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1月29日 見た目の時代だとか言われても、やっぱり「中身」が大事。

 そういえば中学生の頃、教科書で読んだあの作品、なんつったっけなぁ……とかなり漠然としたキーワードでグーグルに尋ねてみたら……一発で出てきた。いやぁ、グーグルは優秀だ。
 私がふと思い出して気になった作品というのはこちら。

 すでに著作権切れになっているので、青空文庫で公開されていた。そうそう、これだ、中学の教科書に載っていた作品は。

 では菊池寛の『形』はどんなお話しだろうか。


 戦国時代。摂津半国に中村新兵衛というすげー強い武士がいた。中村新兵衛は「猩々緋の服折を来て、唐冠纓金の兜」という格好で戦場に出て、その姿を見ただけで敵兵はビビって及び腰になってしまう……という程だった。
 ある日、元服したばかりの若い美形士に「明日は初陣なんで、じいさんの鎧兜かしてちょ」とお願いされる。中村新兵衛はかわいがっていた若者の頼みなので、「ええよ、ええよ」と快く引き受けるのだった。
 それから間もなく、合戦となって中村新兵衛も若侍も戦場に出るのだけど、猩々緋の服折と唐冠纓金の兜を身にまとった若侍はめざましい活躍を見せる。一方、中村新兵衛はどうなったかというと、普段、自分の姿を見るだけでビビってしまう敵が容赦なく攻撃してくる。「あ、やべ……」と思ったとき、敵の槍が中村新兵衛の脇腹を貫いていたのだった……。


 人間は……いや人類はいつも勘違いを起こす種族である。身にまとっているものが本質だと思い込む性質がある。そこで見た目ばかり派手にして、次第に中身と実体が乖離していく……そんな現象をよく起こしてしまう。
 こういった性格は未開民族の間でもよくあることで、部族社会の族長といった人になると、その部族の間で価値のあるとされるものをジャラジャラと身につけたりする。冠、首飾り、腰巻き、指輪……威厳を現そうとだんだんなんだかわからない格好になっていく。
 でもそんな宝貝とか鳥の羽を一杯身につけている族長が、その一族の若者達よりも間違いなく優れた頭脳と強靱な肉体を持っているのか……というとぜんぜんそんなことはない。少しは優秀かも知れないけど、知能テストや体力テストなんかやらせても大きな差が出るか……というとそんなことはないだろう。下手すると日々鍛えている若者のほうがポテンシャル高い可能性もある。
 でも人間というのは不思議なもので、「偉そうな格好」をしていると、周りもその人を「偉そうな人」として接するようになる。なんとなく頭を下げて敬ってしまう。いかつい装備をしている武者を戦場で見かけると、なんとなくビビってしまう。
 でもその「見た目」は本当に「実力」か? それが菊池寛が『形』という物語の中で現したものだった。

 私は古いタイプの人間なので、見た目なんかよりも実力。知識と技。能力と才能。これをひたすら磨くことにだけ価値があるんだ……。とか考えているけど、現代的じゃねーよな……というのは察している。
 私はアニメ業界にかつていて、そこで本当に実力のあるアニメーターがどんな姿をしているのか見たけれど、見た目はすごく地味。そんな服装とか髪型とか、ぬるいこと言ってないで仕事しろ、技術を磨け……アニメーターはそういう世界だった。
(そもそも一流アニメーターであっても薄給で、何日もアニメスタジオに泊まり込んでいて家に帰ってない……ってのがあったんだけど。風呂にも入ってなかった)
 そういう世界が私の憧れだった。
 私の考え方は、昔からよくいる修行僧だ。見た目にこだわっているうちは半人前。髪型や服装などは俗世的な欲望を捨てきれてない証拠。そういう諸々を捨てて、技を磨くことにかけることこそ、求道者の生き方ではないのか。

