見出し画像

『声』第一章 闇塾経営者 城田尊…2035年6月【事件のあと】

◆あらすじ


二〇三五年。教育格差の是正を目的に学校外教育を禁じる法律が施行された日本。地下化する学習塾。六月のある日、都内で通り魔事件が発生。被害者三名は城田尊が経営する闇塾の関係者だった。しかも城田は被疑者、相神圭吾とも面識があった。闇経営が発覚するのを恐れる城田は塾の閉鎖を決意。そんななか介護施設に入所している母親が病院に搬送されたとの連絡が入る。その母親の旧姓も犯人と同じ、相神だった。

◆本 文


*   *   *

 けんたろー @kenta_j
女の人が血流して倒れてる。これヤバイんじゃね。

 WAKI @waki27487
救急車やパトカーのサイレンがすごい。通り魔が出たらしい。こわっ!

 地底人 @CHITEIJIN_YG3
現場より激写!☆黒ずくめの男捕まる。 Instagram……

 TOP新宿 @1990TOP_Shinjuku
ありゃー、事件現場、知り合いの職場の近くじゃん。

 若槻ヒカル @HIKARU_WAKATSUKI
どこのテレビも通り魔事件のニュースばかり。なんだか物騒な事件が続きますね。若い男が捕まったってことだけど、動機はなんだろうね? また、むしゃくしゃしてて誰でもよかったとか、人を殺してみたかったとか、そんな訳の分からない理由かね?

 *   *   *

  (一)事件

  朝からこめかみがズキズキと痛む。一度、現れると長いときで数日間、この痛みから逃れることができない。偏頭痛に悩まされるようになったのは小学校三年生の頃からだ。今でも初めての日のことをありありと思い出すことができる。春が来て、桜の季節が終わり、少しずつ暖かくなり始めていた時期だった。もうすぐ大好きな夏がやって来ると思っていたのに。
 忌々しく思いつつも、近頃では、不意にやって来るこの招かれざる客を、人生の同伴者として受け入れ始めてもいる。
 日曜の午前十時。
 いつもなら遅めの朝食をゆっくりと摂りながら新聞を読んでいる時間だ。自宅リビングにあるテーブルの上に投げ出された読日新聞の朝刊。本来ならくつろぎの時間とともにあるはずのものから強烈な妖気が立ち上っているように感じる。
 テーブルの上のスマートフォンが震えた。
「もしもし」
〈城田さん、私です〉崎本美咲からだ。
〈ニュース見ましたか?〉
「ああ、見た」
〈今日、出社したほうがいいですか?〉と美咲。
「頼む。いろいろお願いしたいことがある」
 俺もできるだけ早く行くから、と付け加えた。
〈困ったことになりましたね〉
 俺の気持ちを代弁するような口調だった。
「そうだな」
 しばらくの間をおいて、「覚悟したほうがいいかもしれないな」と答えた。
〈……、じゃあ後で〉
 通話の切れたスマートフォンをしばらく見詰める。何が起きているのかさっぱり分からない。テーブルの上の新聞に再び手を伸ばした。

 (二〇三五年六月九日読日新聞朝刊)
『八日午後七時四〇分頃、東京都X市X本町の路上で、「通行人が刺されて、倒れている」と一一九番があった。X署の発表によると、二十代と思われる男によって、通行人三名が刺され、うち都内在住の朝倉正美さん(四五)、勝山修さん(四三)、都内の大学に通う今橋拓海(二一)さんの計三名が意識不明の重体で、近くの病院で治療を受けている。犯人と思われる男は、現場で取り押さえられ、X署に連行された。同署は、不特定多数の通行人を狙った通り魔事件として捜査を進める方針だ。』

 JR中央線K駅で電車を降り、スクールに急ぐ。
 城田ミュージックスクールは、X本町通り沿い、駅徒七分の場所にある。スクールに近づくにつれ、物々しい雰囲気が伝わってくる。普段は人と自動車の往来が途絶えることのない通りだが、事件が起きた場所の前後一ブロックが封鎖されている。
 封鎖線の前には警察官が数人いた。
「すみません。そこに職場があるんですけど、入っていいですか?」
 まだ微かにあどけなさの残る若い警官だった。彼は、どうぞと言いながら、封鎖線をつくる黄色いビニールのテープを持ち上げ、隙間をつくってくれた。身体を屈め、なかに入る。路上には警察の車両が数台。制服の警官や鑑識官と思われる男性が走っている。
 城田ミュージックスクール―――
 建物の前。袖看板を見上げる。看板の背景はどんよりとした曇り空だ。湿り気をたっぷりと帯びた重たそうな雲が空一面に垂れこめている。
 スクールは、六階建ての小ぶりなオフィスビルの地下一階にある。客は皆、富裕層だ。ビル自体は築二十年超えおり、少々くたびれているが、内装には金をかけ、上級階級好みのシックで落ち着いた雰囲気が感じられるようにした。
 階段を降りる。一歩、また一歩。段差を踏みしめるごとに、上級階級の子どもを陽の当たらない地下に引きずり降ろしているという事実に密かな快感を覚える。
 ガラス張りのドアの向こうに明かりが見えた。美咲がすでに来ているようだ。先の見えない不安を感じながら、なかに入る。エントランスには丸テーブルと椅子二脚の組み合わせが三組。形式的には保護者のための待合スペースだが、ここで子どもを待つ親はほとんどいない。当然である。ここは闇塾なのだから。
 ガタン、ガタン。
 奥から聞こえてくる物音。倉庫だな。
 事務スペースを抜け、教材や備品などを保管する倉庫へ急ぐ。
「おはようございます。楽器出しますよね?」アコースティクギターを抱えた美咲が尋ねる。
「頼むよ。机と椅子の片づけは手伝うから」
 ジャケットを脱ぎ、早速作業に入った。

