【短文】『悠久の部屋』

わたしは、幼い頃から、幸せというものを知らずに生きてきました。
だからといって、特別不幸だったのかと言われれば、そうではありません。
少なくとも、自分が不幸だとか、可哀想だとか、そういう感情に悩まされたことなど一度も無いのです。


私は、生まれてきた頃から母と二人暮らしで、憶えている限りでは、父親と呼べる人はいませんでした。
私と母が住んでいるのは、海沿いの小さな家で、母の話によれば、周辺に民家や建物など、人の気配は無いようです。
私は母の言い付けで、一度も家の外へ出たことがありませんでした。
また、外から人が訪ねて来ることなどもなかったので、そうなると私には母の言葉を信じる他ありませんでした。

四方を白い壁に囲まれたこの部屋が、私の世界の全てでした。
そして、その部屋の中央にある、海の見える小さな窓と、本棚の絵本や小説―――それが、私の知る外の世界の全てだったのです。

小さな世界で育ってきた私は、何も知りませんでした。
窓の外に見える海の向こうには、たくさんの人、いくつもの街があって、そこには自分の知らない世界が広がっている………想像するどころか、そんな発想すらなかったほど、無知でした。


今日、16歳の誕生日の朝。母は姿を消しました。
代わりに手紙が残されていました。

『あなたがこの日を迎えるときがきたら、話そうと決めていたことがあります。』

酷く繊細な文字で綴られたそれは、間違いなく母のものでした。

『私はあなたの本当のお母さんではありません。』

その言葉に、私は少なからず驚かされました。

でも、私を今まで育ててくれたのは、あなたでしょう?
私はあなたを今日まで、本当の母親だと思って生きてきました。
このようにして生きてきた私にとって、産みの親だとか本物の母だとか、もはやどうでもいいことなのです。
そう、すべて、些細な問題です。
今更、私は、私の生き方を変えていくことなどできはしないのです。

そう手紙の中の母に問いかけるように、同時に自分自身に言い聞かせるようにして、私は続きを読み進めました。

『あなたのお父さんはね、外の庭に埋められてるの。
あなたの、本当の母親にね。私も手伝ったわ。
秘密って、抱えてると、どんどん重たくなるのよ。』


――――ここに初めて連れらてて来たとき、私はまだ16だった。
あなたのお父さんは、ここを自分の家のように思いなさいと言ってくれたけど、当時の私はとにかく混乱していて、恐ろしくて、まともではいられなかった。
でも、この家の部屋は、あまりにも真っ白で。全く知らない場所にいる私の頭の中や、これからどうなってしまうのかわからない、すべてが真っ白。
真っ白な部屋の中に、真っ白になった私。何も変わらない。この部屋と、自分の身体の境目がどんどん曖昧になってしまう。

ほんの一瞬、私はバラバラに壊れて、そして、また新しく組み立てられた。

もう恐怖心はなかった。自分が自分で無くなる不安感もない。
私にはあの人がいた。


けれど……あの人には、“私”が何人もいた。
この家に連れてこられて、閉じ込められてる女の子は、私だけじゃなかったから。
そのことを知ってはじめに思ったのが、私一人じゃないんだという安心感と、少女達への同情心。
最初はね。……でも、可笑しな話ね。ここで生活するようになって、私は、私を閉じ込めたあの人を、他の“私”に取られるのがたまらなく嫌だと、次第に思うようになった。
だから、もう誰にも取られないように、あの人を殺したの。
でも、それでも足りなくて、他の女達も殺した。
それから、あなたの母親も。

でも、出来なかった。
あなたの母親は、血塗れの私を抱きしめて、「もういいのよ」と言ってくれた。
もういいのよ……。その言葉を聞いて、私は、どうしようもなく涙が溢れて、震えて、迷子になった子どもみたいに泣いた。


私達は何日かかけて庭に大きな穴を掘って、そこにあの人と、他の女達を埋めた。
冬空の下、息を切らせて、汗でびっしょりになりながら。
これはとても悪いことをしているのだ――――私も、彼女も、それをわかって居ながら、けれどそうすることしかできなくて………気力も体力も磨り減って、ただどうしようもない疲労、疲弊に………どうしようもなく………。

