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2020年秋期アニメ感想 おそ松さん 第3期

 私にとって『おそ松さん』は純然たるギャグものだ。脚本家の志向か、やはりコント仕立てに作られたものが一番楽しく思える。
 というわけで、まずは好きなエピソードを上げていこう。

第4話 一松ラジオ
 最近、ラジオ番組を自前で持ち始めた脚本家の松原秀。その経験を活かした1本。一松が誰に向けているわけでもないラジオ番組風語りをはじめて、それに付き合わされる末っ子トド松。エピソードの面白さは、一松の堂々たる奇人っぷり。真夜中にトド松を誘い、何の躊躇いもなく古くさいラジカセの録音ボタンを押して、よどみなく喋り始める一松の奇妙さ。「リスナーからの葉書です」といって、自分で書いた葉書が出てくるのだけど、これが異様な量。それをドンと出してくるおかしみ。映像を見ていると、ちゃんと宛名まできちんと書かれていたりと妙に細かい。
 トド松の役どころはツッコミ。一松の演劇的なボケに対して、トド松が細かくツッコミを入れてくる。このやり取りが完全にコント漫才の仕立て。なのだが、そのほとんどがモノローグというところが映像作品ならでは。しかもどう見ても、突っ込み台詞のほうが多い。
 私のお気に入りはその途中に入るCMタイム。ラジオブースから離れての一時を過ごしている体で、それに対して一つ一つ突っ込みを入れていくトド松。
 普段は寡黙な一松が見せるかなり奇怪な一幕。冷血漢のトド松もドン引き。この組み合わせがオフビートな笑いを生み出している。普通にどこかのお笑いコンビにやらせても笑いを取れる、きちんと練られたネタ。
 だが一番突っ込むべきは、ラジオ番組経験をそのままアニメに持ってきた松原秀自身。「ラジオ経験をネタに使ってきたよこいつ!」と突っ込んでおきたい。そういう楽屋落ちまでも計算して作られた作品だろう。
 でも、それはそれとして、一人でも工夫すれば成立するラジオって、いい文化だなぁ。