 学校外教育が法律で禁じられたのは九年前の二〇二六年。法律制定のきっかけになったのは二〇一九年、当時の文科相の「身の丈発言」だった。政府は大学入試に関する改革を進めており、最大の目玉は英語検定試験など、会話のスキルなどを測ることができる業者テストを入試の合否判定資料として活用する案だった。当然のことだが、テストの受検には、費用がかかる。低収入の家庭の子どもに不利ではないかという意見が、計画当初から指摘されていたものの、政府はそうした意見を顧みることなく、改革への道を突き進んだ。
「受験生諸君は、身の丈にあわせて頑張ってほしい」
 記者会見で放った文科相の一言は、貧富の格差によって受験生に有利、不利が生まれる状況を肯定する発言と取られた。その一言によって、政府への批判が噴出。世論は憤り、そして大学入試改革は頓挫した。その後も経済格差の拡大は止まらず、国民の不満、特に生活に困窮する人々の不満は次第に高まっていった。二〇二四年、親の経済力で享受できる教育の量と質に差が生じないようにという理念のもと、学校外教育禁止法の骨子がまとまった。二〇二六年、法律の施行により、学習塾、予備校、家庭教師派遣などを生業にしていた会社や個人は廃業や業態変更を余儀なくされた。そして、その陰でひっそりと生まれたのが闇塾だ。その多くはマンションの一室など目立たないように営業している。うちのように偽りの看板を堂々と掲げているところはほとんどない。違法行為なので見つかれば即検挙だ。
 廃業を早めよう。
 本当は、今年度の受験生を送り出したところで、塾を畳むつもりだった。この九年間で、会社員の生涯年収を遥かに上回る金を稼いだ。もう十分だ。廃業の後は、二、三年のんびりしながら、次の身の振り方を考えようと決めていた。
 朝倉正美と勝山修、事件の被害者であるこの二人は、いずれもうちに通う子どもの保護者だ。二人がうちの関係者であることに警察が気づくのも時間の問題だろう。絶対にうちが闇塾であることを警察に気取られてはならない。授業で使っている学習机と椅子、可動式のホワイトボードはいつでも隠せるよう広い倉庫を備えてある。
 美咲とともに机と椅子の片づけを終え、事務スペースに戻る。美咲は引き続き、カモフラージュ用の楽器を倉庫から運び出している。鍵つきのキャビネットから、顧客情報のファイルを取り出す。在籍生徒は三十八名。少ない人数だが、高額の月謝が取れるので充分な売上になる。
 皮肉なものだ。
 闇に潜った教育サービスを受けるのは、富裕層の子どもたちだ。親の経済力によって生まれる教育格差を解消するはずだった法律によって、さらに機会の格差が拡大している。
 書類を次々とめくる。今どき紙で情報をストックするなど、時代遅れも甚だしいが、いざというとき廃棄するには紙の方が好都合だ。ファイルごと焼却炉に放り込めばいい。
 目的の書類はすぐに見つかった。
―――【生徒氏名】朝倉優樹菜【家族】(父)朝倉純一(母)朝倉正美(兄)朝倉重樹
 浅倉正美はクレーマーだった。子どもの勉強がうまくいかないと、すぐに教え方が悪いといって怒鳴り込んでくる。感情の制御が効かないタイプだ。父親の純一は医者。杉並にある朝倉病院の二代目だ。兄はたしか都内有数の大学付属高校に通っていたはずだ。子ども二人も絶対に医者にしたいと思っている。優樹菜は現在、小学六年生。入会は二年前。当初の学力は至って普通。可もなく不可もなくといった状況だった。だがここのところの成績は低迷している。このままでは志望の学校には入れないだろう。
 勉強は今一つだが、性格はすこぶる良い。
 最近、シンガポールから帰国したばかりの女子が入会した。聞けば優樹菜と同じクラスだという。海外での生活が長く続いた彼女は、日本での生活に全く馴染めなかった。入会当初の彼女の表情に笑顔はなかった。母親は本来、奔放で明るい性格だと言う。そんな彼女が本来の明るさを取り戻したきっかけは優樹菜との交流だった。
「学校で浮いてしまいがちな娘に、優樹菜ちゃんが一緒に帰ろうって声をかけてくれたんです。娘が元気になっていったのはそれからです」
 母親がそう語った。
 勉強など出来なくてもその優しく朗らかな性格で、充分に幸せな人生を送れるのはでないかと思うが、もちろん商売上そんなことは口にはできない。最近、気持ちが荒んでいる様子が感じられ気になっていた。急激にやせ細ってもきていた。
 そしてーー
 何かに怯えるような眼。
 浅倉優樹菜の表情は恐怖と絶望を表出していた。
 あと一つ、母親について気づいたことがある。
 彼女は幻覚を見ている―――
 こんなことがあった。いつものように相談があると言って彼女はやって来た。
「昨日の授業で習った品詞分類、全然理解してないんですよ。国語の高木先生はちゃんと授業やってくれてるんですか!」
 憤怒の形相でまくし立てた。
 ところが、応接室に案内し、ドアを開けた瞬間、その表情が一変した。青ざめ、強張った表情。何もない部屋の隅を凝視し、部屋に入ろうとしない。あれは何ですか?と小さな声で言った。私が、何でしょうか、と応じるとはっとした表情を見せ、何事もなかったように装った。面談が始まっても動揺は続いているようだった。部屋の隅をちらちらと見ている。怯えているように見えた。何が見えていたのか定かではないが、この女の心の奥には深い闇が広がっているに違いないと察した。
 さらに書類をめくる。あった。
―――【生徒氏名】勝山和秀【家族】(父)勝山修(母)勝山妙子(姉)勝山麻衣子  
 本当は入会を断るつもりだった。勝山和秀は、入会の際に実施しているテストでほとんど点数がとれなかった。聞けば学習障害を抱えているという。学校の授業にもついていけない状況にあって、厳しい受験勉強に耐えられるわけがない。引き合いは多い。何も結果の出ないことが分かり切っている子どもを預かることはない。
 入会の際、保護者には紹介状の提出を求めている。信頼できる人物からの一筆を入会の条件にしているのだ。闇塾の経営が露見しないよう受け入れる家庭は選別したいのだ。父親は、不合格の連絡に対し、紹介者である議会議員を通じ、圧力をかけてきた。国会議員相手に喧嘩はできないと諦めた。
 入会を断りたかった理由はもう一つ。
 入会時には必ず親の職業を聞き取るようにしている。社会的なステイタスが高い職業であればあるほど、こちらにとっては好都合なのだ。高額な月謝を取りっぱぐれる心配がない。それに加え、闇営業が露見する可能性が低減する。地位を失うことを恐れ、闇塾に子どもを通わせていることを秘密にするからだ。我々と保護者たちは言わば一蓮托生だ。大半の親は言う。詳しいことはちょっと、と。違法行為に加担するわけだから当然の反応だ。保護者様のご職業の登録は入会の必須事項です、と静かに俺は言う。死んだ勝山修は、大手商社の名前を口にした。ここで一定数の親は嘘をつく。彼もそうだった。入会希望者に対しては興信所を使って、身元調査を行うことにしている。彼は何と警察官僚だった。警察庁勤務。しかもキャリアだ。これまで多くの家庭を受け入れてきたが、警察関係者は初めてだった。
 そしてこの子も―――
 共通点は怯える眼。
 朝倉優樹菜も勝山和秀も、同じ眼をした子どもだった。
 資料の束を静かに閉じる。この共通点に何らかの秘密が隠されているのか。そして、もう一人の被害者、今橋拓海。彼は当スクールの理科の授業を担当する学生講師だ。
 一体何が起きているのだろうか。得体のしれないものが纏わりつくように感じ、身震いがした。

 

(二)母

 (二〇三五年六月一〇日読日新聞朝刊)
『警察は六月八日、東京都X市で発生した通り魔事件の容疑者を同市に住む無職、相神圭吾(二一)と発表した。同容疑者は、午後七時四〇分頃、X市X本町の路上で、通行人三名を次々に刺し、駆けつけた警察官に取り押さえられた。刺された三名はともに、意識不明の重体となっている。相神容疑者は取り調べに対し、犯行は認めたものの動機については黙秘を続けている。』

