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二浪が決まって、集中するためにはどうしたらいいかを考えてギターを始めた話

今から18年前、2006年3月のある日、自宅二階の六畳間の和室で、僕は電話の子機を握り締めダイヤルのボタンを押した。電話がかかると、次に押すのは受験番号だ。ドキドキしてなかなか受験番号を押せない。なにせ現役で大学受験に落ち、1年間浪人して臨む合格発表。それでも勇気を出してボタンを押すと、機械の音声が流れた。

「残念ながら、不合格です。繰り返します。残念ながら、不合格です。」

繰り返さなくていい…。1年間まるまる、大学に合格するためだけの時間を過ごして不合格だった

浪人期間という、受験勉強のための1年間を過ごして不合格だったことは、本当に絶望的でした。何のための1年だったのかと後悔しましたが、高校では2年間不登校だったし、自分には集中力がないことに思い当たりました。勉強に集中して取り組み続けることができていないことに向き合わないと、前に進めないと思いました。


集中力をつけるためにしたこと

集中力をつけるには、なにかに夢中になればいいと考えました。勉強にも面白い部分はありますが、夢中になるためにはある程度知識を蓄えたり、興味を持っていることに取り組む必要があります。そこで、集中力をつけるために、夢中になれることに全力で取り組み、その集中力を勉強に活かそう。そう考えて行動を起こしました。
始めたのはギター、ジャグリング、スケボーの3つです。浪人中とは思えないセレクションです。それぞれ順番に取り組んだのですが、それぞれに始めた経緯は違います。


ギターをはじめる

まずギター。高校時代、ひきこもりの僕はよくラジオを聴いていました。そのラジオがきっかけで出会ったのが、THE BLUE HEARTSとRADWIMPSです。

THE BLUE HEARTSは「終わらない歌」をよく聞いていましたし、RADWIMPSは「25個目の染色体」をよく聞いていました。RADWIMPSのボーカルの野田さんは、僕が高校1年の頃、高校3年生で同じ高校に通っていました。野田さんに憧れもあり、自分が音楽に救われたこともあって、音楽で表現できるようになりたい、曲を作りたいと思ったので、ギターを始めました。

ギターを始めようと思って最初にしたのは、もちろんギターを買うことです。当時、渋谷にヤマハのギターショップがあって、今はなくなってしまいましたが、そこでギターのリペアのおじさんに相談しました。どんなギターが良いかを聞きながら選んだのが、ヤマハのLL 6というアコースティックギターでした。おじさんがその個体の音を褒めていたので決めました。これが初めてのギターです。

このギターを買うためのお金は、幼い頃から毎年貯金していたお年玉から出しました。

ギターを買ったときに、一緒にギターの弾き方が書いてある本も勧められました。表紙が黄緑と黒の教本で、たしか「フォークギター入門」という名前でした。それを使って練習を始めました。基礎練習はリペアのおじさんが教えてくれて、クロマチック練習という運指練習をひたすら繰り返しました。これは、1フレットずつ順に押さえていくという地味な練習です。

アルペジオの練習もしました。ピックを使って6弦、5弦、6弦、4弦、6弦、3弦、6弦、2弦、6弦、1弦と順に弾いていきます。これを正確にジャンプしながら弾くのが難しくて、地道に練習しました。

いくつかの曲も教本に載っていて、その中で最初に練習したのがレミオロメンの「粉雪」でした。この曲のイントロ部分を練習しました。GとEm7というコードを使って弾けるシンプルなフレーズで、好きな曲だったので楽しかったです。

イントロが弾けるようになったら、次はAメロに進みました。「粉雪舞う季節はいつもすれ違い」で始まるのがAメロです。しかし、Bメロに進むとバレーコードという押さえ方が難しいコードが出てきて、これには苦戦しました。人差し指で5〜6本の弦全部を押さえる必要があり、なかなかうまくいきませんでした。それでも毎日コツコツ練習して、何とかクリアしました。

そしてついにサビに到達!コードも弾けそう、いよいよと臨んだサビ歌。「こふぁーー…」高すぎて声が出ず。ここで粉雪の練習は一旦中断して笑、他の曲を練習することになりました。人前で弾くことはありませんでしたが、家族が漏れ聞く音に「うまくなったね」と言ってくれたのを覚えています。


ジャグリングをはじめる

次にジャグリングです。ジャグリングは明確に何かこれがきっかけというのは記憶にないんですけど、確かYouTubeか何かでジャグリングをやっている映像を見て、かっこいいなぁと思いました。

こんなことができたらいいなぁと思って、ジャグリングを教えてもらえるところを探したら、東大のサークルに来ていいですよと言われたので、その練習に参加したのが始まりです。

練習は東大駒場キャンパスの近くの体育館でやっていて、大学生から20代の社会人までが来ていました。基本は東大生だったようですが、外部の人も受け入れていました。僕は場所が遠くて結局2回しか行かなかったのですが、そこでジャグリングのボールを購入し、今でもそのボールを持っています。