9話 シェー
 イヤミの一発ギャグ「シェー」を理解できないAIのシャケ&ウメ。「シェーの何が面白いんですか?」とその当人に直撃する。
 これは要するに芸人に対して「え? 今の何が面白いの? ねえねえ何が面白いの?」という厄介な絡みを、AIにさせている……というもの。これを芸人にやると、芸人人生を終わらせられるか、あるいはガチでキレられる(本当にキレられるから、やめような)。現実では人間同士だから気遣いがあってこういう言い方はしないが、でもAIは人間の感情を理解できないから、ぬけぬけとやっちゃう。
 イヤミは、私の考えではドリフターズやビートたけしといった芸人と並ぶ、伝説的なコメディスターだ。イヤミの一発ギャグシェーはまさにある一時の日本を席巻して、老若男女問わず真似させたし、ゴジラもシェーをやった。コマネチではなく、シェーだ。それだけの拡散力を持ったギャグは他にないし、今後現れないかも知れない。
 でも世間的にイヤミをお笑い界の大御所と言わないのは、まずイヤミが現実に存在しない、アニメのキャラクターだからだ。それにアニメの描写として、ずっと貧乏で詐欺まがいの何かをやらせ続けた方が、キャラクターとしてのおかしみが出てくるので、むしろ地位なんてものは生まれない方が良い。ビートたけしはお笑い界の大御所となってしまったために次第に笑いが取れなくなり、そのうちに映画監督に転向し、最終的には文化人になってしまった。コメディスターは大御所にならないほうがいいのだ。
 そんな確かな実績のあるイヤミに対して「今の何が面白いの? ねえねえどこが面白いの?」とやる。そこにおかしみが現れてくる。
 一発ギャグの面白さを説明しろなんて、ナンセンスの極みだ。通常の笑いとはボケとツッコミ、つまり奇妙な言動をする相手に対して常識的な注釈を入れるやりとりのことを言う。ボケとツッコミは、揺り動かしとリズムによって笑いを生み出す芸である。だが一発ギャグはそこから峻別された、孤立した笑いだ。いや、笑いではない。現実的な言動を一時的に飛躍させた、それ独自で非日常を生み出す行為だ。そんなポーズする奴いねーよ、というものをあえてする。いかなる日常的なアクションとも関係を持たないポーズをあえてやってみせることに笑いがある。非日常的な動きをすることそのものに意味がある。
 シェーはコマネチやガチョーンやちっきちーや様々な一発ギャグのアクションと違って独特なのは、全身で形を作り、その形が実にキャッチーだし、漫画として描いた時、絵がパッと決まる。ある意味で美しさすら感じる。それに下品さもない。コマネチはやっぱりどこか下品だ(そういうのを狙っているわけだが)。シェーはなんとなしに真似したくなるポーズで、私も子供の頃はよくシェーをやったものだ。
 シェーが古いと言えば確かに古い。Wikipediaによると、シェーが生まれたのは1964年だ。非常に古い。今の子供はシェーなんてやらないだろう。古いし時代は過ぎ去ったが、シェー自体が古びたかというとそうは思えない。なぜなら意味がないからだ。意味がないからこそ、時代を超えて今世代でも伝わる一発ギャグだと思っている。
 しかしAIにはそういうおかしみを理解できないので「え? 今の何が面白いの?」と尋ねてしまう。AIはロジカルな正しさのみを求めるので、日常行動を逸脱した行動が醸し出す面白さなんて理解できない。AIの欠陥をうまく捉えていたエピソードといえる。
 追求していくうちに、イヤミはノイローゼ状態に陥ってシェーをどうしてやっていたのか、シェーの何が面白かったのか、自分でわからなくなってしまう。ダンスのうまい人に「どうしてあなたはそんなに踊りが上手いのですか?」と聞くのと同じもので、ロジカルな分解ができていない感覚の天才にこれをやると、どうして自分がうまく踊れていたのかわからなくなり、考えすぎてとうとう踊れなくなる……という。
 ジョルジュ・バタイユは熱心なクリスチャンだったが、パロディの概念を知った後、教会で行われるあらゆる儀式がギャグにしか見えなくなり、棄教してしまったが、そういう経緯にも似ている。
 シェーがなんだったのかわからなくなったイヤミは、自意識が崩壊し、ついに姿を消してしまう。
 という、過程そのものを笑いに仕立てた一篇。コメディスターの大御所を相手にしているからこそ生まれた笑いだ。でも現実の大御所相手に「今の何が面白いの?」とか聞くのはやめよう。殴られるから。こういうことができるのは、あくまでもアニメだから。
(と、書いても面白いと思ってお試しでやっちゃう人は出てきちゃうんだろうなぁ。大御所にこれをやると業界から消されるからやめなよ)

参考→Wikipedia:シェー

8話 高尾山
 コント仕立てのエピソードではないが、どうしても採り上げたかった一篇。
 高畑勲がレイアウトシステムを考案して以降、アニメは実写的な作劇にどんどん近付いていった。いや、描写が写実的になった、というのではなく、“作劇”が写実的になっていった。アニメも映画と同じようにカットを積み重ねて芝居やドラマを表現するようになっていった。だからこそ今や実写と肩を並べるどころか、実写を超える存在になりつつあるアニメだが、しかし一方で個々の絵としても面白さやおかしみがどんどん減退していった。実写的な作劇を採用してしまっているから、漫画的な愉快なキャラクターが出てきてもどこかしら浮いてしまう。そういうジレンマをアニメは抱えるようになっていた。
 第8話『高尾山』の面白さは、漫画的な絵の面白さのみで描かれていたこと。『高尾山』では実写的なカットの作りや積み重ねではなく、もっとシンプルな意味で個々の絵が面白い、おかしい、かわいいだけで構成されている。見ているとキャラ絵が次から次へとどんどん流れていって、楽しくって仕方ない。ああ、アニメがテレビ漫画に戻ったぞ、という驚きと、テレビ漫画が最新のスタイルにアップデートされた洗練さを確かに感じた。
 難点はというと、オチが特になく、尺が一杯まで来たから、パッと全員遭難死亡で終わらせてしまったこと。これはギャグになっていない。さすがに強引で雑。もっときちんとしたオチまで描いて欲しかった。