 国道一三四号線を南へ。津久井浜海水浴場を超えた。もうすぐ三浦海岸だ。
 六月にしては気温が低く、少し肌寒い。それでも愛車の窓を全開にし、潮の香りを感じながら先を急ぐ。愛車は三年前に購入したものだ。電気自動車なので、走行音はほとんどなく、乗り心地がよい。自動運転モードをあえて解除し、ハンドルを握る。
 目的地は、三浦半島の南端になる有料の老人福祉施設ベストケア三浦。相模灘を望むその場所に母親がいる。母がそこに入所したのが三年前。そう、ちょうど車を買ったころだ。以来、月に一回施設に足を運んでいる。
「こんな立派なところじゃなくてもよかったんだよ。一体いくらかかってんだい?」
「金のことなんか気にするなよ」
 入所してすぐは会うたびにそんなやり取りを繰り返した。ベストケア三浦は、富裕層向けの施設だ。建物は豪奢で、食事もうまい。その名の通り、入所者へのケアも行き届いている。ただ母は金持ちに囲まれて、自分を不釣り合いな存在と感じたようだった。
「こんな気取ったところにはいられないよ」
 吐き出すように言ったときの苦々しい顔を思い出す。最近になって、ようやく憎まれ口を叩かなくなった。
 本当は昨日の予定だったが、事件のせいで一日遅れの訪問となった。
 愛車を駐車場に滑り込ませ、施設のなかに急ぐ。広いエントランスの中央には、いつも豪華な装花が施され、来所者にこの場所の格式高さを誇示している。エントランスはまるで五つ星ホテルのようだ。受付で来意を伝える。「相神芙美子の息子ですが、母は部屋ですか?」
 小学生の頃、父と離婚した母は名前を旧姓に戻した。俺の苗字も相神にしたかったようだが、拒んだ。名前が変わるなんて、それまでの自分の人生が否定されたようで我慢がならなかった。引き続き、父の戸籍に残り、城田尊として生きていくことになった。しかし、その父も離婚後すぐに亡くなってしまう。それでも俺は城田の名前を棄てなかった。
「お母様でしたら、裏庭で海を眺めていらっしゃいますよ」と受付の女性は答えた。
 お礼を言い、建物の中央通路を奥へと進む。突き当りに裏庭に通じるガラス扉がある。重たい扉を開けて外に出る。潮の香りがする。手垢にまみれていないあるがままの自然がそこにあった。
 車椅子に座った母の背中が見える。傍らには女性職員が寄り添うように立っていた。
「母さん」
 こちらに気づいた職員が笑顔で会釈をする。初めて見る顔だ。
「あら尊、来てたの」と母が言う。
「元気か?」
「元気だよ。今日は忙しいんだ。面接があってね。久美ちゃん、支度できてる?」
 女性職員に向かって、そう尋ねる。彼女はちょっと困った表情で応じる。「はいはい、できてますよ」

 母を残して、女性職員と少し離れた場所に移動する。彼女は、楠木ですと自己紹介した。この春、福祉系の大学を卒業し、ベストケア三浦を運営する株式会社に入社。研修を終え、先週配属になったばかりなのだそうだ。純粋な瞳。彼女の優しく無邪気な笑顔には好感がもてた。
「お母様、私のことを久美ちゃん、久美ちゃんって呼ぶんですよ。私、里美っていうんですけどね。久美ちゃんって誰ですか?」
 別に責めるような口調ではない。むしろ面白がっているように見える。「昔、働いていた頃の同僚です」
 俺が小学三年生の頃、母は父と離婚をした。生計を立てるため、ずっと専業主婦だった母は近所にある町工場で事務パートの職を得た。工員百名に満たない小さな会社だった。働き者の母は重宝されたようで、総務、人事、財務と様々な仕事を任されていた。そこで出会ったのが久美ちゃんだ。苗字は思い出せない。何度が家に遊びに来たことがある。よくしゃべる明るい女性で、いつもシュークリームを買って来てくれた。母は久美ちゃんを妹のように可愛がった。そういえば、楠木里美は久美ちゃんに雰囲気が似ている。
 父がいなくなった我が家の生活は一変していた。父の収入で裕福な暮らしをしていた母と俺は下級市民に転落した。それでも何故か、母の表情は生き生きとしていた。仕事を始めて、社会と繋がることができた。そんな喜びを見出していたのかもしれない。
 母はあの頃の楽しかった思い出のなかで生きている。
 他愛のない会話のあと、里美の表情から微笑みが消えた。
「お母様の認知症が進んでいます」
 指摘される前から分かっていた。
 ベストケア三浦では、定期的に入所者の認知能力の状態を調べている。様々な設問が用意されているそうだが、最近では日付と曜日を答えられないことがあるそうで、季節を認識しているかどうかも怪しいと。それでも、いつも呆けているわけではないらしく、現実を正しく認知できる状態とそうでない状態とを行ったり来たりしているそうだ。
 まあ、それもいいじゃないか。
 厳しい現実などには気づかず、幻想でも美しい世界で過ごす。それはそれで幸せなことかもしれない。
「ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」と言って、頭を下げた。
 母の後ろ姿をぼんやり眺める。
 母は海が好きだった。事あるごとに海を見たがった。理由は分からない。  
 家族がまだバラバラになる前、毎年、夏休みになると父と母、俺の三人は海外に出かけた。この旅行こそが一年で最も大切なイベントで、毎年夏の到来が楽しみで仕方がなかった。
 鮮明な印象となって記憶に残っている場所がある。そこがハワイだったか、グアムだったか、サイパンだったか、地名を思い出すことはできないが美しい風景だけは昨日のことのように脳裏に浮かぶ。
 高級ホテルが密集する大通りから一歩奥に入ると、そこには美しい浜辺が続いている。たくさんの人がいる。手をつなぎ、スローモーションのようにゆっくりと歩く白人の夫婦。身体の大きさと同じくらいある大きくてカラフルな水鉄砲を抱えてはしゃぐ男の子。今ではまったく目にすることがなくなったデジタルカメラで記念写真を撮る若い女性グループ。皆がそれぞれの時間を過ごしている。知らない言葉に交じって聞こえてくる日本語たち。世界にはたくさんの日本人が住んでいるに違いない、と幼い俺は無邪気に考えた。そこで見た夕日の美しさ。この世のものとは思えない美しさだった。
 旅行中、出歩くときはいつも父と二人だった。当時、父は、ヨーロッパの輸入家具を扱う会社を経営していた。英語とイタリア語が堪能で、家具の買いつけによく欧州各国を訪れており、旅慣れていた。旅先で外国語を話す父を誇らしいと感じていた。
 一方の母はと言うと、ホテルの部屋のベランダや海辺に座って景色を眺めていることが多かった。いつもは活発でよくしゃべる母が海を見ているときだけは別人のように寡黙になった。いや、それは状況を正確に表現していない。眼を静かに閉じ、ゆっくりと呼吸する。週を待った右手は空を掴む。何かを得たその手はゆっくりと腹部に移動する。身体を空っぽにし、できた隙間に何者かを呼び込もうとしているように見えた。
 瞑想。
 そうだ、その姿は瞑想をしているようだった。
 母にとって海とは何だったのか。
 何を想い、海と対峙していたのか。
 風が強くなってきた。遠くに船影が見える。あの船は一体どこに向かっているのだろう?
「母さん、寒くないか?」
「寒くないよ」と母が静かに答える。
「母さん、一つ聞いていいか? 母さんは―――」
 母が、二つの相容れない価値観が混在したような複雑な表情をこちらに向けた。
「母さんは何で海を眺めるのが好きなんだ?」
 母は再び前方の遥か遠くまで広がる海原に視線を戻す。
「聞こえるんだよ、海のささやきが。海はいろいろなことを教えてくれる。今も聞いてたんだよ」
 とても呆けているとは思えない。しっかりとした落ち着いた口調だった。

