「自己責任論」に思う
「――まぁ、他人のせいにしちゃいけないよね」
職場に、そんな口癖のある先輩がいた。仕事はできるのに、腰は低くて。僕に話しかけてくるときは、いつもこんな感じ。
「いま忙しい?ちょっといいかな?大したことじゃないんだけど…」
こういうときは大抵、まぁまぁ『大したこと』で。僕の担当する業務で、何かしらのミスが見つかったときが多かった。
「――すみません、私の確認不足です!すぐに修正します。」
僕がそうやって謝ると、先輩は笑いながら
「いや、俺もちゃんとチェックしてなかったから。お互い気をつけようね」
そんな風に決して相手を責めない人だった。誰かの尻拭いをするときでも「ミスは必ず起こるものだから。ミスを減らせる仕組みを作っていこう!」なんてフォローしてくれるような、まさに人格者だった。
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そういう先輩もいたかと思えば「真逆」のような上司もいた。口を開けば他人の噂や悪口ばかり。わざわざ相手を苦しめるような言動を繰り返しては「アイツのためにならない」「俺は甘やかさないから」なんてほざく有様。けれど表面的に取り繕うのは上手だから、周囲もコロッと騙されてしまう。「底意地が悪い奴」というのは、こういう人なのだろう。
トラブルが起きると真っ先に「俺は悪くないよ!アイツが悪い!」なんて早口でまくし立てては、自分に火の粉が降りかからぬよう一生懸命だった。そんな器の小さな人の口癖が「自己責任」だった。
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凶悪な事件が起きるたび、加害者の不幸な生い立ちなんかが報道される。それを見て「不幸な生い立ちだろうとも、まっとうに生きている人もいる。『自己責任』だ」なんて言う人が結構いるけれど。正直どうなのかと思う。
確かにスタートラインがどうであれ、その後の選択は「本人次第」という考え方もわからなくはない。でも、すべてを「自己責任」で片付けてしまう社会だとしたら、それはもはや「機能不全な社会」だと言わざるを得ない。
例えば、学校でいじめが起きたとき、それを周囲が止められないのなら。教師は、親は、同級生は、機能を果たせていない。もちろん、社会に出ても「いじめ」はあるものだから。それを人間の本質として肯定し、教えるのが目的なら、また話は変わってくるけれど。
会社などの組織でもそう。問題の責任を個人に求めるのなら、組織である必要なんてどこにもない。共通する目的のために、協力し合えないのなら。その組織は機能は果たせていない。
家族だってそう。安心できる居場所でないなら。それは家族と言えない。こういった「機能不全のしわ寄せ」が、社会問題の温床になっているのは、簡単な仕組みだと思う。
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こういうことを書くと「被害者の気持ちはどうなるんだ」と、被害者でもないのに言ってくる人もいるけれど。それはまた別の話で。加害者の境遇がどうであれ、相手を許せないと思うのは自然なことだから。許せないという気持ちを大切にして欲しい。
ただ、同じ社会で暮らしている以上、自分だっていつその「しわ寄せ」を受けるかわからない。もし相手と同じ境遇にいれば、自分だって同じことをしていたかもしれないと。そんな風に考えることも大切じゃないだろうか。
そして「自己責任」で重要なのは、『自分自身で』自分のことを省みて、もっとこうできたかもしれないと、可能性を模索する過程にこそあるから。少なくとも、相手を責めるための便利な言葉ではないと、僕は思う。
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