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『声』第三章 高校生 勝山麻衣子…2035年3月【事件の少し前】

◆あらすじ

 事件発生前。被害者、勝山修の娘、麻衣子は吹奏楽部に所属する高校生。春休み、経済的な事情で学校を去ることになった友との別れを経験。家庭には父親の意向で闇塾に通う小学六年生の弟、和秀がいる。発達障害を抱えた和秀。父親は、東大卒で警察キャリア。息子の障害を受け入れられない父親は、息子に対しスパルタ指導を続けていた。ある日、寝かせないようにと椅子に縛り付けられ、勉強を強要される和秀の姿を母娘は目にし、愕然とする。

◆本 文


(一)学校

 
「もう一度やってみよう」
 私を含め教室にいる六名の部員がトロンボーンを構える。
「せーの」
 皆がラの音を出来るだけ長く吹く。一年生二人の出す音がぎこちなく震え始める。
 やっぱり駄目だ。まだメゾフォルテなのに。メゾピアノやピアノにしたら、きっと滅茶苦茶になる。弱い音を安定して出し続けるのは難しいのだ。
「矢野くん、長谷川さん、複式呼吸だよ。肩から力を抜いて、リラックスした状態で音を出してみて」
 同じ一年生の岡沙友里さんがうまく音を出せない二人を睨みつけている。
「フォルテでもう一回。うまくいったら、メゾフォルテに戻るから」
「先輩」と岡さんが練習を遮る。
「もう、来週には本番ですよ。基礎練習より曲を演奏しませんか?」
 彼女のイライラが伝わってくる。彼女は中学からの経験者で、基礎もしっかりできている。たぶん私より上手い。家での個人練習も欠かさない。初心者で、しかもあまり練習熱心でない者にあわせていられないのだ。その気持ちは分からないでもない。しかし、私にはパートリーダーとしての責任がある。
「ロングトーンが大切なのは岡さんなら分かるよね。どんなに上手になっても基本は大切にしないと」
 岡さんは渋々だが、わかりました、と応じた。
 春休みに入って、吹奏楽部の練習は連日行われている。朝九時から始まり、午後五時に終わる。午前中はパート練習、昼食を挟んで午後は全体練習という具合だ。終了後も自主練習のために一、二時間の居残りをする者もいる。私も居残り組によく加わる。一日が終わるとヘトヘトだ。
一週間後には春の定期演奏会が控えている。私たち二年生が仕切る最初のビックイベントだ。だから練習にも熱が入る。
午後からの全体練習では顧問の川端義春先生の檄が飛ぶ。
「正しい音が出れば言いという訳ではない。美しく響く音を出してほしい。先週渡した音源をもう一度聴き直すように。自分の音と何が違うのか、しっかり考えてほしい! じゃあ一回、休憩を入れよう。十五分後に集合」
 先生はこの部活動を二十年間、率いてきた。定年間際のおじいちゃん先生だ。あと一年で学校を去ることが決まっている。
「いててて。腹筋が痛い」と近くにいたトランペット担当の男子がお腹をさすりながら言った。
「バーカ。あんたが遅刻するからいけないんでしょ」とすかさずつっこむ。
 川端先生は遅刻にめっぽう厳しい。
 吹奏楽は団体戦だ。遅刻は集団の秩序を乱す。一人欠けただけで戦えなくなる。その辺をしっかり自覚してほしい、と先生はいつも言う。
遅刻した者は腹筋百回!
 厳しいといって先生を敬遠する子もいるが、私は先生のやり方は筋が通っていて正しいと思っている。保護者からのクレームにも怯まない。遅刻したら腹筋なんて体罰じゃないですか! そう言ってきた母親に、嫌なら辞めて頂いて結構です、と言い返したと聞く。カッコいい。
「麻衣ちゃん」
 振り返ると若菜ちゃんがいた。
「今日、一緒に帰ろ」
 若菜ちゃんはいつも笑っている。今もそうだ。でもここのところ少し寂しげに見えるのは気のせいなんかじゃない。あと三日でお別れだから。
「いいよ。じゃあ終わったら下駄箱のところね」と私も笑顔で返した。
 
 私が通う高校は東京にある国立大学の付属校。付属校といっても上の大学に内部進学することはできない。在籍生の九十八パーセントは四年生大学への進学を希望しており、その多くが東大や京大、国公立医学部など難関大学を受験する。海外大学を志望するものも結構いる。都内でも有数の進学校で、高校受験の偏差値は七十を超えている。
 国立だから学費は安い。ところが、不思議なことに生徒のほとんどは上級階層の家の子だ。私たちは子どもながらに、家庭の収入と学力とがある程度、比例していることを知っている。だから、ここが経済的に豊かな人々のコミュニティーであることを当然のことと認識しているのだ。
 五年前、学校はその当然の認識を覆す大きな決断をした。入学者選抜にチャレンジ制度という新たなルールを加えたのだ。この制度を使って入学してきた生徒のことを、口の悪い連中は「貧乏枠」と呼ぶ。チャレンジ制度は、定員の一〇パーセントを貧困家庭の生徒に開放しようというものなのだ。制度が始まった前年、子どもの貧困率は二〇パーセントを超えた。現在でもこの数値に大きな変化はない。つまり五人に一人の子どもが貧困状態にあるわけだ。制度はこのような子どもたちを救済したいという理念から始まった。制度利用者は、入学金と授業料が免除される。
 制度を利用する場合でも、受験日、入試問題は一般の生徒と同じだ。学校は、定員が一〇パーセントに満たなくても、足きり点以下の生徒は絶対に入学させないという方針だ。だから、制度利用者であっても学力的には何ら遜色はない。先ほど、家庭の所得水準と子どもの学力が比例すると言ったが、例外だってある。
 その例外の一人が若菜ちゃんだ。
 佐々木若菜ちゃん。彼女は、チャレンジ制度を使って入学した生徒の一人だ。
 当然のことだが、学校は誰が制度を使ったか、公表などしない。当人もあえて制度を利用したことを公言することもない。しかし、分かるのだ。持ち物やお弁当の中身、部活の選び方、日常のさりげない会話。ヒントはたくさんある。入学して三か月が過ぎる頃には、誰が制度の利用者なのかが特定されてしまう。
 若菜ちゃんは少し違っていた。私、貧乏枠、と自らで言った。そこに悲壮感はなく、自虐的でもない。若菜ちゃんはとにかく明るい。自らの苦しい境遇を笑いに変えてしまうパワーがある。
 だから、私は若菜ちゃんを尊敬している。
 