すべてを終えた日の夜、この数日間そうしていたように二人身を寄せ合って、私は小さな子どものように彼女の胸に顔を埋めながら眠りに就いたわ。
まだ起きてる? 彼女の問いかけに、私はどうしてか聞こえないふりをした。彼女は続けた。
子どもが出来たみたいなの。あの人の………。
ぎゅうっと握っていた手に力がこもって、それは多分彼女にも伝わっていた。不思議なもので、あの人への未練はまったく無いのに………何故か心がざわめいていた。

閉じた世界で、彼女は私にとっての世界そのものになっていた。
今の私には、彼女がすべてだった。
そんな彼女さえも、もし私の前からいなくなってしまうのなら………私は――――


それから月日は経ち、彼女は無事、元気な女の子を産んだ。
彼女は………あなたを産んですぐ、なくなった。

また私は一人ぼっちになった。
だから、今度はあなたが私のすべてになった。
そうするしかなかった。
あなたを大事に大事に育てて、彼女のように優しく、美しく、澄み切った空のように純粋な心をもった女の子になってほしいと――――それだけを願って。
私はそれだけの為に生きた。

あなたは、とても素敵な女の子に育ったわ。
外の世界から隔絶された場所で、何も知らない、純粋な心を持った……優しくて……美しく……可愛い可愛い娘に……。
もう16年よ。あの頃の、私と同じ。
それに気付いて、ふと、ね。思い出したの。私の何もかもが作り変えられた瞬間を。
真っ白に塗り潰されて、ドロドロに溶かされて、舐めるように触れた手で頭の中まで掻き回すの。
私じゃなくなる。
それが、怖くなくなるの……。わかる?何も感じなくなることが、一番恐ろしいってこと。
思い出してしまった。

嘘。嘘だ。
私は幸福などではない。すべて失った。
愛した人。そう信じ込まされた。嘘をついた人。
好きな人……今でも、忘れられない人。彼女のことが……。
どうして……どうして……みんな私を置いていくの?
私は心が人一倍弱かった……だから……失うことが、心底恐ろしかった。
考えるだけでも耐えれない。孤独に。
誰かに、心を、裏切られることが。
例えそれが自分の想像の、ただの思い込みでさえ……許し難い、事実になった。


ごめんなさい。本当に、ごめんなさい………私は許されざる罪を犯した。
もうここには戻りません。さようなら。
お父さん、お母さんを、あなたから奪ったこと。もう取り返しがつかないのはわかってるけど………せめて、私の命で。
つぐなわ せて
ください


さよなら


ごめんなさい


あなただけは守りきることができて、ほんとうによかった。



―――――これが、母からの最後のメッセージだった。

わたしはそっと手紙を閉じると、ゆっくりと背もたれに沈むように天井を仰ぎ見ながら、静かに目を瞑った。
だらりと両腕を垂らし、体全体から力を抜く。
白く、白く。どこまでも広がる真っ白な空間を頭の中に描き、そこに、ちゃぷん、と小さな音をたてて、わたしは角砂糖のように溶け出した。

………目を開けると、そこには変わらず見慣れた白い天井があった。
それを確認すると、わたしは軽く背筋を伸ばすようにして座り直し、もう一度手紙を手に取り、家を出た。


外ってこんなにも眩しいものなんだ。
風も思ってたよりも強い。
一歩外に出てしまえば、今まで気付かなかった濃い潮の匂いで満たされた。
窓越しでしか知らなかった、初めて目にする海の広さに思わず足がすくんだ。
初めて身体が感じ取った“危険信号”に戸惑いつつも、わたしはゆっくり足を進めた。
怖い、不安、危機感……どれも知らないものばかりだった。
まだほんの少し外に出ただけなのに。
これからもっと広い世界へ、たったひとり、自分の足で踏み出さなければならないのに。

白い、白い。散り散りになった花びらのようなそれは、海風にさらわれて、もう誰の手にも追えない。
あとはどこまでも深い、深い、海の底へ。
わたしは伸ばしていた両手をゆっくりと降ろして、その場をあとにした。


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