 いよいよ第3期まで辿り着いた『おそ松さん』シリーズ。昨今は気軽にアニメ化にGOサインは出るものの、利益が出ないとわかるとさっと潮を引くのが世情。半端に切り上げられて終わってしまう作品が多い中で、なんと3期。しかも毎回2クール24話が作られているので、すでに通年物を越える本数が作られてしまった。いっそ、「必要以上に作られているコンテンツ」といってよさそうだ。
 ここまで来るともはや「定番の作品」といえる存在感と貫禄をまとい始めてくる。

 しかしギャグものは安定するとその作品が本来持っていたおかしみを喪ってしまう。ギャグ物はその時代の作品に対して、いかにアンチテーゼを示せるか。時代を笑い飛ばすことがギャグ物の本質だ。コメディアンは常に時代に対してアナーキーであるべきである。
 それが安定し、膾炙すればするほどに、作品が持っている笑いは薄く引き延ばされていく。作品が元々持っていたおかしみが、当たり前のものとして受け入れられるようになる。ギャグは時代の常識感を一時的に狂わせるから笑えるのに、狂っている状態を許容できるようになってくると笑いが薄くなってしまう。
 お笑い界の大御所が、次第に自分の感性で笑いを取れなくなっていくのは、こういうことである。かつての大御所のネタで笑えなくなるのは、大御所が指摘した時代の狂気を受け入れられるくらいに私たちの感性の幅が広がったということだし、また私たちの感性がそのぶん狂いっぱなしのおかしな状態に突入しはじめたということ。常識感の崩壊が始まってしまったからだ。
 現実世界ではお笑い界で成功すると大御所になり、地位が安定してしまうし、人間の性で安定した立場に安寧を求めてしまう。しかしアニメキャラクターはいつでもその立場をぶっ壊すことができる。
 『おそ松さん』の場合は前クールで積み上げた物をやすやすと破壊する。それどころか前回あったこともなかったことにする。平気でキャラクターが死亡し、その次エピソードで復活する。こうした自由度を持てるのもアニメキャラクターであるがゆえだ。

 第1期『おそ松さん』はなかなか鋭い切れ味を持っていた。なにしろ、制作したアニメ24本中、2本がお蔵入り。
 アニメを制作するために消費する予算と労力を思うと、お蔵入りは断腸の思いだろう。でもコメディアンはそうであってほしい。安定などしてはいけない。常にギリギリか、アウトのラインを慎重に目指していかねばならない。それでこそ「そこに憧れる! そこに痺れる!」と尊敬の眼差しで見ていられる。
(才鬼溢れるギャグ魂を持った『銀魂』の最新映画では、劇場特典が『鬼滅の刃』だ。ここからすでにネタが始まっている。マトモなことを一切しない……からこそ面白い)
 第2期『おそ松さん』の前半戦は明らかに失敗作だった。「半端にヒットした」という人気の上で作品を描こうとしていた。ただキャラクターを掘り下げるだけの薄っぺらい、これとった笑いもなく、たまにひねり出したネタもことごとく滑り放題の惨憺たる有様だった。
 それに第1期でお蔵入りエピソードを出してしまった打撃から、安全なネタばかりで、やはり薄っぺらいネタしかやらない。たまに出てくる下ネタもただ下品なだけで、笑いになっていない。
 どうしたよ、お前はそれでいいのかよ。コメディアンとして安定を求めていいのかよ――。
 第2クール後半に入り、かろうじて切り返しがあった。かなりのスロースタートだったが、じわじわと面白さを取り戻していった。