「先輩、ちょっといいですか?」
 岡さんだった。
 二人で皆から少し離れた場所に移動する。
「やっぱり私には、一時間の基礎練習は必要ありません。自分でちゃんとやってるし。それにあの二人、二軍じゃないですか。今は大切な本番に向けた練習をすべきだと思います」
 二軍―――
 私たちの部活には百五十人の部員がいる。定期演奏に出られるのはそのうちの半分だけだ。ロングトーンで安定した音を出せない一年生二人は本番のメンバーには選ばれていない。ステージを踏めない生徒を私たちは二軍と呼ぶ。本番に出ない者のために、貴重な時間を取られるのは嫌だと彼女は言っているのだ。
「岡さんだって、最初から今のような音が出せてたわけじゃないでしょ。綺麗な音が出せずに苦しんだ時期だってあったでしょ。ちょっとだけあの二人につきあってくれないかな?」
 岡さんはとても綺麗な子だ。だがどこか冷たい。
 切れ長の目に怒りの感情が宿っていた。
「嫌です! 私は一軍にいるためにいつも努力している。でもあの二人は何ですか! 全然、練習してこないじゃないですか。向上心もなく、下にいることに甘んじているんだから、こちらから手を差し伸べる必要なんてないと思います」
「どうしても納得できない?」
「できません」
「岡さんが納得できなくても、基礎練習は止めない。この部の伝統だから。今私がステージに立てるようになったのも先生や先輩の指導の下で、基礎練習を繰り返したおかげ。だから止めない」
 岡さんは何か大きな感情の塊を飲み込んだように見えた。
「分かりました。基礎練習の間、私は別の場所で練習します。じゃあ」
 岡さんは、そう言うとくるっと私に背を向け、部屋を出て行った。
 少し離れた場所から私たちのやり取りをチラチラ見ていた若菜ちゃんが近づいてきた。
「麻衣ちゃん、大丈夫?」
 できるだけ毅然とした態度でと心がけたつもりだったが、たぶん情けない顔をしていたに違いない。ちょっと恥ずかしい。引き攣った笑顔で大丈夫、と返した。
 
  
(二)お別れ
 
 冬至の日は過ぎたが、まだまだ日は短い。
 午後五時に練習が終わり、片付けをして若菜ちゃんと校門を出たのは六時前だった。辺りは真っ暗だ。学校から最寄り駅までは歩いて二十分ほど。少し遠いが、この行き帰りが友との語らいの時間になる。閑静な住宅街を心持ゆっくりと歩く。若菜ちゃんと並んで歩ける時間を噛みしめるように。
「あのね―――」
 若菜ちゃんがニヤニヤしている。
「何?」
 いたずらな表情でこちらを見詰めている。何か言いたいことがある顔だ。
「何よ! 言いなさいよ」と言いながら、若菜ちゃんの脇腹を人差し指でつんとつつく。
 若菜ちゃんのニヤニヤ顔を見ていたら、何だかおかしくなってきた。二人揃ってケタケタと笑い出す。こうなると二人はしばらくの間、笑いが止まらない。二人でいるとこういうことがよくある。
何で私たち、笑ってるんだっけ?
 わかんない。
 そんな会話を何度したことか。
 思わず笑い声が大きくなってしまった。
「しー。麻衣ちゃん、だめだよ、そんな大きな声出しちゃ」
 そうなのだ。ここは住宅街だ。騒がしい連中のせいでときどき学校に苦情が入ることがある。静かにしなきゃ。
「若菜ちゃんが悪いんだよ。笑わせるから」
「私、何にもしてないよ。麻衣ちゃんが勝手に笑い出したんでしょ」
 まずい。またおかしくなってきた。顔に思い切り力を入れて、笑いを止める。
「で、何?」
「うん」
 若菜ちゃんの顔が少しまじめになった。
「私、定期演奏会に出られることになった」
 え? うそ? 本当に?
 これって夢じゃないよね?
「川端先生がね、学校に交渉してくれたの」
 若菜ちゃんは三月三十一日で退学する。家庭の事情だ。学校にいられるのもあと三日だけ。定期演奏会は四月二日の実施だから、若菜ちゃんは出られないはずだった。でも最後まで皆と一緒にいたいという理由で毎日、練習に参加していたのだ。
「よかったね」
 こんなに嬉しいことは久しぶりだ。
「本当によかった」ともう一度、今度はつぶやくように言った。
 
 若菜ちゃんの担当はフルートだ。若菜ちゃんも私と同じく、高校から吹奏楽を始めた。やるなら木管楽器と決めていたそうだ。木管ならサックスやピッコロなどいろいろあるなかで、何故、フルートなのかと尋ねたことがある。だって安かったから、と彼女は答えた。確かにフルートは、スタンダードなモデルなら十万円を切る金額のものが豊富にある。ちなみに私のトロンボーンは税別二七万八千円だ。彼女はチャレンジ制度を使って入学しているので、入学金と授業料がかからない。親に相談したら、学費にと貯めていたお金が浮いたので、買ってもらえたのだとか。
「麻衣ちゃん、やっぱり志望校はW大?」
「うん」
「じゃあ、私もそうする」
「そしたら、また一緒に帰れるね」
 そう答えたものの、私は少し困惑した。高校を辞めてしまう若菜ちゃんがどうやって大学受験をするのだろう。
「私ね、学校辞めたら、大検の勉強始めるから。そして、麻衣ちゃんと同じ大学行くから。麻衣ちゃん、大学行っても吹奏楽、続けるって言ってたよね。私もフルート、続けたい。私も吹奏楽部、入るから。そしたら……、また一緒に練習できるよね。麻衣ちゃん……、きっとできるよね」
 若菜ちゃんは泣いていた。私の目からも大粒の涙がこぼれた。
 もうすぐ駅だ。このまま時間が止まってしまえばいいのに、と思った。
 
