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018『雲取山を歩く2』(完結)

文:守屋佑一

僕はキリスト教徒ではない。けれどもクリスマスが好きだ。大好きだ。きらびやかに光る町。こころなしか楽しそうな人たち。購買欲を煽るおもちゃ屋の雰囲気。この時期にしか流れない音楽。
そして、真夜中に目を覚まし、枕元をまさぐると置いてある事前に頼んでおいたものと一致する希望通りのプレゼント。
成長しても友達とクリスマスパーティーと称して遊んだり飲み会をしたり。
しかも1週間もするとこれまた楽しみなお正月。ナイスコンボだ。

だけれど、社会人になったあたりからそんなに楽しみでもなくなってきた。キリスト教のお祭りも、適齢のパーリィーピーポーたちにかかれば交際している相手と楽しく2人で過ごす日みたいだ。こんな日に男だけで遊ぶのはだんだんと世間の目が痛くなってくるような気がしてきていつしか、普通に過ごすようになった。まぁ平日であれば実際別にただの日常だし。
でも2012年のクリスマスイブは日曜。ああ、だからか。どこにいてもクリスマスの雰囲気を感じてしまうならばいっそ山の上で過ごそうと思って雪山に一泊登山したのは。でも、とてもいい経験だし、また行きたい。

2012年12月24日(日)
寒い寒い雲取山の山小屋で目を覚ます。確か6時前くらいだっただろうか。
自然と同部屋の人たちも起きてくる。昨夜はわいわいとやった中だが、朝はなんだがそっけない気がする。極寒。いそいそと食堂へ。そして、朝食。そのあとは再び山頂へ向かう。ご来光を鑑賞するためだ。昨夜は星も夜景も見えない曇りだった天気も、キリストの誕生日を祝うように見事に晴れ。
ちょうど、山頂についたころ、太陽があがり始め、まさにこれ以上ないくらいのご来光であった。
これが1日早ければ夜景も見れたろうに、という想いもあったが、それを吹っ飛ばすくらい綺麗なご来光だった。


昨日見れなかった富士山も良く見える。日本のシンボル、富士山。僕たち小田原市民は普段から見慣れ、親しみのある富士山。


しかし、なにか違和感がある。富士山が「かっこいい」


いや、普段がかっこわるいわけでは決してない。ただ、普段の富士山はかっこいいというより、抜群のバランスで均整のとれたボディをぼくらに披露している。しかし、雲取山からみる富士山は少し、いびつな形でありながらそれがまた味があり、とてもかっこいいのだ。よくよく考えるとこのとき見ている富士山は小田原から見る逆側。
それでいつもと違う見え方をしているのだ。山頂を後にし、下山を開始した。下山中、視界にはずっと、このいつもと違う富士山があった。ソロでの登山だが、なんだか富士山が古くからの友人と一緒にいるような気がしてとても心強かった。そこが普段いる場所じゃなくても、普段から見ているものがあるだけでこんなに心の持ちようが違うなんて。
睡眠も十分。下り坂。信頼できる友との下山。
好条件が揃い、登りの半分以下の時間で下山。まだ朝といっても差し支えない時間。
温泉に入って帰ろうかとも考えたが、なんだか故郷が懐かしく、すぐに帰りたくなった。寂しいわけじゃないけれど、たまに僕は大好きな旅の最中にこういうメンタルになってしまう。みかん収穫の繁忙期。まだ残払いが終わってない。帰ってみかんを収穫でもしようか。

その後、町田で軽食を食べ家路についた僕は本当に畑に行って仕事をした。登山と仕事。とてもよいクリスマスじゃないか。世間のカップルたちよ。クリスマスとは、こういうものだ。そんな負け惜しみを思いながらも、この年のクリスマスは本当に心に残る日となった。登山はいい。心が洗われ、素直になれる。
あれから数年たったけど、一向に世間のパーリィーピーポーのようなクリスマスはってこない。それでもやっぱりクリスマスは楽しくて大好きだ。

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