ジャグリングの練習は、東大のサークルで東大生の部長さんが教えてくれたものをやっていきました。教え方が丁寧でわかりやすく、割とすぐにできるようになりました。まずは基礎とバリエーションを徹底的に練習。ジャグリングに使うボールは4つ買いましたが、練習はまず3つのボールを使って行いました。

最初に、3つのボールをクロスするように投げる練習をしました。例えば、左手に1つ、右手に2つ持っている状態から始めます。右手のボール1つを左の方へ投げると、ボールが一つ宙に浮きます。その間に左手のボールを右手に向かって投げて、さっきの浮いていたボールをキャッチ。

次に、浮いているボールが右手に来る前に、右手のボールを左手に向かって投げる。この動きを繰り返して、無限マークのようにボールがぐるぐる回すのがジャグリングの基本です。

この基本的な動きには、内側にボールを投げるパターンや外側からボールを投げるパターンなど、いくつかのバリエーションがあります。

練習は、1回できた、2回連続でできたといった小さな成功が楽しく感じました。最初はうまくいかなくても、練習を重ねることでできるようになっていく実感があります。これは、精神的に非常に良い影響を与えてくれました。

勉強も進んでいる実感はあるものの、ジャグリングやギター、スケボーのように目に見えて成長を感じることが難しいと感じました。

知識を積み上げていっても、点数に結びつくまでに時間がかかるため、進んでいる実感が湧きにくかったです。その点、ジャグリングやギターなどは練習すればすぐにできるようになるので、成長を実感しやすく、とても楽しかったです。

そのため、楽しく感じるので練習も続き、どんどん上達していきました。1週間もすれば、3つのボールを使ったジャグリングはできるようになりました。その後は、YouTubeでジャグリングのやり方を見て、それを真似して練習することを繰り返していました。

今でも使っている当時のジャグリングボール▼


スケボーをはじめる

最後にスケボーです。スケボーは映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を見て、主人公のマーティ・マクフライが颯爽とスケボーに乗っている姿がすごくかっこよくて憧れていました。

僕は浪人の2度目の夏に何を血迷ったのか自動車運転免許の合宿に行くんですけど、そこでスケボー青年に出会いました。彼にスケボーを教わって、これはかっこいい、やっぱり楽しいなということで、夏の終わり、免許合宿後からスケボーを始めました。

スケボーを始めるために、友人と一緒にパーツを買いに行きました。スケボーは1つまとめて買うこともできますが、パーツごとに組み合わせることもできます。主なパーツは、ボード、トラック(タイヤの土台)、ウィール(タイヤ)、ベアリング(タイヤの中に入っている回転部分)です。

最初に買うパーツの中ではボードが最も高価で、ウィールとトラックもそこそこ高価です。ボードとウィールは消耗品で、特にボードはすぐに削れていきます。

友人から少し削れた中古のボードを譲り受け、それに新しいパーツを取り付けて、始めました。そのボードは「ガール」というブランドのもので、女の子の絵が描かれています。全部新品のパーツで揃えると、約20,000円かかりますが、完成品のボードなら10,000円ちょっとで買えます。僕はボードをもらえたので、組み上げで10,000円ちょっとで済みました。

その後、削れてきたら自分で新しいボードを買いました。ロドニー・ミューレンというスケボーの達人が使っていた「オールモスト」というブランドのボードです。ミューレンの技を見て憧れていました。

スケボーにはショートボードやペニーボード、ロングボードなどいろいろな種類があります。僕がやっていたのは、いわゆるトリック用のスケボーです。オリンピックで使われるようなものです。

スケボーは他の趣味と比べて体力を使い、怪我のリスクも高いので、練習時間には限度があります。練習場所も限られており、滑らかな硬い地面でないとできません。

そのため、練習時間は1回1時間から1時間半程度でした。朝と夕方に分けて練習することもありました。スケボーを始めてから、道を歩いていて滑らかで硬い場所を見つけると、スケボーしやすそうだな、と思うようになりました。今でも思います笑

スケボーは勇気が必要です。普通に乗るだけでも転ぶことがあり、トリックをするとジャンプして着地するので、失敗すると大怪我をすることもあります。ですが、硬い地面で練習しないとスケボーが走らないので、柔らかい場所では練習できません。

なので地面のアスファルトに腰や膝を打って怪我をすることもありました。しかし、かっこよさを求めて防具はつけずに練習を続けました。(その発想が逆にダサい!)