 私たちの学校は、JR中央線沿いにある。私の家と若菜ちゃんの家は反対方向にある。駅に着くと上下線に分かれたそれぞれのホームに登る。ここでお別れだ。
 下りホームに若菜ちゃんが見える。笑っている。やっぱり彼女には泣き顔より笑顔が似合う。上り電車が来た。私と若菜ちゃんの間を電車が遮る。止まった電車に乗り込み、反対側のドアに素早く駆け寄る。若菜ちゃんが手を振っている。私も手を振った。
 電車が走り出し、友の姿が遠ざかって行った。
普段だったら、この移動時間を使って英語の単語帳を開くのだが、今日はそんな気分になれない。単語帳の替わりにスマートフォンを取り出す。何気なくニュースサイトを立ち上げてみる。女子高生の売春組織摘発のニュース。補導された女の子たちの多くが母子家庭の子たちだったらしい。
スクロール。
 会社のお金を横領した新入社員のニュース。大学生の頃に借りた奨学金の返済に行き詰まっていたらしい。
 スクロール。
 中高年の自殺。老々介護の末の一家心中……。気が滅入るニュースばかりだ。
 ニュースサイトを閉じる。
 あ!
 SNSサイトに若菜ちゃんが新しいメッセージを挙げていた。
 
*   *   *
 わかポン @Wakapon-dayo
家の経済的な事情で高校を辞めることになった。今日、親友にお別れを告げた。高校生活の最後は吹奏楽の定期演奏会。悔いの残らないよう全力で演奏する!☆そして4月からはアルバイト生活でーす!
 *   *   *

 家に着いたのは七時半近くになっていた。我が家はI公園近くの住宅街にある。古くからある住宅街で、一軒家が多い。最近は建て替えラッシュで、真新しい家ばかりだ。我が家の建て替えは六年前。もともとは父の母、つまり私のお祖母ちゃんが一人で住んでいた。七年前にその祖母が亡くなり、一人息子だった父が土地と建物を相続した。建物は平成の始めに建てられたものだった。それを取り壊し、新たに建てたモダンなデザインの家に父と母、私と弟が移り住んだのだ。
「ただいま」
 家の奥から、お帰り、という母の声が聞こえる。母はキッチンにいた。私の部屋は二階にあるが、帰ってすぐには二階に上がらない。リビングにある昼寝ができるほど大きなソファに鞄と身体を投げ出す。
「何だか冴えない顔ね」と母。母にはだいたいのことを見透かされている。   私も母には隠し事はしない。
「若菜ちゃんとお別れしてきた」
「そう。いい子で頑張り屋さんなのにね。可哀そうね」
 家に何度か遊びに来たこともある若菜ちゃんのことを母は気に入っている。若菜ちゃんが学校を辞めることも母は知っている。
「世の中って、不公平にできてるよね」と私。
「そうね」と母。
 気づくと、母の料理をする手が止まっていた。
「で、若菜ちゃんはこれからどうするんだって?」
「アルバイトしながら、大検の勉強するって。また一緒に吹奏楽やる約束した」
 少し間を置いて「あの子なら、きっと大丈夫ね」と母は言った。母にそう言われると、本当に大丈夫だという気分になる。
再び母は、ジャガイモの皮むきを始めた。
「着替えてくるね」
 私は、鞄を持って立ち上がった。
 そして、母の横顔に憂いを感じながら、二階に上がる。
  
 
(三)我が家の冷戦
 
 私の母、勝山妙子は苦労人だ。小学五年生のとき、母の父親、つまり祖父が蒸発した。クリスマスイブのことだったそうだ。それ以来、家計を支えるために働く祖母に代わって、母は弟二人の面倒を見た。弟たちは当時、それぞれ小学二年生と幼稚園の年長さんだった。今はすっかり中年となったこの二人の伯父たちのことを、私はあまり好きではない。何故かというと、がらが悪いからだ。二人とも中学に上がると悪い友達とつるむようになり、母と祖母に迷惑をかけてばかりだったそうだ。今はさすがに落ち着いて、仕事もしているが、無軌道な時間を過ごしてきた者の片鱗が未だに残っている。この前、二年ぶりに家に来た下の正行伯父さんは、麻衣子、大人になったな、と言いながら私のお尻を触った。最低だ。
 母はしきりに反省する。私がもっとしっかり躾けていれば、二人ともこんなふうにはならなかったのではないか、と。私は母が悪いのではないと思う。二人ともいい大人なんだし。
 母はよく結婚式のときの話をする。その日は母にとって、人生で最も幸せな日になるはずだったのに。
父の親類は皆、上品な人々だが、母の方はというと、伯父さん二人を筆頭にとにかく行儀が悪い。披露宴でべろべろに酔っぱらう者が相次ぎ、恥ずかしくて仕方がなかった、と母は言う。父方のお祖母ちゃんに式の後、あなたのご親戚は賑やかな方が多いのね、と嫌味を言われたそうだ。家格の違いをまざまざと感じたという。
 両親が式を挙げたのは、半蔵門にある警察関係者ご用達の式場だ。そうなのだ。父も、そして母も警察官だった。
父は現役だ。警察庁長官官房総務課に勤務している。そこは警察庁の筆頭で、出世コースなのだそうだ。格付けは警視正。あまり興味がないから、両親のそんな話はいつも聞き流している。
 東大法学部卒の父は警察キャリアとして入職。一年半の現場勤務の後、警察大学校での研修を経て、警部に昇進。警察庁内のいくつかの課と大都市圏の警察署を巡り、二十九歳のときに埼玉県警本部交通部に着任した。そこで出会ったのが母だ。当時、お父さんね、焦ってたのよ、と母は言う。警察では、三十代独身というのは実に心証がよくないのだそうだ。
 警察官に採用されると「身上調査」が行われる。当人の犯罪歴などもそうだが、親戚にもそのような者がいないか、調べられるのだ。伯父さんたちは大丈夫だったのだろうかと心配になり、母に尋ねたことがある。あの子たちは悪かったけど、犯罪に手を染めてはいないし、補導をされたこともないから、と言っていた。
 警察官が一般人と結婚するとき、その相手に対しても「身上調査」は行われる。だから警察官同士の結婚は、歓迎される。綺麗な身同士の結婚だから。母は、警察組織はリスクを嫌う、と言っていた。初めてその言葉を聞いたのは、確か中学生になったばかりの頃だったと思う。当時は母が何を言っているのか、よく分からなかった。だが今は分かる。よく分かる。私も大人になったものだ。
 
