想いを描くということ
最近、立て続けにひとから指摘されて気づいたのが、私にはポジティブなイメージが足りないということ。
子どもは何人ほしい?
性別は?
順番は?
子どもとどんなことがしたい?
どんな家族になっていきたい?
…答えようと口を開くけれど、言葉が続かない。
一方で、
子どもを健やかに生み育てることができるだろうか
産後鬱や育児ノイローゼは大丈夫だろうか
夫は思うような協力をしてくれるだろうか
そんな不安はきりがないほど挙げることができてしまう。
ふるわない体調とままならない出来事が重なって爆発しそうなとき、「これで子どもがいたら一体どうなってしまうんだろう」と暗澹たる気持ちになる。
いま苛まれている不安や焦りは、
これだけの苦痛や出費に耐えても成果が得られないかもしれない
という類のものであって、
子どもと歩む人生にはならないかもしれない
というのとは異なるような気さえする。
情報収集に励み、良いとされることを実践し、痛みに耐え、結果に一喜一憂しながら次の手を考える。
それらは、子どもと歩む人生となるための手段であるはずなのに、それ自体が目的化しているように思える。
ひたすらに目の前の課題をクリアしていく、ゲーム性、とでもいうのだろうか。
冒頭のイメージの話。
私は体内記憶などを眉唾物だと思っている質だが、あえて、子どもの立場だったらと考えてみる。
不安でいっぱいいっぱいになっているひとを母親に選ぶのは、子どもだって不安だろう。
「いや、このひと大丈夫?きびしくない?」。
それに、もしもとてつもなく優しい子だったら、
「自分が選ぶことで苦しい思いをさせたくない」と考えるかもしれない。
「想い」はとても大きなエネルギーだという。
ポジティブなイメージを描き強く望むことで現実にしていくことができるし、
ネガティブな思考に囚われているとそこから身動きできなくなる。
それは、周りが変わるということではなく、想うことで自分が引き寄せている(自ら寄せにいっている)のだと。
何時間も泣き喚く子、睡眠不足で回らない思考、鉛のような体と手付かずの家事、理解も協力もない夫…
そんな未来に自ら寄せにいっている?
絶対に嫌だ!!!(私と子どものハモり絶叫)
いまの私には、医療行為よりも心の整頓が必要なのかもしれない。
ちょうど今周期はお休みになりそうなので(そうなったら治療を開始してから初めてだ!)、少し違うアプローチができたらいいなと思う。
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