 でも、今は「見た目が9割」の時代だ。まず見た目で判断される。
 映画『プラダを着た悪魔』ではプロローグとしてとある女達の「モーニングルーチン」が描かれる。主人公のアンドレアはいまいちパッとしない新人アシスタント。服装の選び方はいい加減だし、髪はいつもぐしゃぐしゃ。
 同じプロローグではそんなアンドレアよりも一つ上の階級、さらに上の階級の女達のモーニングルーチンが描かれるのだけど、どの女性も服装をバッチリ決めて、髪も整えメイクもしっかり決めてから仕事へ行く。ついでに家の中からすでにキメキメ。下層民のアンドレアとは別世界だ。
 上級階級へ行くほど、まず自分の見た目をバッチリ決めてから仕事へ行く。なぜそこまでバッチリ決めて行くのかというと、いい仕事が得られたからそんな格好ができて、自分がそれだけ上級な人間である……ということを周りの人にアピールし、さらに自分自身にも暗示を掛けられるからだ。中村新兵衛がいかつい装備で周りの兵士達を脅かしていたように、ビシッと決めることで周りに自分の階級をアピールし、さらに自分自身にも「私は強い」と暗示かけをさせることができる。
 「見た目」こそが「中身がある」証拠なのだ――そういう考え方なのだ。
 見た目をバチッと決めることには相応の意味はあるのだ。

 そもそも現代は「見た目が9割」の時代なので、髪型や服装で「私は階級の高い女よ」とアピールしていないと、周りもそういう人間として扱ってくれない。もしも優れた技術、優れた知性を持っていたとしても、見た目が汚かったら、現代人は誰もその人に敬意を払わないだろう。
 アニメーターのように“裏方”ですら表舞台に引っ張り出されて、見た目で品評される時代だ。そこで見た目がショボかったら、すぐに軽んじる。それが現代人だ。
 どこかで優れた技術を披露する場面があっても、道行く人は「ふーん」で通り過ぎて行くだろう。人を止めるには、技術そのものではなく、「見た目」のほうが重要視されちゃっている時代なのだ。まず見た目で説明しなければならない。だって、技術や知性の高さなんて、普通に暮らしている人にはわかんねーんだもん。見た目がしっかりしていないと、そもそも見てももらえない。

 なぜこんな話を急に思いついたかというと、いま描いている作品に関係している。

 2050年……今から30年後の漫画家やイラストレーターがどのように絵を描いているのか……というテーマのSFを描いている。今から30年後、漫画家やイラストレーターも「AI」を使うのが当たり前。AIにアシストしてもらって、「自分は絵が上手い」と思い込んでいる世界だ。
 しかしそんな時代でも「AI」を使わない人達がいる。いや、“使えない”人たちだ。どういう人かというと貧乏人。AI搭載の機械は非常に高級なので、貧乏人はそれを買うことができず、AI全盛の時代にいまだに手書き。
 そんな貧乏人絵描きはみんなからバカにされる。「今どきAIを使わないなんて……」と。AIアシストに頼れないから、絵のクオリティはいまいちパッとしないし、時間もやたらとかかる。それ以前に「ダサい」と判断されてしまう。差別の対象になっていた。
 ところがある日、AIのみを攻撃するコンピューターウィルスが蔓延し、AIが使えない事態に陥る。するとAIにアシストしてもらって「自分は絵が上手い」と思い込んでいた若者達は自分の本当の実力を向き合うことになる。AIがなければまったく何も描けない……ということに直面してパニックになる。
 今まで差別の対象にしていた貧乏人達が、知らない間に実力を身につけていた……ということに気付いてしまう。

 こんなお話しなんだけど……まあ考え方が古いわな。「見た目なんかどーでもいい! 実力をしっかり身につけろ!」……と精神論に聞こえてしまう話をしている。いま時代に合わないだろうな……。