 着替えて一階に戻ると、母がダイニングテーブルに夕食を並べていた。三人分。父の分はない。父が家で夕食を取るのは稀で、帰りが遅いこともあり、大概は職場で済ませて来る。
「麻衣子、お願い。和秀を呼んできて」
「分かった」と言って、再び二階に駆け上がる。二階には三つの部屋がある。私と弟の和秀がそれぞれ勉強部屋を持ち、残りの一つは父の書斎だ。
 勉強部屋と書斎。
 どちらも正確な表現ではない。私が勉強部屋で勉強をすることはない。私が勉強をするのは専らリビングだ。家事をしている母の様子が、視界の片隅に見える方が何だか集中できる。そして、父の書斎。書斎とは読書や書き物をする場所のことを言うわけだが、父は最近、そのどちらもしない。職場からの書類の持ち出しは禁止されているようだし、読書家でもない。もちろん執筆などをするようなタイプでもない。それでも、あの部屋を我が家では、何故か書斎と呼ぶ。
 弟の部屋のドアを軽くノックする。
「和秀、ご飯だよ」
 返事がない。
「和秀?」
 やっぱり返事がない。
「入るよ」と言って恐る恐るドアを開ける。
 弟は勉強机に噛りつくように、何かをしていた。
「なんだ、いるんじゃん。何してんの? ご飯だよ」
 覗き込むと、算数の問題集が見えた。弟が顔を上げる。切ないような、情けないような顔をしている。
「ご・は・ん」
「終わらないとお父さんに叱られる」
 弟は今にも泣き出しそうだ。私も悲しい気分になってきた。ただでさえ、若菜ちゃんのことで感傷的になっているというのに。
「とりあえず、ご飯食べようよ。終わらなかったら、一緒に謝ってあげるから。ね」
 私はそう言うと、弟の腕を掴み、部屋から連れ出した。
 食事中、しゃべるのは専ら女二人だ。和秀は聞かれたことにしか答えない。昔は天真爛漫な子でうるさいくらいにおしゃべりだった。小学校の中学年になった頃からだろうか、次第に口数が減っていった。少しずつ周囲のことが認知できるようになり、自分が他人と違うということが分かってきて、自信を失くしていったのではないか、というのが母の分析だ。今日も弟は黙々とご飯を食べている。
 
 食事の後、定期演奏会で披露する曲の楽譜をリビングのソファに座って読んでいた。美しい音色を想像する。しかし、頭のなかで鳴っている音が私のトロンボーンから出てくることはない。まだまだだな、と思う。
「リンゴでも剥こうか?」
 食器を洗いながら、そう母は言った。
「うん。食べたい」と私。
 我が家におけるリンゴの消費量は相当なものだ。父を除き、私も母も弟もリンゴが大好物なのだ。小学校の遠足のときには、ウサギの形をしたリンゴが必ずお弁当に入っていた。
 八等分されたリンゴが運ばれてきた。瑞々しい。果実の香りが微かに漂う。最初の一かけらを手掴みで口に放り込む。しかも小さかったから一口で。
「ちょっと、はしたない」
 笑顔で誤魔化す。ああ、幸せだ。
 私はこうして小さな幸せを日々、感じているが、我が家自体の現在は、そんな状態から程遠い。
 さっきのことを母に話すべきか。悩む。
 隠し事はよくない。やっぱり話そう。
「和秀のことなんだけど―――」
 母の顔に苦悩の色が浮かぶ。
「さっき迎えに行ったときね、泣きそうな顔して勉強してた。これが終わらないとお父さんに叱られるって。あれ塾の宿題かな?」
 母はフォークでリンゴを突いているだけで食べようとしない。本当は大好きなのに。分かる気がする。楽しいことと哀しいことは人の気持ちのなかでは同居できないのだから。今、母の心は哀しさが支配している。
「たぶんそうだと思う」
 和秀を塾に入れることで、父と母は大喧嘩をした。
 吉祥寺にある闇塾を探してきたのは父だ。そこは表向き、音楽教室の看板を掲げていて、然るべき人物の推薦状がないと入会できない。父はすでに知り合いの国会議員から推薦状を貰っていた。母は猛反対した。
 警察官が違法なサービスを受けるなんて!
 子どものいる家は皆、通わせてるんだぞ!
 それに和秀は勉強には向かない子なの。私は成績なんか悪くたっていい。学校なんてどこでもいい。あの子らしく生きられればそれでいい!
和秀は男だぞ! 学歴がなくてどうやって生きていくんだ!
 学歴だけで人の価値が決まるわけじゃないでしょ!
 お前は何も分かってない!
 あなたこそ何も分かってない!
 凄まじい応酬だった。決着はつかず、父と母は冷戦状態に入った。あれ以来、我が家はどことなくしっくりいっていない。あれからすでに一年が経っていた。
 
  
(四)疑われし者
 
 
*   *   *
 こうじ @koji_KANOYA
〈グループ・メッセージ〉加賀見が服屋でたっけーTシャツ買ってた。あいつ、貧乏枠だよな、たしか。
 
洋 @Yousuke_THX1138
〈グループ・メッセージ〉昨日の放課後、田崎由夏が財布なくなったって大騒ぎしてた。犯人、加賀見じゃね?
 
荒鷲 @S_ARAKAWA_tarbo2000
〈グループ・メッセージ〉きっとそうだ。間違いない!
 