 母を部屋に送っていったあと、豪華なエントランスの片隅で楠木里美から母の状況について話を聞いた。近頃の母の心配事は例の通り魔事件のことだと言う。
「事件の第一報は日曜朝のテレビ番組の報道でした。テレビの画面を見詰めるお母様の顔からみるみるうちに血の気が引いていくのが分かりました。最初はお知り合いが被害に遭われたのではないかと思ったくらいです。どうされましたか、と聞くと、息子の職場が近かったから、とおっしゃいました。被害者の皆さんとは面識もないとのことでしたので、驚き方があまりに大袈裟すぎるように感じました」
 確かに不思議だ。母には闇塾経営の話もしていないし、被害者がうちの保護者であることなど気づくはずもない。職場が近かったというだけで血の気が引くほど驚くだろうか。母はその後、ずっと俯いたまま午前中一杯全くしゃべらなかったそうだ。
「恐ろしい事件ですね」と里美が言った。その口調はあまりにも軽く、他人事のように聞こえた。
 ちょっとお姉ちゃん、俺にとっては他人事じゃないんだよ。
 俺の僅かばかりの憤慨を感じ取ったのか、空気を変えるかのように、ところで事件の続報をご覧になりましたか、と尋ねる。
「いいえ。今日は新聞を読む暇もなく家を飛び出してきたもので」
「犯人の名前が分かったみたいですよ。新聞にも出てました」
 犯人の名前。心の底が疼いた。
「何て名前なんです?」
 できるだけ平静を装いながら訪ねた。
「相神圭吾だそうです」
 相神!
「お母様と同じ苗字ですね。何だかカッコいい名前だなと思って。あっ、済みません。不謹慎ですね」
 里美は自らの失言にしきりに恐縮していたが、そんな彼女の様子はもうどうでもよかった。
 相神圭吾。
 あの男だ!
 事件の中心に俺のスクールがあることは間違いないようだ。得体の知れない何かが、ぬめぬめと身体に纏わりつくような不快感を覚えた。

 

(三)容疑者

 一年ほど前のその日は、朝からてんてこ舞いだった。予定していなかった保護者の来訪が二件あった。一件目はちょっとしたガス抜きで済んだ。家で全然、勉強しなくて、と母親は言う。その息子、小学五年生男子は都内有数の進学校である私立K中学を目指していた。成績は抜群で、このまま順調にいけば合格は間違いなかった。素頭がよく、要領のいいタイプだ。母親としては他の子と比べて勉強時間が短い我が子のことが心配でならないのだ。一通りの話を聞き、最後に一言伝えた。
 彼は優秀ですから、大丈夫ですよ。
 母親は安心して帰っていった。
 二件目の訪問者は少々厄介だった。
「クラスに吉田さんっていう女の子がいますね。うちの子と帰る方向が同じらしく、授業が終わるといつも一緒に帰ってきているようなんです」
 小学六年生女子の父親が不機嫌な表情でそう言った。ちゃんと指導してくれないと困るんですよ、と付け加えた。
 当スクールでは子ども同士、保護者同士の交流を禁じている。違法行為に加担しているそれぞれの家庭のプライバシーを守るためだ。教室では生徒の名前を呼ぶこともしない。子どもたちにもその点を言い含めてはいるものの、大人の目を盗んでちゃっかり交友関係を広げる子どもがいる。
 闇塾が摘発された場合、我々経営者は法の裁きを受けるが、受益者には何の罰則も規定されていない。そのせいもあってか実に大らかな保護者がいる一方で、この父親のように神経質になる者も。仕方がない。その父親の職業は、弁護士なのだから。
 教室での指導を再度徹底することを約束し、何とか納得してもらった。
「お疲れ様でした」と言って、美咲が淹れたてのコーヒーをデスクに置いた。いい香りだった。
「ありがとう」と礼を言う。
「もう食事の時間ないですね」
 腕時計を見ると時刻はすでに午後一時を過ぎている。一時半には採用面接のアポイントが入っていた。開業時からずっと国語の授業を担当してくれていた講師が家庭の事情で退職をすることになり、その補充のための採用だった。すでに履歴書が手元にあった。
 相神圭吾―――
 学生講師である今橋拓海からの紹介だった。拓海に尋ねた。
「珍しい苗字だね。沖縄の人?」と。沖縄の離島出身の母から相神の名を持つ者は沖縄の一部の地域にしかおらず、母の故郷の島の十人に一人は相神だと聞いていた。
「さあ? プライベートなことはよく知りません」と拓海は答えた。
 紹介者である拓海から採用面接前日にこんな話があった。
 採用しなくていいですよ。いや採用しないほうがいいです。
 事情が呑み込めない俺は聞いた。
「そうなの? 中学の同級生なんでしょ。友達じゃないの?」
 拓海は、友達なんかじゃないです、と顔を歪めた。
「同窓会で何年かぶりに会って、仕事紹介してって言われただけなんです。中学時代もほとんどしゃべったこともないですし。とにかくしつこくて。僕から誘ったわけじゃないですからね」
 必死の言い訳だった。それもそうなのだ。スタッフには仕事のことを外で話さないよう緘口令を敷いている。噂はどこから広がるか分からない。もちろん俺は彼を疑ってはいない。今橋拓海は責任感が強く、実直な人間だ。家庭は母と彼の二人。勤労学生で学費の大半を自分で負担している。俺と同じで幼少の頃に父親を亡くしている。
「それにしても採用しないほうがいいってどういうこと?」
「なんていうか―――」慎重に言葉を選びながら、切れキャラなんです、と言った。
「切れキャラ?」
「僕の友達が相神に突然、殴られたことがありました。そいつに何かしたのかって尋ねたんですけど、まったく心当たりがないって言うんです。確かに唐突な行動に見えました」
「それ以外には?」
「決して社交的なタイプではなかったです。友達もいなかったと思います。そもそも人としゃべっているところをほとんど見たことがない。こういう仕事に向いているとは思えません」
 そして思い出したように、でも成績はよかったですけど、とつけ加えた。
 最後に拓海が言った一言が気になった。
「あいつ、知ってたんです、この塾のこと。そして、僕がここで働いていることも」
 講師の採用はしていないのかと聞いてきたのは相神圭吾のほうからだと言う。

 約束の時間になっても相神圭吾は現れなかった。
「私、日時を聞き間違えたかもしれません」
「美咲に限って、そんなことはないだろう」
 そんなやり取りをしているときに、重たいガラス扉を開け、相神が入って来た。十分ほどの遅刻だった。当の本人はまったく悪びれる様子はなかった。
「相神ですけど」
「お待ちしておりました。こちらにどうぞ」美咲が応接室に案内する。
 これは駄目だ、絶対に採用できないと思った。
 全身から放たれる負のオーラ。それが何によるものかは全く見当がつかないが、近寄ってはならない類の人間であると直感した。
 相神圭吾が応接室の上手に座る。皺の寄った濃紺のスーツ。グレーのネクタイはよく見ると市松模様だ。結び目がだらしなく曲がっている。髪の毛も伸び放題。整えておらず、グチャグチャだ。身なりには気を遣わないタイプらしい。ただよく見ると、目、鼻、口、それぞれのパーツが美しく調和しており、結構な美男子だ。
「当スクールを経営している城田です。相神さんは、今橋拓海くんの同級生だそうですね」
「まあ、一応」
「当スクールのことをご存知だったそうですが、どこでお知りになりました?」
 一瞬、相神の眼が血走ったように感じた。
「知ってましたよ。昔からね。僕のこと覚えてませんか?」
 荒々しい口調だった。
 なに? こいつと俺は会ったことがあるのか?
「申し訳ありません。どこかでお会いしてますか?」
「そりゃ覚えてないよね。まあいいや。雇ってもらえます?」
 応募の動機について尋ねる。普通なら子どもが好きだからとか、教えることが好きだからと答えるところだが、相神の答えはまるで違っていた。
「ある人からね、子どもたちを救え、と言われましてね。世の中は実に理不尽ですよね。僕も、頭のイカれた母親に随分、苦労させられました。同じように息苦しい日々を送っている子どもが、たくさんいるはずです。そんなガキを助けたいと思います」
 相神は、その後も理解不能な説明を延々と続けた。
 面接は三十分ほどで終わった。結局この男がどんな動機でここにやって来たのかはっきりしないまま面接は終わった。
 美咲に不採用通知を送るよう指示した。もしかしたら苦情電話の一本も入るかと覚悟していたが、杞憂に終わった。拓海にもその後、連絡はなかったようだ。時間が経ち、相神のことは記憶の海に沈み、その後思い出すこともなかった。 