練習の始めは、ボードに飛び乗る、手に持って歩き出しながら乗る、など基本的な動きから始めました。次にウィリー(前輪を上げて後輪だけで走る)を練習し、その後ジャンプ(オーリー)の練習をしました。

スケボーはなかなか上達せず、怖さもありましたが、浪人期間中にジャンプ(オーリー)ができるようになりました。まだまだ技術のレベルを上げる余地があります。

高いオーリーやスピードを上げてのオーリーなど、追求することがたくさんあります。ですが、スケボーも、他の2つと同様、上達の喜びを味わわせてくれました。


憂鬱をふせいだ二浪時代の過ごし方

特にのめり込んでやったのは、ギターとスケボーです。モヤモヤしてはギターを弾いて歌っていたし、ストレスが溜まったら家の前の駐車場でスケボーを何時間もやっていました。受験が近づくにつれて、それらの時間は減っていきましたが、生活に溶け込んでいたので途絶えず続けていました。

ずっと1人で過ごしていて、勉強してはギターを弾いて、勉強してはスケボーして、勉強してはジャグリングして、とやっていたので、特に誰かに何か言われる、とかはなかったですね。

でも、勉強以外に夢中になれるものがあるというサイクルが、より勉強の時間を有意義にしてくれたというか、苦しくならずに浪人生活を送り続けられた理由かなと思っています。

すべて、今でもやっている活動なのですが、特に途切れずずっと続けているのはギターです。音楽は、バンドでフジロックフェスのステージに立つという目標を掲げて、一生懸命向き合っていました。

最終的にその目標には “まだ” たどり着いていませんが、あきらめた訳ではありません。何かしらの形で大きなステージまでいきたいと思っています。もしかしたら、アーティストを売る裏方として。今は世界を目指すアーティストのサポートをしていたりします。


「結果がすべて」ではない

1年間浪人して受験勉強だけに没頭して落ちた後、2年目の浪人が決まってこれらの活動を始めるのは謎な行動ですが、両親が許して見守ってくれたおかげで、結果的に第一志望の早稲田大学文学部に合格することができました。

自分の集中力のなさを見つめ直し、集中力を鍛えてから受験に臨む、というプロセスにこだわったからこそ、良い結果につながったと思います。

「結果がすべて」という言葉がありますが、僕はそれに完全には同意していません。スポーツやビジネスでは、外から見ると結果が全てのように見えるかもしれません。

しかし、人生においては、プロセスも結果と同じくらい大切だと考えています。プロセスを大切にしていれば、運やタイミングなどの要因が噛み合って、いつかは望む結果が得られるはずです。たとえ望む結果が得られなくても、プロセスが充実していれば、それだけで良い人生だと言えます。

仏教の言葉に「因果一如」というものがあります。プロセスが結果であり、結果がプロセスでもあるという意味です。結果とプロセスは人工的に区切られているだけで、プロセスそのものが立派な結果でもあるのです。

この考え方は、1年間浪人して不合格になったときに芽生えました。合格という結果のためだけに生きて、結果が得られなかった時、ここで人生が終わったら後悔すると思ったのです。

でも同時に、合格したとしても後悔すると思いました。結果を得ても、プロセスが苦しければ幸せではないからです。この生き方は間違っていると思い至りました。

そこで、プロセスを充実させながら、未来に向かって生きていくことが人生の指針になりました。勉強に集中するために始めたギター、ジャグリング、スケボーは、今でも続けています。これらは僕の人生を楽しませ、豊かにしてくれるものであり、集中力を鍛えるきっかけにもなりました。


合格発表の日、僕はフジファブリックを聴いていた、母は泣いていた

二浪が決まったあの日から1年。その日は、朝から何にも集中することができませんでした。日課の犬の散歩をしたりして気を紛らわしていたと思います。

1年前と同じように、2階の6畳間の部屋で子機のダイヤルを押しました。案内を聞いて、受験番号を押します。機械の音声が流れました。

残念ながら不合格です。繰り返します。残念ながら不合格です」

…しばらく放心状態でした。これからのことを考えられませんでしたし、頭が真っ白になりました。

しかし、僕が受験した早稲田大学の学部はもう1つありました。この不合格の電話は1つ目の文化構想学部の発表です。僕の本命は文学部。とは言え、文化構想学部も文学部も似た領域なので、文化構想学部が不合格だったということは文学部の方も望み薄なのではないかと思っていました。文学部の発表は1週間後。

文学部の発表の日、同じようにダイヤルを押しました。案内、受験番号を入力。機械の音声が流れます。

おめでとうございます。合格です。繰り返します。おめでとうございます。合格です」

すぐに1階へ降りて母に報告しました。母は泣いていました。しばらくすると、妹が帰ってきて妹にも伝えました。また母は泣きました。次に姉が帰ってきました。伝えました。みたび、母は泣きました。最後に父が帰ってきて父に伝えました。やはり、母は泣いていました

その頃の僕は、フジファブリックの「フジファブリック」というアルバムを繰り返し聴いていました。

もしも 過ぎ去りしあなたに
全て 伝えられるのならば
それは 叶えられないとしても
心の中 準備をしていた

「赤黄色の金木犀」フジファブリック

こうして、僕の2浪生活は終わりを迎えました。

最後に、母に当時の気持ちを聞いたLINEの返事を載せておきます。

お母さん、ありがとう。好きなもの、たくさん見つけられたよ。そんな自分が大好きになった。ありがとう。

埋もれた価値を、未来に残す道のり、精一杯がんばります! ありがとうございます。