こうじ @koji_KANOYA
〈グループ・メッセージ〉田崎ってカワイイよなー。つきあいてー。
 *   *   *
  
 春休み後半は怒涛のように過ぎた。
 ホールを借りて行った定期演奏会は大盛況だった。地域の人たち、在校生や部員の家族、OBOGも詰めかけ、千名近く収容できる会場は満員となった。会場を出た後、有志の面々で打ち上げをすることになった。会場近くにちょうどファミレスがあり、十名ほどで大きなテーブルを占領した。誘ったが、若菜ちゃんは来なかった。
 演奏会翌日は放心状態のまま一日、呆けて過ごした。翌日から残り二日間で何も手をつけていなかった春休みの宿題を一気に仕上げた。
 そして、新学期初日。
 新しい学年のクラス分けが発表され、教室へ。私のクラスは三年四組。出席番号順に着席する。簡単なホームルームがあり、始業式のため体育館に移動。ちょっと退屈な校長先生の訓示があり、新任の先生の紹介、表彰式と続いた。二年生男子が壇上に登る。南アフリカ、ヨハネスブルクで行われた情報オリンピックで銀メダルを獲得したのだそうだ。国際情報オリンピックは、世界の高校生が集まって、プログラミングの技術を競う大会だ。
「物心ついた頃には自分専用のパソコンがありました。小学生の頃には、プログラミングが勉強できる塾にも通わせてもらいました。環境を整えてくれた両親に感謝しています」
 壇上に上がった男子生徒はそうスピーチした。凄いと思う。いくら環境が整っていても、典型的な文系人間である私には絶対に真似できない。
新しいクラスには吹奏楽部の子が私の他に三人いた。帰りはその子たちと一緒に駅までの道のりを歩いた。ここに若菜ちゃんがいてくれればいいのに、と思った。
 騒動が起こったのは次の日のことだった。
 その日もいつも通り、始業時刻の五分前に正門をくぐった。私はいつもぎりぎりなのだ。教室に入ると、吹奏楽部の京香ちゃんが声をかけてきた。
「ねえねえ、知ってる? 朝のホームルームで持ち物検査があるんだって。昨日、財布の盗難があったらしいよ。でもさ、盗まれたの昨日なんでしょ。今日、皆の鞄のなか探ったって出てくるわけないよね。ばっかみたい」
 そんな会話をしているうちに担任の小林先生が、美術の女性教師を伴って教室に入ってきた。男性である小林先生が男子生徒の鞄のなかを、女性教師が女子生徒の鞄のなかを、それぞれチェックするということらしい。
「おはよう。いきなりなんだけど、皆の鞄のなか、見せてみもらうな。学年会議で決まっちゃってさあ。わりーわりー。じゃあ始めるぞー」
 小林先生は数学の教師で、昨年度も私のクラス担任だった。妙に明るく、生徒からそこそこ人気がある。だが私は先生に対して、あまりいい印象を持っていない。小林先生の言動に違和感を覚えることがよくあるのだ。それがどのような理由なのかは突き詰めて考えたことがないから、よく分からない。
 私の順番が回って来た。リュックサックのチャックを全開にし、なかを見せる。女性教師がおざなりになかを覗き込む。女性教師は、ありがとう、と言って後ろに移動していった。持ち物検査が今日でよかった。昨日だったら、生理用品が入っていた。相手が女性でもやっぱり恥ずかしい。
小林先生が続けてやって来る。今日も生徒は出席番号順に座っている。出席番号は名前の五十音順で、私の一つ前には加賀見君という男の子が座っている。私は小林先生の疑いに満ちた視線に気づいた。視線の先には加賀見君がいる。小林先生が彼の鞄に手を入れてなかをまさぐる。その時間は他の子より少し長く、念入りだった。
 
 午前中は健康診断。午後から早速、新学年の授業が始まる。最初の科目は化学基礎だった。その次が数学演習。私は文系志望だが、いずれも大学入学共通テストに必要なので、大事な科目だ。私にとっては拷問のような組み合わせ。気が重い。
 授業開始のベルが鳴る。皆が一斉に席に着く。
 あれ? 加賀見君がいない。鞄もない。
そのときには、具合が悪くて、帰ったのかな、くらいにしか思わなかったが、実はそうではなかった。
 午後、最悪の二科目を受け、放課後は部活動に。演奏会後、初めての練習ということもあり、銘々で軽い個人練習をして終わった。
下校。駅までの道のりを昨日と同じ顔触れで歩く。
「ねえ、聞いた? 盗難事件の犯人、加賀見君なんだって。小林先生に問い詰められて泣きながら帰っちゃったらしいよ」と京香ちゃんが言った。京香ちゃんは吹奏楽部で一番の情報通だ。いったいどこから情報を得ているのだろうといつも感心する。
「私、加賀見君と同じ中学だったけど、そんなことする子には思えないんだけどな」と別の子が言う。
 加賀見君とは三年になって初めて同じクラスになった。これまで係わることもなく、彼がどんな人なのか、よく分からない。見た目は少々地味。さすがに彼氏にしたいとは思わないが、真面目そうで悪い印象ではない。他人の物を盗むような人には見えなかった。
 加賀見君はそれから二週間、学校に姿を現さなかった。
 
 
(五)階層
 
 その日は、朝からどんよりとした曇り空だった。迷ったが、コートを着ずに家を出たら、寒かった。
 朝のホームルームが終わって、教室を出て行った小林先生が一限目の始業を知らせるチャイムとともに戻ってきた。どうしたの、先生?、と男子生徒が聞く。
「いつものだよ」と皮肉を込めて言った。
 先生のその一言で一部の男子生徒が、やったー、と気勢を上げる。小林先生は白チョークで黒板に大きく、「自習」と書いた。
 一限目は日本史だった。担当は吉野先生。三十代後半、男性、独身で、ちょっと暗い。そして病弱。ぼそぼそとしゃべる授業の評判はすこぶる悪い。しかも口の減らない生徒たちから、陰で「ハゲ、チビ、クサイ」と言われている。これは酷い。体臭はちょっと頂けないが、髪が薄いのも背が低いのも単なる遺伝で、本人のせいではない。ましてやその人の人間性とは全く関係がない。
 吉野先生には二年生の頃にも授業を担当してもらっていたが、健康上の理由でよく休むのだ。私は歴史が好きだから、先生の授業が休講になるのは残念だ。
「まったく困ったもんだ。じゃあ、静かに勉強しろよ」
 そう言って、小林先生は教室を出て行った。小林先生は吉野先生を見下している。言葉の端々からそれが感じられる。小林先生は健康的で明るい。結婚していて、小さい娘さんがいる。結婚十年目だということだが、まったく所帯じみていない。スポーツも万能で、バレー部の顧問をしている。そういえば、若菜ちゃんも小林先生のことが大好きだった。結婚したーい、と言っていた。若菜ちゃんとは仲良しだったが、男性の好みはまったく合わないようだ。
 ちょっと脱線した。要するに小林先生は吉野先生とは真逆のタイプなのだ。
 健康的で明るくて、結婚できる人が、病弱でちょっと根暗で、結婚できない人を蔑む。悲しい現実だ。
 