 三浦半島から急いで吉祥寺に戻った。オフィスに着いたとき、すでに日は暮れかかっていた。夕日が紅い。まるでメラメラと街を焼き尽くしているかのようだ。
 事務室から採用面接用のファイルを取り出す。生徒、保護者の情報と同様、すぐに焼却できるよう、こちらも紙で保管している。
 相神の履歴書のコピーと面接記録はすぐに見つかった。不採用者の情報も、念のため数年間は保管するようにしている。
 間違いない。あいつだ。
 改めて読みなおす。
 住所はX市内。最終学歴は東京都立M高校。東大合格者を毎年、二桁出す地元で一番の公立高校だ。拓海が言うように勉強はできたらしい。高校から先の経歴は何も記入されていない。確か面接で浪人中と言っていたはずだ。年齢は二十一歳。
 昨今では、現役で大学進学をするのが当たり前になった。二十一で浪人はないだろう。
 面接のときにも同じ疑問を持ったが、早く終わらせたくて何も聞かなかったのだ。
 被害者三名がすべてスクールの関係者で、加害者とも接点があった。今度の事件はただの通り魔事件ではないのかもしれない。
 事件の原因はうちにあるのか?
 何が起きているのか見当もつなかい。相神は取り調べに対し、動機に関する証言を拒否しているようだ。相神と会ったのは面接の一度きり……。いや待て。あいつは以前に俺と会ったことがあると言っていた。
 いつだ?
 思い出せない。
 母と姓が同じであるということもなんだか気味が悪い。
 静かに腕を組み、目を閉じた。

  

(四)男と女

 (二〇三五年六月十五日読日新聞朝刊)
『六月八日、東京都X市内で起きた通り魔事件。犯人の相神圭吾は通行人三名を刃物で切りつけた。取材時点で重傷となった三名は依然、意識不明のままだ。六月八日―――それは呪われた日なのかもしれない。二十七年前の同じ日に起きた出来事を読者の皆さんはご存じだろうか。そう、秋葉原通り魔事件だ。犯人である青年は、トラックで歩行者天国に侵入、数名の人を撥ねた。更に殺傷能力の高いガターナイフで通行人を刺した。犯行に要した時間は十分に満たなかったが、死者七名、負傷者十名の大惨劇となった。当時、この事件をマスコミは虐げられた労働者の恨みによって生じたものであると報じた。日本の労働慣行であった終身雇用が崩壊を始めた時期だった。世の中には非正規労働者が急増していた。経済格差が人々に意識されるようになった時代にその事件は起きたのだ。非正規社員であった二十五歳の青年が惨劇を繰り広げるに至った動機の背景には社会の大きなうねりがあった。その後も経済格差は着実に進行した。いまや全労働者に占める非正規社員の割合は五割に近づき、世帯年収の最頻値は二百万円前半だ。貧困は世代間で連鎖し、社会階層は固定化している。先進国の顔をしたこの国には、見えない身分制度が存在している。正規社員と非正規社員、男性と女性、大卒と非大卒、財産を持つ者とそうでない者、性愛を獲得できる者とそうでない者。あらゆる側面にヒエラルキーが出来上がり、そしてその仕組みはときとして人の尊厳を踏みにじる。今回の事件の犯人、相神圭吾も無職の若者だ。父親は元公務員で幼少の頃は中級階層の暮らしぶりだったが、父親の失職後は生活に困窮したようだ。犯人のなかに秋葉原の事件と同じ、社会に対する怨念はなかったのだろうか。(読日新聞主席論説員 福永翔)』

  視野の左半分が、雑多な原色を格子模様に散りばめた光彩で覆われていく。光輝く色彩たちはまるで生き物のようにうねり、その姿を刻々と変えていく。色彩のダンス。優雅で美しい。
 もう明け方だ。目をつぶる。間もなくやってくる痛みに備えなければ。ときどき見る幻覚は、偏頭痛が始まる前兆なのだ。
 初めての幻覚体験は、小学三年生のとき、父が亡くなったしばらく後から始まった。自ら死を選んだ父。事業の失敗を苦にした自殺だった。縊死した父親の第一発見者は俺だった。事業の失敗ですべての財産を失い、更に離婚で家族を失った男の最後の姿が今も目に焼きついて離れない。
 お父さんが空を飛んでいる。
 浴衣の裾が外から入ってくる涼しげな風にふわふわと揺れていた。状況が把握できなかった俺は、優美なものを見ている気分になった。その後、どのような行動をとったのか、まるで覚えていない。父の死を客観的に理解する過程で父への想いは尊敬から軽蔑へと変わっていった。その途上で始まったのが偏頭痛とその前兆となる幻覚だった。
 幻覚は決まって目覚めのときに現れる。見えるのは視野の左半分だ。首を左右に振っても視界を覆う色彩はその方向についてくる。高校生になって、人口の十パーセントほどが偏頭痛に苦しんでおり、それに伴って幻覚を見ることが珍しいことではないと知った。と同時に自分が見ている幻影がオーストラリアのアボリジニ芸術やアメリカ先住民が陶器の上に描いた紋様に通じていることに気づき、驚いた。
 これは何かの導きだろうか。そう思い、見たものを絵にすることを考えたが止めた。大学生の頃だった。当時はアルバイトに明け暮れていて、芸術よりも稼ぐことの方が重要だった。
 やがて来る招かれざる客。大人になって、この忌々しい痛みとは折り合いをつけて暮らしていくしかないと悟った。
 ゆっくりとベッドから這い出す。ここ数日の疲れが溜まり、身体が鉛のように重い。警察の訪問に備え、スクールは休講を続けている。だが、今のところもう一方の招かれざる客は現れていない。
 身体を投げ出すように、リビングのソファに座り、スマートフォンを掴む。
 崎本美咲に電話をかける。
〈はい、崎本です〉
「俺だ」
〈どうしました? 疲れた声ですね〉
「分かるのか?」
〈分かりますよ。何年のつきあいだと思っているんですか?〉
「……十年か?」
〈十二年です〉
「そうか」
 そんなになるか。
 美咲との出会いは大学生のときだ。美咲は大学の後輩だった。初めて会ったのは人数あわせのために無理やり呼ばれた合コンでのことだ。だいたい俺は人と群れるのも、人が群れる様子を見るのも大嫌いだ。合コンに参加するなど、後にも先にもあれ一回きりだ。陽気に盛り上がる学友たちを見ていられなくなり、店の外で煙草を吸っていた俺に美咲は声をかけてきた。城田さん、でしたよね? 男女十数名が座るテーブル。その対角線上の一番遠いところに座っていた女の子だと認識できた。が、名前が出てこなかった。
「柏木美咲です」
 柏木は美咲の旧姓だ。
「嫌いなんですか、ああいうノリ?」と聞かれた俺はああ、とだけ答えた。
「私もです」と美咲はにっこり笑いながら言った。
 美咲はよく言っていた。
 みんながやってるからっていう理由で人と同じことするなんて嫌、と。
 俺たちは波長が合った。そして何度かのデートの後、つきあい始めた。
 俺は大学時代、バイトに明け暮れていた。家庭教師、夜の工事現場と時給の高い仕事をいくつか掛け持ちしていた。母に迷惑はかけられないと思っていた。美咲との時間はあまりとれなかった。
 そして大学三年の冬。母が倒れた。過労だった。
 母さん、もう働かなくていいよ。
 俺が面倒見てやるよ。
 四年生になる春、俺は大学を辞めた。その時期、日々欠かさず続けていたSNSでの美咲とのやり取りをさぼるようになった。二人の気持ちは次第に離れていった。
〈話があるから会いたい〉
 久しぶりに届いたのは味気ないメッセージだった。
 待ち合わせ場所の公園にすでに美咲はいた。桜の季節だった。強風にピンクの花びらが舞い上がる。どこかよそよそしい表情だった。冷たい風に身体を丸めながら、別れよっか、と美咲は言った。出会いのときと同じようにああ、とだけ答えた。

