【小説】湯島地下

 湯島が学問の聖地であると知ったのはずっと後のこと。

 ある年の師走深夜に手を引かれ、湯島の坂を上ったり下ったりを繰り返した。まばらな街灯は何やら低く古臭く、広がる光もごく小さい。やたらと暗く、黒い夜だった。歩くほどに寒さが身を刻んでゆく。パンプスと薄手タイツの足元はもう感覚が無かった。しんしんと冷え込むアスファルトを鋭く叩いたヒールの音が崩れ始めた。
 通り過ぎた幾つかの建物はおそらくラブホテルだった。ネオンサインではない、英字の列をさっと照らしただけのそれらエントランスは私にはマンションにしか見えなかったが、彼は空室を捜し確めていたはずだ。
 とうとう足を挫いてふらつき、彼の腕にもたれかかった。腰から引き寄せられ、抱き締められた。思わず震えてしがみつく。辺りにひと気はなく、またこれほどの闇なら構わないと思った。 二人の吐く息は白く濃かった。

「…ごめん。とりあえずそこに入ろう」

 彼の目線の先に、打ちっぱなしのコンクリートの穴が四角い口を開けていた。地下へと向かう急な階段が真っ直ぐ続いているのが見えた。

 二人が並んで通るには狭い幅の階段は、両側に手摺のしつらえがあった。枯色に胡麻が現れた竹製だった。しかし手摺に頼らず、一段先を行く彼と危ぶみながらも手を繋いだまま降りていく。行き止りに見えた底に着き、右の空間を向いた。藍と茜の暖簾がそれぞれかかっていた。

「えっ……」

 麻の無地ではあるものの、まるで銭湯の入口を思わせた。

「しばらく別になる。人がいるからお任せして。また後でね」

 絡んだ指に軽く力が込められ、それからゆっくりとほどけた。心細くて彼を見ると、穏やかな目を返され、促される。心を決め、暖簾をくぐった。一歩先の引き戸を開けた。

 腰ほどの高さの行燈以外光がない。コンクリートの土間に置かれていた。土間を含めても広くはないようで、こじんまりとしている。天井も低めで、地下という感じがしたが、一軒家に訪れたような雰囲気もあった。

「お待ちしておりました」

 三つ指をついた作務衣姿の女性がいた。一瞬おののく。女性が白い顔を上げた。広い額と素直な弧を描く眉が美しい。タイトなひっつめ髪が似合っている。すっきりとした顔立ちで化粧を感じさせず若々しいが、四十代と見た。はりを失う途中にありながらなおきめ細かい清浄な肌に頼りがいを感じた。

「こんばんは。あの、初めてで」
「かしこまりました。どうぞお上がり下さい。お靴はそのままで結構です」

 節のあるくすんだ白木の式台に続くホールは畳で、白、茶、ブルーで文様を凝らした緞通が敷かれていた。凍えて固まった足からぎこちなくパンプスを外す。緞通に足を下ろすと、厚さとあたたかさに沈む感覚にほっとした。

「お寒うございましたね。ご案内いたします」

 右に曲がり、フットライトだけが灯された暗く細い廊下を進んだ。真四角の緞通が並び続いて、飛び石のようだった。
 左手に一つ、二つ、三つ目の襖が開けられた。

「お入りくださいませ」

 やはり照明は落とし気味であったが、畳敷きの部屋の空間を仰々しい黒のリクライニングチェアが占めていた。側には、フットバスがあった。

「…もしかしてネイルやフットケアのサロンですか?」
「はい。こちらのお部屋では、主に足のマッサージをさせていただきます。あいにく、ネイル等その他のお取り扱いはございませんが」
「そうですか。大丈夫です」
「コートとバッグをお預かりいたします」

 コートが衣桁に掛けられた。また、鍵付きのキャビネットがあった。女性はバッグをしまい、籠を取り出した。

「こちらにお召しかえ下さいませ。私はマッサージの準備をして参りますので、一旦お部屋を失礼しますね。貴重品には鍵をおかけ下さい」

 それからかちりとフットバスのスイッチを入れて、立ち去った。
 籠にはバスローブではなく、縞の浴衣と茶羽織が入っていた。温泉旅館のそれに見えた。着替えると、浴衣の丈は短く膝下までしかなかった。足のマッサージをするなら適当といえる。部屋は十分に暖かかったが羽織にも袖を通した。
 荷物を整理して鍵をかけた。辺りをうかがいながら女性を待つ。当たり前だが窓はない。壁は珪藻土のようだ。フットバスからぽこぽこと音がし始めた。