「ねえ、このウィンナーあげるから、卵焼き頂戴?」
「いいよ」
 私の返事を待つまでもなく、京香ちゃんの箸が私のお弁当箱に伸びて来た。二切れあった卵焼きの片方が、京香ちゃんの大きく開いた口に運ばれていく。京香ちゃんの幸せそうな表情。
「麻衣子のお母さんが作る卵焼きって、最高!」
 何だか自分が褒められているようでこそばゆくなる。
 昼休みの時間。銘々がグループをつくり、食事を取る。私たちのグループは私を含めた吹奏楽部の四人と、美術部一人、演劇部一人の合計六人だ。他のグループからは文化系と呼ばれている。
 京香は食いしん坊だよね、という美術部の子の一言に皆が大笑い。笑った拍子に口から米粒が一つ飛び出した。手で塞ごうと思ったが、間に合わなかった。きたなーい、と悲鳴が上がる。そして、また大笑い。
 そんなふうに騒がしく食事をしている私たちに、一人の女の子が躊躇いながら近づいてきた。
 高見沢麗。
 女の子のグループは私たちの他に、お洒落系、運動系、ロック系、地味系の四つがある。まだ新学期が始まって僅か一週間だが、すでに強固なグループ分けがなされているのだ。
 五つのグループのうち、ヒエラルキーの頂点に君臨するのが、お洒落系の子たち。私たちは所属している部活動で括られているわけだが、お洒落系の女の子たちは、最新の流行に敏感であることを共通点としている。放課後には、お買い物やカフェでのおしゃべり。お金がないとあのグループにはいられないと言われている。活発で賑やかで、気が強い。しかも揃いも揃って皆、可愛い。
 発言力もある。私たちの学校では毎年五月に球技大会が開催される。新しいクラスの親睦と連帯を深めることを目的に開かれるものだ。種目は、男子がサッカー、女子がバレーボールと決まっていて、三学年合計十八クラスがトーナメント戦で男女それぞれが優勝を競う。二日がかりで行われる大会では、それぞれの組が応援歌を決める。私たちのクラスの応援歌は、五人組の男性アイドルグループが昨年発表して大ヒットした『愛のなかへ』に決まった。男女のピュアな恋愛を唄ったもので、これが球技大会の応援歌になるのだろうかと思ったが、お洒落系女子たちの強い意見であっという間に決まってしまった。この一件で、担任の小林先生は、お洒落系を押さえることがクラス運営に欠かせないと理解したようで、彼女たちに妙に気をつかうようになった。
 高見沢さんは、そんなお洒落系の一員だ。
 立ちすくむ高見沢さんに気づき、六人は無言になる。
「あのー」
 言い難そうに「一緒に食べてもいい?」と高見沢さんが言った。
 六人はすぐに察した。何かの理由で、グループから弾き出されたのね、と。
「いいよ、いいよ。机持ってきなよ」と京香ちゃん。
「ありがとう」と高見沢さんが返す。
 京香ちゃんはムードメーカーなのだ。こういう微妙な雰囲気のとき俄然、その実力を発揮する。
「あのね、今ね、麻衣子がね。米粒、口から飛ばしたの」
 こら! 私をネタにつかうな!
 でも空気は少し和んだ。高見沢さんが笑っている。
 明日の昼休みも彼女は私たちのところにやって来るだろうか。彼女は今どんな気持ちなのだろうか。仲間外れにされた哀しみか。それともヒエラルキーの頂点から転落した屈辱か。
 父の口癖を思い出す。常に上を目指せ。
 なぜ人は上とか下とか、階層をつくろうとするのだろうか。
 
  
(六)真相
 
 今日は日曜日。新学期が始まって二回目の週末だ。部活動があるはずだったが、顧問の川端先生の都合で中止となった。せっかくなので、トロンボーンのマウスピースを買いに、渋谷にある楽器店を訪ねることにした。
 先週、部活の指導に来てくれた先輩にすっかり感化されてしまった。社会人である彼女は今でも地元の市民吹奏楽団でトロンボーンを吹いているという。
「私、マウスピース・コレクターなの。二十本持ってる。自分にあったマウスピースに出会えると、吹きやすくなるし、音色も変わるのね。もっといい物があるんじゃないかと欲張っているうちにどんどん増えちゃった」
 出したい音によって、マウスピースを変えているそうだ。
 楽器はネットで購入するのが当たり前になり、実店舗は都内に数件しか残っていない。これから行こうとしている楽器店は知識のある店員さんがいて、アドバイスを聞きながら楽器選びができるのだ。はっきりと買うものを決めていないので、店員さんの話を聞きたいと思った。予算は二万五千円。貯めていたお年玉で買うということで、母を説得した。
 
 渋谷までは電車で片道二十分の道のりだ。
 楽器店は渋谷駅から歩いて三分。駅がある道玄坂とは国道二四六号線を挟んで反対側にある。店に入ると、目的のコーナーはすぐに見つかった。ショーケースにたくさんのマウスピースが並んでいる。このなかから私に合った一本を見つけるわけだが、どれを選んだらいいのか皆目、見当がつかない。誰か助けて。
「何かお探しですか?」
 途方に暮れる私に男性の店員さんが声をかけてくれた。
 救世主現る?
 長髪をひっつめにしたその容姿から連想できたのは、派手なギターを担ぎ、髪を振り乱してハードロックを演奏する様子だった。でも一応、相談してみよう。
「自分にあったマウスピースを探してるんですけ、どれがいいのか分からなくて」
 吹奏楽ですか?
 普段はどんな曲を演奏していますか?
 いつも使っているのはどこのメーカーですか?
 どんな音色を出したいですか?
 長髪の店員は次々と質問をしながら、お勧めの製品を紹介してくれた。結局、ウィリーズという山梨にあるメーカーの製品を選んだ。澄んでとても綺麗な音がでますよ、と店員は言った。値段は税別二一〇〇〇円。これに消費税十五パーセントが加算されて二四一五〇円となった。ぎりぎり予算内で済んでほっとした。それにしても消費税ってなんでこんなに高いのだろう。働いていない学生にまで払わせるというのはどうかと思う。
店員さんのお陰でいい買い物ができた。気分がいい。そして、一つ学んだ。人は見かけで判断してはいけないと。店員さん、ごめんなさい。
 
