見出し画像

幸せについて/海水を飲む

 もし海で漂流したら、いくら渇きを覚えても、海水を飲んではいけない。そう聞いたことがあります。海水は塩分濃度が高いため、飲めば飲むほど、余計に喉が渇いてしまうのだとか。

 幸せになりたい。そう思うのは、ごく自然なことですよね。幸福について書かれた本がちまたにあふれているのは、誰もがそう願っているから。同時に、それが簡単には叶わないことを証明しているようです。

 世界には三大幸福論と呼ばれる本があります。その中でも、僕はアランの『幸福論』が好きです。一つの話が短くて読みやすく、それでいて前向きな言葉に満ちています。これまで幾度となく勇気づけられましたが、特に好きなのは「にれの木」という話。

 庭にある立派な楡の木が、虫に食われて枯れてしまうと嘆く男。虫くらいつぶせばいいと言えば、虫は何百何千もいると返す。職人に頼んではどうかと言えば、今度は職人の数が足りないと返す。戦う前から負けることばかり考える男ですが、次のようにボンバイエされます。

無数の要因がきみに加勢している。さもなかったら、とっくの昔に楡の木はなくなっていただろう。運命というものは気まぐれだ。指のひとはじきで新しい世界ができあがる。どんなに小さい努力でも、限りない結果を生ずる。

 今こうして、ここにいられることが、それ自体がもう奇跡みたいなもの。だから小さな努力でも積み重ねてみよう。自分の手の届く範囲だけでいい、できることから。楽観的ですが、そんな風に考えられたら素敵ですね。

 幸福論を紹介しておきながら何ですが、幸せとは「呪い」かもしれない。そう思うこともあります。

 どうやっても幸せになれない、幸せじゃないなら生きていても仕方ない。他人から見て幸せに見えるどうかとか、そんなことばかり気にしてしまう。何かの手違いで一度でも幸せになってしまえば、今度は失うのが怖くなる。幸せになっても、ならなくても、結局は苦しい。生きづらいと。

 幸せは「なる」ものではなく、自分の内に「ある」もの。そういう言葉もあるけれど。でもそうやって、結局は幸せに囚われていると感じてしまう。幸せを感じられるのも(その逆も)、ある種の能力や才能かもしれない。

 お金がなくても、偉くなくてもいい。じゃあ幸せは?幸せでなくてもいい人はいるだろうか。誰もが当たり前のように、幸せになろうとする世界で、そこから離れられたら。ほんの少しだけ、楽な気持ちになれる気がします。

 幸せになりたいと願うあまりに、海水を飲み続けているのかもしれない。心の渇きを自分で満たすことができたら。そうして満たしてあふれた分を、誰かと分け合えたなら。そのときは、幸せを感じられるでしょうか。


撮影ワールド:Sea Station/真秀ろば - Mahoroba さん

 <引用・参考文献>
アラン 著. 串田孫一・中村雄二郎 訳.(2013)『幸福論』. 白水社

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?