「ちょっと疲れたから、今日は休んでもいいか?」
〈いいですよ。ゆっくりしてください。ところで……拓海くんのお母さんから電話ありました?〉
 そういえば先ほどスマートフォンを立ち上げたとき、見知らぬ番号からの着信記録が表示されていた。そうか、拓海の母親からだったか。
〈意識が戻ったそうですよ〉
「そうか」
〈相変わらずそっけない反応ですね。本当は嬉しいくせに〉
 その通りだ。美咲には何もかも見透かされている。
 今橋拓海は、母親と二人で暮らしている。パン工場でパートの仕事をしている拓海の母親は、生活保護の支給を受けている。
 高校を卒業したら、働くべし。
 それが生活保護制度の設計思想だ。したがって、生活保護世帯の子どもが大学に進学した場合、その学費分は収入と認定され、保護費が減額される。拓海は、母親に迷惑をかけないよう、同居したまま世帯分離の手続きを行った。母親と世帯を異にする拓海は、生活費から学費まで、全てを自分で負担しなければならないのだ。拓海を見ていると、ついつい自分が大学生だった頃を思い出してしまう。拓海には絶対に大学を卒業してほしい。皆と同じスタートラインに立ってほしい。
 結局、その日は一日家にいて、何もせずに終わった。

  次の日の朝。ニュースの気象コーナー。アナウンサーが平年より少し遅い梅雨入りを告げている。
 東京は昼から弱い雨が降り続くでしょう。傘を持ってお出かけください―――
 窓の外を見る。空は雨水をじっとりと含んだ濃い灰色の雲で覆われている。
 昨夜ほどではないが、まだ頭がきりきりと痛む。
 テレビ番組はコマーシャルを挟み、芸能ニュースのコーナーへ。
 有名女優が一般男性と入籍したことを報じている。
 一般男性Aさんとの出会いは十年前。お二人は長い月日をかけ、愛を育んできたのでした―――
 結婚か。
 美咲とつきあっているとき、少しだけ意識したことがあった。大学を出て、就職をして、家庭を持つ。そんな平凡な人生を自分も生きることになるのだろうかとぼんやり考えた。しかし、俺の人生は結局、そんな風にはならなかった。
 俺は、大学を辞めた後、闇塾ビジネスに手を染めた。
 大学を中退したくらいで負け組にはならない。そう心に決めた。
 とにかく稼ぎたかった。病気の母親に十分な治療を受けさせてやりたい。もちろん、それは嘘ではない。しかし、それはあまりにも優等生的な回答だ。動機は金だ。金がなければ、やりたいこともできず、学校にすら通えない。スタートラインにすら立てないのだ。夢や希望を語るには金がいる。低賃金で生活に喘ぐなど真っ平だと思った。
 一方の美咲はと言えば、大学を何の問題もなく卒業し、人材派遣の会社に職を得た。三年勤め、同期入社の男性との結婚を機に退職した。今ではほとんど死語となった寿退社だ。今も子どもはいない。旦那に俺のことを何と説明しているのか。そもそも違法な仕事に係っていることを旦那は知っているのか。いろいろ想うところはあるが本人に尋ねたことはない。
 このビジネスを始めるとき、結婚はしないと決めた。違法行為と暖かい家庭の団欒を結びつけて考えることができなかった。そして、何よりも自信がなかった。
 あの父と同じ血が俺にも流れている。生きることを諦め、家族を守り切れなかった弱々しい男の血が。俺には家族を幸せにすることはできないのではないかと思っている。
 テレビは先週末に公開された中国のコメディ映画が公開初日の観客動員数の記録を塗り替えたと伝えている。
 どうでもいいニュースだ。そろそろ出かけよう。

 

(五)招かれざる客

(二〇三〇年六月十六日読日新聞朝刊)
『東京都X市で発生した通り魔事件の容疑者、相神圭吾は取り調べに対し、「内なる声にしたがって行動した」と供述していることが分かった。警察は凶器を事前に用意するなど犯行に計画性がある反面、動機について明確な供述を得られず、精神鑑定も視野に入れ捜査を続ける方針だ。同容疑者は六月八日七時四〇分頃、X市内の路上で通行人三人をナイフで刺した。うち二人が意識不明の状態、一人は昨日、意識を取り戻した』