 早く音を鳴らしてみたい。逸る気持ちで店を出た。
 お店の隣には大手チェーンのコンビニエンスストアがあった。
 おや? あれはもしかして加賀見君?
 レジ打ちをしている加賀見君がガラス越しに見えた。
彼が途中で帰ってしまった翌々日、席替えがあった。くじで番号を引き、数字の若い順に好きな席を選ぶ。加賀見君はそれに参加をしていないので、最後に残った席があてがわれた。最前列、教卓の真正面だ。あの日以来、そこは空席のままだ。
 迷ったが、声をかけることにした。自分でも説明がつかない、イライラとした感情の火種のようなものがあることに気づいた。
店の自動ドアが開く。加賀見君がこちらをちらっと見て、いらっしゃいませ、と言う。私だと気づいていないようだ。店の奥では女性の店員さんが品出しをしている。レジの前まで一直線に進む。
「加賀見君!」
 はっとした表情。鳩が豆鉄砲を食ったような、という表現があるが、彼の表情は正しくそれだった。
「勝山さん」
 幸いお客さんは他にいない。思い切って聞く。
「学校、もう来ないの?」
 加賀見君が一瞬、たじろいだ。たぶん私は相当に怖い顔をしていたのだと思う。今の私のイライラはあたなに向かっているのではない。そう思ったが、うまく説明ができないので、発するのは止めた。
「あと十分で仕事終わるから、待てる?」
「うん。じゃあ時間潰している」
 そう言って、雑誌のコーナーに移動した。適当なものを手に取って、パラパラとページをめくる。内容は何も頭に入ってこない。何で私は加賀見君に声をかけたのだろう? 別に仲がいいわけでもないのに。
 加賀見君は言葉通り、十分ほどで仕事を終えた。
「お待たせ。行こう」
 さっき品出しをしていた店員さんがこちらを見ている。二十歳くらいの綺麗なお姉さんだ。加賀見君の彼女かしら、なんて思われてないだろうか。そんなことを考えたら、何だか恥ずかしくなってしまった。
 国道にかかる横断歩道を二人、無言で登る。
「ごめん。迷惑じゃなかった?」
「全然、平気」と加賀見君が答える。
「コンビニでバイトしてたんだね」
「うん。一年生の頃から。昨日、オーナーに店長やらないかって誘われた」
「え? もしかして学校、辞めちゃうの?」
 横断歩道の上で私は立ち止まった。歩みを止めた私に気づき、加賀見君も立ち止まる。
 下は国道二四六。先を急ぐ車が激しく行き交う。
「辞めないよ。明日から学校、行くことにした」だから店長の話も断るつもりだと言う。
 何だか吹っ切れた顔をしていた。
 加賀見君は歩道橋の欄干に両腕を置き、静かに語り始めた。
「あの持ち物検査があった日の昼休み、僕は小林先生に呼び出された。進路相談室で二人きり。お前が盗んだんだろって言われた。もちろん僕はやっていない。でも、先生は信じてくれなかった。盗んだ金で買い物をしているところを見た者がいるとも言われた。まるで覚えがない。警察の取り調べみたいだったよ。悔しくて、悔しくて、涙が出た。その五日後、小林先生が謝罪に家まで来た。田崎さんが財布を盗まれたというのは本人の勘違いだったことを伝えに。財布は家にあったらしい。学校に持って出るのを忘れただけだったんだ。小林先生は悪かったなって言った。その言い方は不愉快なほど軽かった。ニヤニヤ笑ってた。あんなのは謝罪じゃない。嫌疑が晴れたからって、学校に行く気にはなれなかった」
 小さな火種が次第に大きな炎に変わっていく。それは理不尽な現実への怒りだ。
 学校では未だにその盗難事件の犯人は加賀見君だと噂されている。先生の耳にもそれは届いているはずだ。それでも先生は、加賀見君の嫌疑を晴らそうとしない。
 田崎さんがお洒落系だから?
 彼女をかばおうとしているの?
 加賀見君の気持ちを踏みにじっても何とも思わないの?
 社会はいつも弱い者が蔑まれ、傷つけられるようにできている。
「ところで勝山さんは、司法ソーシャルワークって知ってる?」
「???」何それ?
 きょとんとして目を丸くしていると、加賀見君はにっこり笑って話を続けた。
「高齢者や障害者の人たちは自力で司法にアクセスできないことが多い。だから、福祉と司法が連携することが必要なんだよね。僕は将来、弁護士になって、そうした人たちを助けたい思ってる。そのために懸命に勉強してきた。今回のことがあって、改めて自分の目標を再確認したよ。くだらない大人に負けてる場合じゃないんだよね」
 僕はもう逃げない、と加賀見君は力強く言った。
 
 加賀見鏡君は途中の乗り換え駅で電車を降りて行った。
 じゃあ、とさわやかな笑顔でとともに。
 一人になっても思考は止まらなかった。何かに頭のなかをグルグルとかき回されているようだ。
 あの教師は、常に人を上と下に選別している。強い者と弱い者。持つ者と持たざる者。そして、自分は上の階層にいると信じ、上から目線で物を言う。上の階層にいる者は下の階層にいる者を傷つけてもいい。蔑んでもいい。踏みにじってもいい。そんな傲慢さを感じる。彼に感じる違和感の根源は、嫌悪だったのかもしれない。
 そして、私はまったく同じ感情を父に対しても感じていることに気づいた。
 