 「まず消毒をいたします。少し冷たく感じると存じます。沁みるところがあればおっしゃって下さい」

 フットバスから上げた片足を厚手のタオルで包みながら、女性は言った。それから、足全体にアルコールをスプレーした。黒色の作務衣がエステシャンらしいユニフォームに見えてくる。所作も言葉もネイルサロンで馴染みのあるものだった。並べられた、エジプトの女神が刻印された化粧品にも見覚えがあった。

「フットスクラブをおかけしてから、膝下のマッサージに入ります」

 ねっとりとした中にスクラブ入りのペーストが、足指の間にも塗り伸ばされていく。

「くすぐったくありませんか?」
「少し。でも大丈夫です」
「ペディキュアがお美しくていらっしゃいます。スクラブで傷をつけないよう、注意いたしますね」

 次のマッサージでは、オイルは使われなかった。女性は手のひらにジェルを取ると、両手で軽く擦り合わせ、温めてから足に塗り付けた。押し上げられ、圧迫から解放されるが繰り返され、足の感覚が戻っていった。香りも心地良かった。精油には詳しいが、何が配合されているか分かりにくく、かつメゾン特有の香調が感じられれるものは出来がよいと思う。まさにそれだった。

「ブーツはお召しになりませんか?」
「はい。ムレや暑さが不快で。今夜はさすがに冷えましたが」
「さようでしたか。でももう大丈夫ですよ」

 蒸しタオルを数回取り替えなから使い、足は爪先を折り返し爪と肉のすき間までが丁寧に拭き上げられた。

「お疲れ様でした。お連れ様がお待ちです。ご案内いたします」
「あ…はい」

 正直彼を忘れていた。同様のサービスを受けていたのだろうか。あまりしたくない想像を払い立ち上がる。
 女性の後について、部屋の奥へといった。入口と真向いにあたる壁にまた襖があった。女性は膝をつく。襖を開けた。

 蛍…ではなかった。
 洞窟のような、穴ぐらのような、暗がりのショットバーである。
 そして、足元は水没していた。
 立ち上がる靄と、素足に触れる湿度のあたたかさからして、湯だ。暗闇に点々と浮かぶ暖色の灯りが足元の湯面に映り込み、増殖しながら揺らいでいた。湯気の揺らぎも相まり現れる闇と光の干渉縞に眩暈がした。

 視線を感じ、放心していたと気付く。湯から伸びたポールの上のバーチェアに彼はいた。スーツから、同じく着替えていた。湯の上には板が架けられ、彼のいるバーカウンターまで続いていた。
 板を渡った。
 彼の隣のチェアに腰掛け、くるりと回ってカウンターに向かう。爪先から湯に浸かると、気持ちはよいが妙な気分にならざるを得なかった。

「驚いた?」
「うん」

 何となく、彼の足を捜してつっついた。すると積極的に足指を絡ませてきたので、そんなつもりじゃないと、大げさに逃げてしまった。

「…えっと、ごめんなさい」
「ん。いいよ。カクテルメニューどうぞ」

 特に気を悪くした風でもないのでほっとする。彼はもうウィスキーのロックグラスを傾けていた。
 差し出された、くったりとした黒皮の表紙のリングバインダーを開いた。クリアファイルの中に入った和紙に手書きのメニューがまずあった。それから先は、一つ一つのカクテルが一ページずつ、切り絵で物語られていた。

「たのしいね」
「そう?ならよかった」

 顔を上げるとバーテンダーの男性と目が合った。やはり黒の作務衣姿で、暗くて顔はよく窺えないがエステシャンの女性より年長だろう。細身でなで肩の飄々とした風情で、ここの店主と思われた。

「お決まりですか」
「ホットバタード ラムをお願いします」
「かしこまりました」

 身のこなしからしても、カウンターの内は床か板の上なのだろうと想像する。

「聞いたことないカクテルだな。美味しいの?」
「私も初めて。一度、ホットカクテルを飲んでみたくて」
「あ…まだ寒かった?」
「ううん。おかげ様で。ありがとう」

 まもなくカクテルが運ばれた。シナモンスティックで軽くステアすると、名の通りに香りが立つ。浮かんだバターの一片が琥珀色の湯にとろけ出てゆく。甘い。二口ほど含んだだけで酔いが回り顔が火照るのを感じた。予想はできたが。足を温めながらお酒を飲むなんていかれている。可笑しくなってくる。 