 東京都M市にある古いマンション。平成の初期に建てられたと思われるその建物にエレベータはない。目的の部屋は五階。階段を登る。
 目にするのは高齢者ばかり。空き家もあるようだ。人知れず営業するには持って来いの場所なのかもしれない。それにしても急な階段だ。年寄りにこの昇り降りは辛いに違いない。
 五〇五号室―――表札はない。ドア横のボタンを押す。来訪を告げる呼び出し音は、ジーとこれまた古めかしい。
 ドアが勢いよく開いた。顔を出したのは古川玄太。この部屋の主だ。五十代と聞いていたが、肌艶がよく若々しく見える。
「お待ちしてました。どうぞ」
 失礼します、と言ってなかに入る。通されたのは奥のリビングルーム。十四、五畳はあるだろうか。そこは寺子屋という言葉がぴったりの学習空間になっていた。二人用の脚の短い長机が四台と座布団。可動式のホワイトボードが設置されている。その背後には壁一面を覆う本棚が備えつけてあり、参考書や問題集がびっしりと並んでいる。
 古川もまた同業者なのだ。
「はじめまして、城田と申します」
「古川です」
 通常のビジネスシーンのような名刺交換はしない。それが違法行為を行う同業者同士の礼儀だ。
「受験の神様にお目にかかれて光栄ですよ」と古川。
「何をおっしゃいます」と少しだけ謙遜して見せる。
 闇塾経営の肝は入試の合格実績にある。うちの合格率は目覚ましく、しかも難関中学ばかりだ。これが噂となり、客が客を呼ぶ。いつしか俺は、業界で受験の神と呼ばれるようになった。神などという呼び名は大変、おこがましいが、悪い気はしない。うちは受かるべき子どもを選別して集めているだけで、実績は俺の実力ではなく、子どもの実力だ。合格実績という点では古川のところも負けてないはずだ。
 促されるままに床に座る。
「足崩していいですか?」正座は苦手だ。
 古川がお茶を運んできた。古川の他には誰もいないようだ。事務員を雇っていないのだろうか。中学受験の状況など申し訳程度の雑談の後、古川が言った。
「大変な事件に巻き込まれましたね」
「実は古川先生にお電話で伝えたのは、事件の概要のごく一部でして……」
「というと?」
「事件の関係者は被害者だけじゃないんです」
 外で犬が激しく鳴いている。古川は窓の方向を一瞥し、その鋭い視線をこちらに戻した。
「加害者の男とも会ったことがあるんです。うちの採用面接を受けたことのある者でした。うちのスクールが事件の発端になっているのかもしれません」
「あの相神圭吾がお宅にも……」と言って古川は下を向いた。一瞬の逡巡。「うちにも来てるんですよ、相神は」
「えっ?」
「講師をさせろってね。もちろん不採用にしましたよ。お宅もでしょ?」「はい」
「変な奴だったもんね。ありゃ、無理、無理」
 そうか、相神はここにも来ていたか。
「相神はどうしてここを知っていたんですか?」
「あいつね、入塾希望で母親が連れて来た子だったんだよ。当時は小学六年生だったかな。この母親ってのが、また変わってたね」
「で、入塾を許可したんですか?」
「許可ってね。うちは城田先生のところと違って来るもの拒まずですよ。でもね、結局、入塾はしなかったよ。公務員をしていた父親が首になったとかでね」
「そうですか……」
「城田先生のところは結構お高いんでしょ。うちはね、言い値。寿司屋といっしょ。貧乏人からはお金取らないこともある。教育を受ける機会は、平等じゃないとね」
 そのとき、ジャケットの内ポケットに入れたスマートフォンが震えた。振動はとまらない。電話のようだ。ちょっとすみません、と言って機器を取り出す。〈ベストケア三浦〉と表示されていた。また母からの伝言か。あれが欲しい、これが食べたいという母のわがままを職員が馬鹿正直に伝えてくるのだ。古川が探るようにこちらを見ている。大丈夫です、あとで折り返しますから、とにっこり笑って答える。
「ところで、城田先生は雑談をしにここに来たわけではないでしょ」
 そうなのだ。ある決断をし、ここに来たのだ。
「今回の事件もあり、廃業を決めました」
「……」古川は何も言わない。
「警察がやって来るのも時間の問題だと思います。その前に子どもたちの受け入れ先を決めておきたい。古川さん―――」相手の目を見据える。
「うちの生徒を預かってもらえませんか? お会いするのは初めてですが、頼るなら古川さんしかいないと決めていました」
 古川は俯き、しばらく考え込んだ。
「先生のところ、生徒何人いるの?」
「三十八人です」
「そりゃ多いね。預かれるのは五人だね。これは?」
 古川は、人差し指と親指で丸を作ってみせた。金のことだ。取り引きの開始。できるなら五年生以下でお願いしたいね、と古川が言う。五年生以下なら、一年以上に渡って高額の月謝を受け取ることができる。多少の移籍金を支払ってでも充分に元が取れるという計算だ。
「分かりました。では全員、五年生で。皆、成績優秀です。世帯収入は、一千万円超えの家庭ばかりですから、月謝を取り損なうこともないでしょう。一本でどうですか?」
 一本とは百万円のことだ。
「いいでしょう」
 古川がにやっと笑う。
 その後も対話は続いた。古川は単なる金の亡者ではないようだ。商売人の顔と教育者の顔を併せ持っている。本棚にびっしりと並んだ書籍や参考書が、相当な研究家であることをうかがわせる。そして、先ほど冗談めかして言った、貧乏人から金は取らないとの発言。あれはどうやら嘘ではないようだ。
 人には様々な生き方があるものだ、と実感した。
 たった五人が。残り三十数名の行き場を探さなければ。
 城田先生はこれからどうするんですか、と古川は聞いた。
「これからゆっくり考えます。幸いたっぷり蓄えもありますし」と答えた。 

 施工会社との打ち合わせ時間が迫っていた。オフィスの賃貸契約解約後、現状復帰のための工事について打ち合わせることになっている。
 古川のマンションを後にし、JRの最寄り駅に急ぐ。予定より長居をしてしまった。駅の階段を登るとちょうどオレンジ色の電車がホームに滑り込んできた。スクールの最寄りまでは一駅。十分少々でオフィスに着くだろう。業者がはやく到着していたとしても、美咲がいるはずだから大丈夫だ。
 時刻は三時少し前。電車は思った以上に空いていた。
 ドアの脇に立つ。電車が走り始め、風景が流れていく。見渡すかぎりの建物。それぞれのなかにたくさんの人がいて、それぞれの人生がある。
 古川との会話を反芻する。生徒の移籍交渉の後、話題は再び相神圭吾のことになった。相神が古川を訪ねたのはうちの面接の前だったようだ。不採用の連絡をした後もマンションの周辺で幾度か相神を見かけたそうだ。
 授業が終わって帰って行く子どもを睨むように見詰める相神に古川は声をかけた。
 このマンションには警戒心の強い年寄りが多いから、そんなところで突っ立ってると警察に通報されるぞ。
 そう脅すと無言で去って行き、それ以来姿を見かけなくなったという。
 相神の目的は何だったのか?
 ぎゃー。
 子どもの激しい泣き声で思考が中断した。少し離れた座席に座っている若い母親が娘を叱責している。まだ三歳くらいだろうか。距離があるため、母親の言葉は聞き取れないが、母親の顔が上気しており、感情的になっていることが分かる。次の瞬間、母親の手が子どもの頬を叩いた。更に子どもの泣き声が大きくなる。
 電車が目的地に着いた。ドアが開く。私と一緒に数名が車両を降りる。皆、母娘が気になるのか、そちらをチラチラと見ながらそれぞれの目指す場所へと散っていく。
 オフィスに到着したのは約束の三分前だった。階段を駆け下り、オフィスの扉を開く。美咲が飛んで来た。きりっとした目元が更に吊り上がっている。表情が険しい。何かあったようだ。
「来ました」
 美咲のその一言ですべてを察した。招かれざる客はやはりやって来た。
「応接です」
「分かった。施工業者は?」
「まだ来ていません」
「業者は教室で対応してくれ。そっちは任せていいか?」
「もちろんです」
 覚悟を決め、応接室に向かった。 

 

