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Q:むしゃくしゃした時、どうすれば救われる?

Q:むしゃくしゃした時、どうすれば救われる?


A:音楽

わたしの人生は、だいたいの場合音楽が救ってくれた。むしゃくしゃした時も、やるせない時も、言葉にできない苦しさも全部ぜんぶ代弁してくれた。

常日頃思っていることがある。尾崎豊が歌ったことで、どれだけの人が校舎の窓ガラスを割らずに済み、どれだけの人が盗んだバイクで走り出さずに済んだか。やってはいけないことーー暴力性をはらんだ燻る衝動のすべてを、音楽が解消してくれた。わたしも、Neru氏の「脱法ロック」のおかげで首を吊らないで済んでいるし、すりぃ氏の「テレキャスタービーボーイ」のおかげでまだこの現実にさよならしなくて済んでいる。

世界をぶち壊したくなるような衝動はぜんぶ音楽で解決できた。ロックン・ロールは偉大だ。音楽ジャンルとしての「ロック」の意味が変遷しようが何しようが、根幹に眠る思想は変わらない、と思う。ずっと、わたしの代わりに、くだらない社会に唾を吐いて、何もかもを破壊してくれた。

何も、破壊衝動ばかり肩代わりしてもらうわけではない。心底疲れ切っている時、甘い食べ物はそこまで得意じゃないわたしは音楽で糖分を摂取する。つやつやのイチゴの乗った、顔くらいの大きさあるパフェを貪り食うみたいに、きらきらの王子様ソングやお姫様ソングを片っ端から再生する。遠くに行きたい時、わたしを連れ出してくれるのは車でも電車でもなくて音楽だし、パーっとはしゃぎたい時も、自信をつけたい時も、寄り添ってくれるのはいつだって音楽だった。

でも最近、なぜだか、音楽だけでは解決できない "うっすらとした絶望の膜" みたいなのが張っているような気持ちになる。どんな曲を再生したらいいのかわからないのだ。そもそも音楽を聴こうという気にならない。地下鉄の騒音から逃れるためにイヤホンをして、何も流さないまま家まで着いてしまったりする。これは、音楽にすがって生きてきたわたしにとっては一大事だ。もう、どうしたらいいのか、わからないのだ。

Q:じゃあ、そんな気持ちになった時、どうすれば救われる?


仮説1:食事

わたしは食欲に(自分でも把握できないほど)むらがある。食事を楽しむために生きている母親と、食事にまったく興味のない父親のどちらの面も受け継いでしまった、まさにハイブリッドである。

好奇心はある。旅行先で食べ物に使うお金はしぶらないし、なるたけ色んなものを食べようと努める。美味しいが幸せにつながるという理論も理解できる。ただ、日常的な食事はどうも疎かにしがちである。咀嚼がめんどくさい、という理由で抜いたりする。人の目がないとすぐ食事を抜くので、さっさと絶滅するタイプだ。

こないだ、上司にランチに連れていかれた。会社からちょっと離れた、地中海料理店だった。上司は「もう生きるのが長くないので、一回一回の食事を大切にしたい」と言っていた。上司と同僚2人、あわせて4人で昼休憩に生牡蠣とパスタとリゾットを平らげた。贅沢である。

この日の午後、"うっすらとした絶望の膜" の存在をあまり感じなかったように思った。地中海料理、具だくさんだったし、栄養かな。それとも美味しかったからかな。日頃疎かにしがちな食事を、きちんととるのもいいと思った。

仮説2:身なり

わたしは、根本的には身なりに興味がないんじゃないかと最近思う。

服も化粧も、それなりに興味があると思って生きてきた。人間が着飾るという行為自体はすごく面白いと思っているから、卒論もファッション誌関係で執筆した。だけど、お洒落な人間を見ていると「わたしはここまで執着できないな」と思うことがある。執着という言葉を使ったが、悪いことだとは思っておらず、むしろ尊敬している。

まあ、言ってしまえばめんどくさいのだ。綺麗な肌を保つためにシャワーで直に顔を洗えないの、めんどい。メイクを落としたくても擦っちゃいけないの、めんどい。あれ塗ってこれ塗って、ああ、めんどい。かわいいデザインの服があったとて、アイロンを当てるのもめんどくさければ、下着の紐が出ないように考えなきゃいけないのもめんどい。めんどい大魔神である。

でも、鏡を見た時に「今日のわたし、かわいい」と思えたら。"うっすらとした絶望の膜"はおろか、どんな不幸なことがあったとしても、上方修正できるくらいパワーが湧く、と思う。

最近流行ってる「最上級にかわいいの」。あれこそが真理だ。好きな男に振られたとて、仕事でミスしたとて、知人にマウント取られたとて、「でもわたし、かわいいしな」ですべてが解決する。いや、解決するかどうかは人それぞれだが、少なくともわたしの中で「かわいい」はすべてを解決に導く魔法の言葉であるようだ。


仮説3:創作

歳をとった時に、インプットだけじゃなくてアウトプットできる趣味があるといい、と言うのはよく聞く話だ。わたしも、創作の趣味があればいいなと思う。それに、創作はたぶん "うっすらとした絶望の膜" に効く。集中できて、達成感があり、自分の生きる意味がちょこっと顔を出す気がする。

ウーン、何がいいんだろうね。絵は挫折した。小説と曲は書けない、自分からまったく浮かんでこないから。文章も上手くない、こうして書いてはいるけどさ。

たまに蜷川実花になりたい、と思う。人を飾りつけて、自分の思うように撮影したい。やってみたい、お金がかかりそうだな。でも、こういう視覚的な創作がいちばん手を出そうと思えるかも。手先は不器用だけど、ぬいぐるみの服も作ってみたい。ミニチュアとか。

ただ、承認欲求のバケモノにならないように注意しなければならない。わたしは実力がない癖に認められたいという気持ちがいっちょまえだから、創作の趣味をして承認が得られなくて絶望する、ということになりやすい。それでは本末転倒である。

楽器、楽器がいいのかな。弾ける楽器はいくつか(と言ってもそれなりにできるのはトランペットとヴァイオリンくらい)あるし、創作とはちょっと離れれど、実践的な趣味としてならいいのかもしれない。練習か。ああ、めんどくさいな・・・。

仮説をとおして

わたしは救いの手を、「めんどくさい」と一蹴しているのではないか。

人生つまんね~と口で言うのは容易い。でも、わたしを覆ううす暗い絶望の膜を、わたしはわたしの手で破らなければならない。それなら、小さなことから日常のなかに楽しみを見いだせるような行動をすべきだ。音楽だけでカバーできなくなったのは、きっと。

「ずっと甘えてんじゃねえ」という声が聞こえる。
ーー代弁ばっかさせるんじゃねえ、自分で自分の音を奏でやがれ。

衣食住を、つまり "生きること" をめんどくさがっていたら、ロックン・ロールは歌えない。少しずつ、ロックがきちんと歌えるようになるまで、もがいてみようか。




みんなは、むしゃくしゃした時、どうやって自分を救っていますか?
もし、そんな文章を書いたら、教えていただけたらうれしいです。



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