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眠れない夜に考える、鬱とスパダリの話

ついに、酒を飲む気力も湧かぬ。漫画を読む気力も湧かぬ。
喉が渇いたし、口が気持ち悪くて歯を磨きたい。

ベンゾジアゼピン系、短期間作用型の向精神薬は、精神科でもらった薬の中で唯一、効果を感じた薬だった。それを飲むと眠気が来て、寝逃げができたから。最近は、それでも眠れなくて、酒に弱いなりに精一杯の酒をがぶ飲みして薬を流し込んでいた。それでも眠れなくなると、酒を飲む気力も失せた。

ふと考えてみたのよ。鬱向けのスパダリってなんだろうなって。

スパダリってのはあれですな。スーパーダーリンですな。大金持ちの公爵家の御曹司で高身長逆三角形ムキムキイケメンで冷血と名高いけどなぜだかワタシにだけ甘々で溺愛してくるとかそういうてんこ盛りハッピーセットみたいなイケメンのことですな。

でも鬱のときに薔薇しょった白馬の王子とかは別に要らんやん?そもそも、歯磨きもシャワーもできずに、ベッドから出られないんだから。

君は美しい云々、君なしではいられない云々系のセリフは鉄板だが鬱には重荷だ。美しさは維持できないし、他人を支える余力もないから。

しんどいフリして本当は元気なんやろ?と言わないでくれたらそれだけでいい。

俺にはわかる、君のスマホの漫画アプリ群だけが今の君の支えだと...!いくらでも課金していい!金なら心配するな!

なんて言ってくれたら一億点満点だな。その人物の前で、罪悪感なくスマホに耽溺できたら、それだけで最高に居心地がいいかもしれない。

家事育児を夫に丸投げして布団にくるまっているとき、スマホを触っているの見られるのがどんなに気まずいことか。せめてもの罪滅ぼしに、唯一、現実逃避をさせてくれるクスリ、ならぬスクリーンを断腸の思いで閉じて、そっと足の合間に挟み、自分は目を閉じる以外何もできません、というパフォーマンスとしてじっと身動きを耐えているよ。そんなとき、

なにしてるの!鬱なんだから早く漫画を読みなさい!それが一番の薬でしょ!

なんて言ってくれたら最高だよねえ。

いや、そんなのが浅ましい夢物語だということはわかっている。私はただの、家事も育児も金稼ぎもすべてパートナーに丸投げしてただ横になっている、クソの価値もない穀潰しで、金を渡してもらってるだけ感謝すべきだと。おかげで内緒で漫画を買って、日々どうにか命を繋いでいる。そんな命を繋ぐのにどれほどの意味があるかはわからないが。

色んな意欲や気力が低下しているが、それでも稀に、食べたいものが浮かぶときがある。今でいうなら、オレンジジュースが飲みたい。そんなとき、スッとオレンジジュースを渡してくれるヤツがいたら、それはスパダリだ。この世のものとは思えぬ天使だ。

実際には、私には、自分一人の肩にのしかかる家事と育児と仕事と資格勉強のために疲労困憊している夫という天使がすでにいて、とてもじゃないが、オレンジジュースが飲みたいなんて言えるわけがない。自分で外に出て買いに行けばいいことだし、実際、自販機まで徒歩30秒だ。でもそれができない。ベッドに横たわって、ああオレンジジュースを飲みたい、と思いながらもうすぐ1週間が経つのだ。

情けないとかそんな感情も湧かない。早く誰か、この切腹の途中みたいなダラダラ続く苦しみを、スパッと首を切り落として終わらせてほしい。それしか望んでない。今の私のスパダリ、それは首切り役人だ。スパッと首切りダーリンだ。何が漫画の課金だ。殺してくれるなら、金なんかいらない。イケメンはもっといらない。この際、苦しまずに殺してくれ、なんて贅沢は言わない。こんな拷問をずっと受けるなら、最後の5分、10分苦しんだっていい。1時間とか苦痛が続くのはさすがに嫌だな。でも、ガソリンかぶって焼身とか、コンクリ抱いて溺死とか、苦しくてもさすがに20分以内ぐらいでしょ?そのぐらいなら耐えられるだろうか?