(六)黄昏

 男は警察手帳を取り出した。
「X署の音無と申します。ちょっとお話をうかがいたいと思い、お帰りをお待ちしていました」
 年齢は四十代中盤といったところだろうか。柔和な表情の裏側に営利な洞察力を隠している。警戒しなければいけないタイプの人間だ。
「こちらは柿谷。同じX署の者です」と音無が隣にいる若い男を紹介する。
 美咲が用意したお茶が音無と柿谷の前に置かれていた。音無がそれに手を伸ばし、一口だけ口に含む。
「立派な教室ですな。お若いのに大したもんだ。お客は子どもだけですか?」
「はい、そうです」
「私もね、定年したら何か楽器でも習いと思ってるんですよ。そうか、ここは子どもだけか。大人の音楽教室もあるんですよね?」
「ありますよ。この街にも何軒か」
「どこか、いいところがあったら紹介してください。ところで―――」
 音無はあくまでも笑顔を崩さない。
「先日起きた通り魔事件のことなんですが、被害に遭われて亡くなったお二人はこちらの関係者ですか?」
 やはり気づいたか。今橋拓海の件も話題に上るのだろうか。警察は意識を取り戻した拓海のところにも行っているはずだ。拓海がスクールの闇塾経営についてしゃべっていないことを祈った。
「そうです。お二人のお子さんがこちらでレッスンを受けていました」
「その二人の子ども、どうしてます?」
「事件以来、レッスンはお休みをしていますおり、会っていませんのでよく分かりません」
「まあ、そうでしょうな」
 この刑事二人は何を探りにきたのだろうか。うちの実態にも気づいているのか。
 そんなことを考えているうちに表情が険しくなっていたのか、音無は城田さん、そんなに怖い顔しないでください、私たちは被害者の足取りの確認をしに来ただけですから、とふくよかな笑顔で言った。
「二人の子どもがこの建物の地下から出てくるのを見た人がいましてね。この階にあるのは他に税理士事務所と商事会社でしょ。子どもが出入りするなら、ここだなと思ってお邪魔したんです。被害に遭われたお二人は子どもさんのお迎えか何かでこちらへ?」
「お迎えでいらしたのは間違いないと思います。ただしこちらでは姿をお見かけしていません。保護者の方がお待ちいただくスペースは広くありませんので、大抵の皆さんは外でお子さんをお待ちになります」
 少しだけ嘘をついた。保護者がここまで下りてこないのは、待合スペースが狭いからではなく、他の保護者と顔を合わせたくないからだ。
「ええと、お子さんたちの名前は―――」音無が手帳をめくる。
「朝倉優樹菜と勝山和秀でしたね。二人のレッスンが終わったのは何時ですか?」
「午後七時半です」
「すると、二人の被害者はここを出てきた子どもたちと落ち合ってすぐ事件に遭遇したということですな」
 その後もいくつかの質問が続いたが、そのどれもが被害者の当日の行動を確認するためのものだった。
 安心した。刑事たちの来訪目的はあくまでも通り魔事件の捜査というこのようだ。まだバレてない。このまま静かにスクールを閉鎖できるかもしれない。そう期待した。更に刑事の質問は続いた。
「被疑者はX市在住の相神圭吾と言いますが、ご面識はありますか?」
 何と答えたらいいのだろうか?
 正直に回答すればスクールのことをあれこれと詮索されることになる。ならば嘘をつくべきか? 音無は俺の逡巡を見透かすように言った。
「名前に聞き覚えでも?」
 やはり、面識があるとは言えない。
「いいえ、聞き覚えはありません。実は母の旧姓が相神と言いまして、遠い親戚にそのような者がいたような気がしただけです」
「お母様は相神さんとおっしゃるんですか。珍しい苗字ですね。沖縄の離島のご出身ですか?」
「はい、そうです。刑事さん、お詳しいですね」
「古い友人に相神という者がいまして、沖縄県のA島出身でしたから」
「母もその島の生まれです」
「いいところですね。私も一度だけ訪ねたことがあります」
「私自身は幼少の頃に一度行っただけですので、あまり記憶もなくて」
 被疑者に関する会話はそれで終わった。
 二人の刑事は二十分ほどで帰っていった。結局、スクールの経営に係る話題にはならなかった。今橋拓海に関する質問もなかった。どうやら拓海は、何もしゃべらなかったようだ。 

 刑事たちが話している間もジャケットの内ポケットに入れたスマートフォンが何度か震えた。ベストケア三浦からの着信が三回、留守番電話に新着のメッセージが二件あった。尋常ならざる気配を感じ、伝言を再生する。
〈新しいメッセージが二件。最初のメッセージです〉
 ゆっくりとした、しかも短調なアナウンス。
〈ベストケア三浦の楠木里美です―――〉
 母が久美ちゃんと呼ぶあの子だ。切羽詰まったような口調だった。
〈お母様が三浦総合病院に搬送されました。至急、病院にいらして頂けないでしょうか。よろしくお願いいたします〉
 なに?
〈次のメッセージです〉
 これもベストケア三浦からの連絡のようだ。
 じれったい。早くしろ!
〈楠木です……〉
 沈黙。
 何だ!
〈……お母様の意識がありません。……三浦総合病院でお待ちしております。申し訳ありませんでした……〉
 しばらくの沈黙の後、伝言は切れた。
〈メッセージは以上です〉
 何が起きているのかさっぱり分からず、しばらくその場に立ち尽くした。

  自宅マンションの駐車場から車を出す。
 一体、母に何があったのか?
 痴呆は進んでいたが、足腰の衰え以外、身体は何ともなかったはずだ。事故か何かだろうか。
 制限速度を無視して車を走らせた。
 三浦総合病院に着いたのは辺りが暗くなり始める時間だった。
 黄昏時。
 そういえば、母は『黄昏』という古いアメリカ映画が好きだった。俺が生まれるはるか以前の作品だ。美しい湖畔に住む老夫婦が孫との交流をきっかけに疎遠になっていた娘と和解していく物語だ。ヘンリー・フォンダの演技がいいのよ。母が何度もこの映画の話をするので、暇つぶしに観てみようと思った。とてもいい作品だった。
 人生の黄昏時。人にはそれぞれのドラマがある。
 病院に駆け込む。人が少なくなった待合スペースに楠木里美を見つけた。俯いたまま、じっと動かない。
「楠木さん!」
 里美が顔を上げた。前に会ったときのような笑顔はない。泣きはらした目だ。里美はゆっくりと立ち上がり、申し訳ありませんでした、と言って、頭を下げた。
「……お母様はICUにいらっしゃいます。まだ意識は戻っていません」   
 責任を感じてるのか、終始おどおどしている。
「母に何があったんです?」
「私のせいなんです。私が目を離さなければ……」

 里美とともに母がいるICUに案内された。一昔前まで、一般の面会者がICUに立ち入ることは厳しく制限されていた。最近では全国的に厳しい制限が緩和されてきており、この病院でも午後一時から七時までなら、時間を気にせず面会ができる。
 広く真っ白い部屋に十台ほどのベッドが並んでいる。様々な機器がベッドを取り巻いており、その様子はまるで来訪者が近づくのを拒んでいるかのようだった。
 機械越しに横たわる母の様子をうかがう。
 時間が止まってしまったように感じる。
「ここ数日、お元気がなくて……」
 里美が沈黙に耐えきれなかったのか、しゃべり始めた。
「母がですか?」
「はい……。施設内で変な噂が……」
「変な噂?」
 里美は明らかに躊躇っている。なかなか次の言葉が出て来ない。
「……尊さんが違法なビジネスに手を染めていると……。汚いお金で、豪勢な暮らしをさせてもらっている、と酷い言い方をする入所者もいて……。そんな噂がお母様のお耳にも届いたのではないかと……」
 母に闇塾のことは内緒にしていた。
 X市で音楽教室を始めたら、大繁盛だよ。そう言ってあった。
「誰がそんな噂を?」
「分かりません。発端はSNSだと思います。……私も、書き込みを読みました。あと……」
「あと何です?」
「息子が事件に巻き込まれているかもしれない、ともおっしゃっていました。」
 どういうことだ?
 母はなぜ、俺と事件とをどのように結びつけていたのだろうか? 被害者がうちのスクールの会員であることはまだ報道されていないはずだ。
「あと、何か気になることはありませんでしたか?」
 里美は少し考えた後、答えた。
「X署の電話番号を調べてほしい、と頼まれました」
「それで?」
「お教えしました。何をされるんですか、とお聞きしましたが、何もお答えにはなりませんでした。電話は、かけていらっしゃったようです。皆さんがいる場所から少し離れた場所で、スマートフォンを耳に当てているお姿をお見かけしました。
 ずっと、ふさぎ込んでいらっしゃったので、先輩からも絶対に目を離さないようにきつく言われていたのに……。私、今日忙しくて……。大きな音がして……、音がした方に走って行ってみると、階段の踊り場に、逆さまにひっくり返った車椅子と一緒にお母様が……、倒れていました。……申し訳ありませんでした」
 再び、母の顔を見詰める。
 母さんはこの事件のこと、何をどこまで知っていたんだ?
 母は何事もなかったかのように眠っている。その顔は至って無表情だった。

(第二章 専業主婦 朝倉正美…2035年5月【事件の少し前】に続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?