 そうした苦難を乗り越えての第3クールだ。いよいよ安定の第3期へと突入していったが、しかしギャグ物は安定すると面白さを喪う。コメディアンは常に時代の先取りし、その向こうを目指して打ち続けねばならない。安定した笑いなど、お笑い界の大御所が苦し紛れに見せるギャグとそう変わらない。お笑いに安定など求めておらず、アナーキストとしてのカリスマ性こそ、私たちを惹きつけるのだ。安打ではなくホームランを目指せ!

 第3期の布石として考えられるのは、シャケ&ウメと呼ばれるロボットだ。
 ロボットは笑いの感性を理解しない。AIがどんなに進歩しても、シンギュラリティを越えても、AIはギャグを生み出さないんじゃないか……とすら考えられる。なぜならAIは息抜きの笑いを必要としないから。
 ロボットは異常さを排除し、正常なものへと軌道修正をかけていく。クズでニートでしかない6兄弟を真っ当な道に修正していこうとする。『おそ松さん』がもともと持っていたアナーキーな笑いに対して、正面から破壊しようという目論見を感じる。もしもシャケ&ウメの活躍によって6兄弟が真っ当な道、つまり仕事に就いて結婚なんかしたら、何が面白いんだ……という話だ。そうなるとただのお兄ちゃんの話になる。そういう状況に対し、何を返したらギャグとして成立するか……。
 すでにシャケ&ウメはイヤミと接し、最強必殺のギャグ、シェーを「それの何が面白いんですか?」の一言で再起不能なほどたたきのめしてしまった。最終的にはイヤミのキャラクター観まで崩壊し、声が鈴村健一になってしまっていた。
 ロボットだからこそ、無邪気に「それの何が面白いんですか?」という攻撃ができる。ロボットだから無垢に尋ねることができるが、それがアナーキストにとってどれだけ残酷か考えもしない。敬意もなければ、空気も読まない。9話『シェー』で笑いを解さないロボット特有の怖さが見えてくる。

 しかし今のところ視聴を進めても(10話の時点で書いている)、このシャケ&ウメが『おそ松さん』の特性に対して何を仕掛けるのか、いまいち見えてこない。当初は「物語に縦軸の流れができる」と説明されたが、それは最初だけで、その後シャケ&ウメの出番は絶えてしまった。
 全体を見るとシャケ&ウメが活躍したのは2話3話6話だけで、以降は登場すらしていない。存在感すらない。シャケ&ウメというキャラクターは第3期という構想の上で成功だったのだろうか……。今のところだいぶ懐疑的な感じがしている。

 第3期の『おそ松さん』はやはり安定の側に入ってしまっている。キャラクター達に変遷がない。唯一変遷があったのは、なんと脇役の橋本ニャーだ。結婚と離婚を経験して、子持ちになっている。他のキャラクター達は年を取ることすらしないのに、橋本ニャーだけが年月を積み重ねている。
 おそ松6兄弟はなまじ死んでも次エピソードで復活できてしまうから、逆に変化を付けにくい。経験を積み重ねていくことが難しい。登場キャラクターも固定になり、エピソードが進むごとに役割も固定化し、どんどん笑いの内容が安定していく。安定すると約束事のような笑いが繰り返され、ギャグ物としての切れ味はどんどん薄くなっていく。『おそ松さん』がギャグアニメ界の大御所化が進み、笑いが薄味気味になっていく。すると“ただの人気作”になっていく。というか、すでにただの人気作という、地位上だけのものになりつつある。
 それでいいのか、お前ら。
 とは言うものの、『おそ松さん』は今回も2クールという尺感覚で作品を進めることができること。第2期も後半戦に入って切り返しがあった。第3期『おそ松さん』もここから驚くべき切り返しがあるかも知れない。そこに期待して、視聴を続けることにしよう。


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