自分の愛が、息子への愛も夫への愛も、死の希求を前にして簡単に屈していくのを、何度も何度も見てきた。息子の成長をそばで見て、たくさんの楽しい時間を共有するとか、鬱転する前の私にとって最も重要であったことは、容易に意味を失ってしまう。日々ジリジリと拷問が続くことは、何よりも辛い。私は、愛よりも、自分の痛みからの解放を優先する、浅薄な人間なのだと毎度突きつけられること、それが鬱転だ。私には強さもカッコよさもない。物語の主人公にも、名脇役にもなれそうにない。いや、そもそも鬱転自体が、物語に回収できないから孤独なのだ。そこに苦しんでいる理由なんてないのだから。理由なく、内的な問題として起こる苦しみに、物語はつけようがなくて、殺して解決する悪役もいなければ、ヒーローも首切り役人もいない。ただ困惑し、迷惑を被る周囲の人々と、一人でじっと苦痛に耐える、意味のない時間があるだけだ。

だいたい物語は、健常者がすぎる。過酷な幼少期でトラウマを負ったヤンデレ公子さえ、私に言わせりゃ立派な健常者だ。だってアンタは、理由があって病んでいて、その理由が解決されたら、フラットな自分を維持できるんだろ?そんなのが病んでると思うな!それは普通の不幸な人だ!こちとら、ハッピーエンドの後も、何の波乱がなくても、アップダウンがプリセットされてんだぞ、脳に!

これはもちろん八つ当たりだ。トラウマを負ったヤンデレ公子にも、彼固有の苦しみがあって、それは他の苦しみと比較するようなものじゃないことはわかっている。

物語の中で長い時間が経つにつれ、私の心は登場人物たちから遠ざかってしまう。うわあ、健常やなあ、こんなにずっと、自分でいられるなんて、自分が自分でいられることを疑いもせずに生きていけるなんて、と思ってしまうから。

主人公たちが、すったもんだのすれ違いの末に、末永く結ばれる安心の結末にカタルシスを感じながらも、敵が取り除かれさえすれば確かな愛で明るい未来がある、と信じている彼らをどうしても遠く感じる。

だいたい健常者の物語は、苦痛というものが、大事な人や物を失うとか、フラれるとか、勝負に負けるとか、なんかそういう出来事を起点として起こることを当たり前と思っている。

でも違うんだな、そうじゃないタイプの苦痛もある。ただただ、生きる気力が、ヒビの入ったガラスコップから水が漏れるように枯渇して、ただ「無い」ことが原因となる苦痛が。

実を言うと私は、芥川龍之介の妻が、夫の自殺後、よかったですね、と声をかけたことに強い羨望を抱いているのだ。いいなあ、芥川は、奥さんにそんなふうに思ってもらえて。少なくともそこに、死んだ方がマシなくらいの苦しみがあったことを、認知してもらえて。

私の苦痛は、誰かの目に見えているだろうか?最も近くにいる夫にさえ、見えているか自信がない。長く一緒に暮らしていた実両親にも見えていない。息子はまだ幼すぎて見えていないし、見えてなくて良かったと思う。主治医にもきっと見えていない。精神科の診察室に座っていると、病状を説明する自分が、まるで大根役者のように滑稽に思われて、どうも雄弁に語る気になれないのだ。一体私は、なんのために苦痛を語ろうとしてるんだろう?義務を放棄していることを免罪してもらうためか?しかし医者は、家族ではないから、罪も迷惑も知ったこっちゃないはずだ。同情してもらっても何の薬にもならないので、同情のためでもない。より強い薬をもらうためか?障害者年金をもらうためか?それじゃ、審査員とパフォーマーだ。審査員の前で一世一代の大芝居を打つなんて、それは躁転してるときにやるものだ。鬱転してるときには御免被りたい。

誰とも共有されえない苦痛が、世界と私を隔てる、分厚い壁になっていて、なんだかしんと静まり返った夜の道をひとりで歩いているみたいだ。

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