユーゴと私は本吉に続き、レッスン室を出た。外は曇りで、今にも雪が降りそうなくらい寒かった。玄関のそばに生えている木々は葉が一枚もついていなくて可哀そうになるほどだった。
 玄関に着き、本吉が振り返り、では、と言う。ユーゴはそれにかぶせるように話しかけた。
「本吉君、手が冷えないようにこの手袋を着けていきなさい」
ユーゴが手渡したのは、私の茶色の革手袋によく似たものだった。
「これは僕の弟子と言う証なんだ」
本吉は茶色の手袋とユーゴを交互に見た。「ありがとうございます、絶対に受かって見せます」今にも泣きだしそうな子供みたいな声を本吉は出した。
私もユーゴもそんな本吉を見て笑いながら送り出した。
本吉を見送ってから、ユーゴも試験官として音楽院に行ってしまった。私は手持無沙汰となってしまった。そして、いつものピアノの練習曲を何時間か弾いた後、何故かしきりに部屋を掃除したり、自室の模様替えを始めたりした。
夕方になり、空を雪が舞い始めたのが窓から見えた頃、本吉は帰ってきた。
「どうだった?」
私は玄関まで小走りで向かい、一番に本吉に聞いた。
「完璧だったと思う」
私はそれに心の底から喜んだ。すると、本吉は紙袋を差し出してきた。
「菓子のおみやげ」
紙袋の中にはこの間食べた麩菓子や、マーブルチョコや笛ラムネのほかにも、見たことのない色とりどりの飴やガム、水色の変な形の瓶に入った飲み物が入っていた。
「こんなにたくさん一度に食べれないわよ」
「何、喜ぶかわかんなくて」
本吉が私を喜ばせようとしてくれたのが、うれしくて、ありがとう、と笑った。本吉はそれに「おう」と答えながら、ただでさえ寒さで赤くなった顔をさらに赤くさせた。
「少し遅いけど、お茶にしましょ」
私は台所に行き魔法瓶の中に入っているお茶をカップにそそいだ。お茶を持ってレッスン室に向かうと、本吉はコートを着たままピアノを弾いていた。
本吉が弾いているのはバッハのメヌエットだった。彼は私が来たことに気付くと、演奏を止めずに話し出した。
「この曲、俺が耳で一番に覚えた曲なんだ」
「なんでメヌエットなの」
「戦争中、日本では当時の同盟国の曲しか弾いちゃいけなかったからな」
私はため息を吐いた。私たちの幼い頃戦争は世界を真っ黒に包み込んでいた。それは私たちが小さくてあまり覚えていなくても、はっきりと肌感覚で悲しい過去として私たちの心の中に痣として残っていた。
小さい頃私も、ピアノを聞いて育った。メヌエットではなく、私はパッフェルベルのカノンだったが、それを話そうとしてふと本吉は小さい頃からピアノを聞いて育った環境にいたのではないかと言うことに気付いた。
「ねぇ、それって本吉は幼いころからピアノを聴いて育ってたってこと?」
「そうだな」
「どうして、ピアノを弾ける人が周りに居ながら、あなたは楽譜が読めなかったの?」
演奏が止まった。本吉は、貼り付けたような笑顔をしながら、「なんでなんだろうな」と言った。私はその笑顔がこれ以上こちらに踏み込んでくるなと言われているようで、悲しくなった。私は何を話せばいいか分からなくて黙ってしまった。
 本吉は下を向いた私に紙袋を差し出し「お茶にするんじゃなかったか?」と言った。顔をあげるといつもの本吉に戻っていて、私は「そ、そうね」と言い紙袋を開けた。
 麩菓子に噛り付きながら本吉を見る。彼は「おいしいな」と言いながら、いつも通りののんびりした様子だった。私はそれに混乱しながらさっきの彼は見間違えか何かかもしれないと思い考えないようにした。

 

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