 そうはいっても、何もかもが「見た目」の時代には引っ掛かりを感じてしまう。とある若い女性は、男性の家に招待されて、ハイブランド品ではない、庶民階級の道具が置いてあるのを見て、一瞬にして幻滅した……なんていう。
(私が見かけたのは、ハンドソープである「キレイキレイ」に幻滅した……という話だった。「なんだハイブランドの石鹸使ってないのか」……で幻滅したという。その程度のモノしか買えない男なのね……って)
 ここまでいくと「虚無」の世界。相手の人間がどんな本質を持っているのか、どんな才能を持っていてどんな思想を持っているのか……そんなのは無関係で、持っているブランド品で相手を品定めしてしまっている。「庶民階級」の家具や消耗品を使っているのを見て、その時点で「結婚相手」の対象外にしちゃう。そこまでいくと、もはや本質ではなく、虚無の世界。
 お前さんは男と結婚したいのか、ブランド品と結婚したいのか、どっちだい? という話。

 私は東京に住む気はないし、東京を舞台にした物語を書く気もない。私の作品はだいたいどれも瀬戸内周辺。兵庫、岡山、広島あたりだ(要するに私、その辺に住んでいるってことだけど)。
 私が東京を避ける理由は、その場所が「虚無」だから。まずいって、400年前にはあの土地がそのものが存在しておらず、そんな場所にいま数百万の人が住んでいるという奇怪さ。東京で生産されるもの……というのは実はほとんどなく、ほとんど地方から寄せ集めただけのもの。食べ物のほとんどは東京で生産していない。モノも考えるのは東京かも知れないけど、工場を作って生産しているのは地方。東京はそういう地方で作ったモノを寄せ集めて作っただけの場所。では東京という場所それ自体には何があるのか……というと何もない。あたかも何かありそうな雰囲気だけを作っている。だから「虚無」でしかない。
 それは今に始まった話ではなく、江戸時代の頃からそう。江戸/東京はずっと地方から寄せ集めたもので、「大都会でござい!」って顔をしている。そのうえで地方を「田舎者」とか言って見下している。地方で作ったモノをただ消費しているだけに過ぎないのにね。

 私は作業している間はずっとラジオを聴いているのだけど、若い子たちがどこどこの店にいって、なにかを買った、なにかを食べた……みたいな話を毎日しているのだけど、そういう話って「虚無」だなぁ……と思いながら聞いている。
 だって、それらはあなたが作ったものじゃないでしょ。あなたが考えたものじゃないでしょ。でもあたかも自分の手柄のように語ってしまう。
 それを消費する私……それ以外に自分というものがない。地方から寄せ集めて、合成したものでしか「私」がない。それ以外に何も語れない。そんな虚無で自分の「ステータス」が決まると思っている。
 東京という場所にいると、どうしてもそういう「虚無」の世界に飲み込まれてしまう。だから私は東京に住まないし、東京を舞台にしない。東京に住んでいると、私もきっと、同じようなことをするだろうから。
 なぜなら東京という場所にいると、その「虚無」をいかに採り入れたか、それで自分がいかに時代の最先端にいるか……というアピールをし続けないと、誰もその人を見てくれない世界だからだ。一瞬にして自分自身が「虚無」になってしまう。その不安に怯えて、なにかを消費し続けなければならなくなる。虚無になることに怯えて虚無を摂取する……ヘンな人間になりそうだから、東京にゃ住まない。

 ……とか考えているんだけど、やっぱり考えが古いな。

 古い考えと言われようが、中村新兵衛のように、自分が愛用している鎧兜を他人に貸し与えた途端、メッキが剥がれた……みたいになるのが一番良くない。今はこういう時代だから見た目で自分がどういう人間がアピールしなければならない一方で、それを外したところでも間違いなく磨かれたものがある……それがわかる人間にもならなくてはならない。
 こういう考え方を持つのは、私世代で最後かも知れないけどね。

 余談。
 人間が中身より見た目を重視しがち……という性質を持っているならば、創作の世界ではそれを活かさない手はない。
 任天堂の定石だけど、「触れてヤバそーなやつはトゲを付けさせろ」。見た目でそれがどんな性質を持っているのか推測させる。可愛いキャラクターであれば可愛い姿をさせる。怖いキャラクターなら怖い姿をさせる。その描写が適切だと、ヘンな説明もしなくても、スッと理解してくれる。
 人間が見た目に騙されやすい性質を持っているならば、創作の世界ではそれをうまく活かして応用すればよし。


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