「ここは、足湯バーなのかな」
「なんだろね。占いもやってるよ」
「えっ…占い?」

「えぇっ、占いかなぁ」店主が割って入った。

「占いでしょ」
「何も占ってないよ」
「そうだけどね」

 彼はそれなりの馴染み客らしい。意味不明の会話に興味津々になる。

「…お願いしてみる?」
「うん」

 静かに微笑みながら言う彼に、頷く。

「マスター、今いいかな?」
「いつでもどうぞ」
「歩けそうなら…行こうか」

 無言で頷いた。

 また彼に手を引かれ、湯の上を板を辿り歩いた。視界は揺らぎ足元は不確かで、落ちたらどうしようと想像を弄ぶ。彼は私の遊びを知っていながら何も言わずにただ優しい。
 側までくると、壁は打ちっぱなしのコンクリートであると分かる。扉があるべきところに無くなったように穴があり、白い暖簾で仕切られていた。

「ここは一人ずつしか入れない。中の壁のあちこちにガムテープが貼られていて、三枚まで選んでめくることができる。途中で止めるのは構わない。一緒には行けないけど、大丈夫かな」
「それが、占いなの?」
「そうだね。メッセージを受け取ることができる。らしいよ。おれはもう三枚済んでる」
「受け取った?」
「まあね」

 どうにも分からないのは酔いのせいとは思えなかった。

「どうしてガムテープが…」
「ある日、壁からお湯がしみ出たらしい。とりあえずガムテープで塞いだら、また別のところから漏れた。むきになって、いたちごっこを繰り返して、そのうち諦めて、こうなったんだって。水位は一定より上がりそうにないからガムテープを剥がそうとしたけど、一人三枚以上は無理らしい」
「そう…」
「そう聞いてるけど、おれも全部は信じてない」
「…」
「どうする?」

 彼の顔色を見ても答えはない。そういう人だ。どちらにせよ、引き返すつもりもなかったが。

「いってきます」

 彼の手を離れた。

 白く垂れる暖簾を分けると、その先に足場はなかった。六畳ほどの一室の床一面が黒くぬらりと湯に覆われていた。入口の他出口もなく、明かりも見あたらない。
 浴衣の裾を少し持ち上げて片足を浸し、爪先で探りながら沈めていくとまもなく底に着いた。ふくらはぎには届かない程度の深さだ。踵を付け、もう片足も湯中に降りた。壁を目指し、湯の重みを掻き分けながら進んだ。
 ガムテープだらけの壁に四方を囲まれているのは妄想で、暗すぎて見えているはずはない。しかしまもなく壁に行き当たると、二十センチほどにちぎられたガムテープが貼り付いていた。よれてくたびれ、縁から剥がれかけているものを一気に剥いた。
 掠れた文字があった。珍しくはないが、知り合いの心当たりもない男性の名だった。
 もう一枚を求めて壁伝いに歩いた。数枚見つけたところで、手頃な位置のものを剥がす。
 何もない。と思ったら、剥がしたガムテープの方に何かこびり付いている。目を凝らすと、蛾の成れの果てだった。

「!」

 よろけて膝が崩れ、ばしゃりと水音が響いた。

「…どうした。大丈夫?」

 暖簾を隔てた彼の声。私は声が出そうにない。壁に手を付き頼る気にもなれず、一人で姿勢と呼吸を整える。
 彼と、お付き合いは出来ない。分かり切っていたが、せめて今夜を。一緒に過ごしたかった。


(了)


ムラサキ様主宰眠れぬ夜の奇妙なアンソロジー第32集【壁にガムテープ】に参加させていただきました。


【追記】

テーマ【壁にガムテープ】の主賓セレクトショップSipka店主のことり隊長

あんど

草間彌生の水上の蛍

そして

以下のなのないバー(もしかしたら閉店されているかも)

等にイメージを得て書かせていただきましたが全くのフィクションです。

バーに足湯はありません。ふっとマッサージも。
壁にガムテープ占いも。(たぶん)。

なのないバーには二回ほど訪れましたが、楽しいお店で美味しかったです♪

水上の蛍は好きな作品で、以前アップした詩で小説の『記録』にも登場していただきました。
…恋人と入場したら、まああれであれですよね、きっと。

Sipka、絶対お邪魔したいのでそのときはどうぞよろしくお願いいたします♡