  
(七)暴走
 
 我が家には圧倒的な弱者がいる。弟の和秀だ。
 彼が心療内科を受診したのは小学校三年生のときのことだ。それまでは天真爛漫で、元気いっぱいの子だったが、次第にふさぎ込むことが増えた。心配をした母が本人に尋ねると、友だちと先生の言っていることが分からない、と告白した。医師から下されたのはADHD(注意欠如・多動症)との診断だった。ADHDとは、発達障害の一種で、過活動や衝動性、不注意などを症状とする行動障害だ。加えて知的障害の傾向もあるかもしれず、児童相談所で判定を受けることを勧められた。児童福祉法の定めにより、知的障害の認定は児童相談所が行うことになっているのだ。母は弟を新宿にある児童相談所に連れていった。結果はIQ七十九。知的障害と健常の狭間、知的ボーダーとされた。それは非常に厄介な判定だった。障害者ではないので、社会的養護の対象とはならず、かといって健常な児童と同じことはできない。どこにも居場所をつくれない存在だ。
 以前から母は、兆候を感じ取っていた。
 和秀が小学二年生のときのことだ。弟は、テレビで野球中継を観るのが好きだった。ホームランが出たりすると大興奮だ。そんな姿を見た母が弟に聞いた。野球やってみたい? 弟は目を輝かせて、うん、と答えた。そして地域の少年野球のチームに加入した。しかし、弟は大好きな野球を楽しむことはできなかった。ルールを覚えることができなかったからだ。ある日、弟を迎えに行った母にチームの監督は言った。
 和秀君、打つと三塁に向かって走ることがあります。
 母はすぐに野球を止めさせた。
 他にもある。忘れ物が多く、持って出た物をどこかに置いてくるとか。学校の終業式で、校長先生が話をしている最中に突然、席を立ち、会場を出て行ってしまうとか。
 それでも母が悲観に暮れるということはなかった。これも和樹の個性、と母は言い切った。
 一方の父は、母と全く逆の反応を示した。父は、息子の障害を受け入れることができなかった。
 俺の子どもが障害者であるはずはない。
 ちゃんと教育すれば優秀な子に育つはずだ。
 学校の先生からは、障害児童に対する教育を専門に行う特別支援学校への転校を勧められたが、父は頑としてそれを拒んだ。和秀は、普通学級で学び続けた。勉強にはついていけず、友だちとの関係もうまくいかず、彼は学校での居場所を次第に失っていった。
 それはどんなに辛いことだったことだろう。私はと言うと、学校はときどき面倒なことや嫌なことがあっても、基本的には楽しい場所だし、勉強はときに苦手科目のせいで憂鬱になることがあっても、基本的には有意義な活動だ。和樹にとっては、学校も勉強も人生を豊かにしてくれるものにはならなかった。痛ましい。
 父は、和秀が五年生になると、中学受験をさせると言って、塾にまで入れてしまった。
 父の行動はこのころから常軌を逸していた。父は弟に言った。東大以外は大学だと思うな、と。じゃあ、私大を狙っている私は何なのだろうと思う。
 俺に続け!
 勝負には絶対に負けるな!
 常に上に立て!
 父は一週間ごとに学習プランを立てるようになった。塾の宿題以外にもたくさんの参考書や問題集を用意した。しかし、弟が予定通り、計画を終えることはなかった。
 何故できない!
 言い訳をするな!
 終わるまで寝るな!
 激しい叱責が続く。終わらない課題は翌週の計画に上乗せされるため、毎週の学習プランは膨大なものになり、現実性を失っていく。それでも父は、できない息子を責め続けた。
 父と母は、和樹のことでたびたび口論となった。できないことを強いるより、できること、得意なことを伸ばしてあげましょうよ。母は、和樹を絵画教室に通わせたい、と言った。
 和秀は絵がうまかった。色彩豊かな独特の色使いには彼が本来持っている明るさ、おおらかさが表れていた。彼の微笑ましいタッチは人の気持ちをほっこりさせるのだ。
 そんなままごとみたいなことを、と父は反論する。
 学歴がなければ人生の成功はない、とも。
 父と母の議論はいつも平行線で、決して交わることはなかった。
 
「ねえ。これ見て」
 母が一枚の絵を持って来た。時刻は夜十時半を少し回ったところ。明日の英語の授業の予習が終わり、そろそろ部屋に引き上げようかと思っていたところだった。
 リビングのソファに二人並んで腰かけ、その絵に見入る。
「写生大会の絵なの」と母が言う。
 たぶん近所の公園だろう。大きな池とそれを取り巻く緑が描かれている。
それにしても、これは……
「この日はたしかいい天気だったはずなんだけどね」
「これ、和秀が描いたの?」
 母が無言で首を縦に振る。
 全体がどんよりとしている。空はほとんど灰色だ。墨色の雲が渦を巻いている。樹々の緑に生気が感じられない。これまで彼が描いてきた絵とはまるで別物だ。
「今年、入選は?」
 毎年の写生大会で、和秀は入選の常連なのだ。今度は無言で首を横に振る。
「この絵じゃね……。これ、病人の絵だね」
 しばらくの間、二人は無言のまま、絵を眺めていた。沈黙を破るように、二階の部屋のドアが開く音が鳴った。バタバタと階段を降りる足音。父だ。弟の部屋から出てきたのだ。今日もあの部屋でどのようなやり取りがなされたのだろうか。
 父は私たちの顔を見ると言った。
「一時間後に様子を見に行く」と言いながら、ドカッとソファに腰を下ろした。
 まだやらせる気なの! なんだか無性に腹が立ってきた。
「お父さん!」
 絵を乱暴に掴んで、父親の前に歩み出る。
「これ、和秀の絵! なんか感じない?」
「この絵がどうしたって?」
「SOS! 和秀の! お父さんは人の苦しみや悲しみが分からないの?」
 僅かな沈黙。父の顔が次第に赤みを帯びていく。
「うるさい! 子どもが偉そうに親のすることに口を出すな!」
 そう言うと父は立ち上がり、再び二階に上がって行った。名前だけの書斎で時間が来るのを待つつもりだ。
 何が親よ。何が教師よ。何が大人よ。
 立場の弱い者は立場の強い者に意見をしてはいけないの?
 悪いものを悪いと言ってはいけないの?
 理不尽に耐えなければいけないの?
 立ち尽くしている私の耳に微かな物音が聞こえてきた。
 ゴト、ゴト。
 フローリングの床に何かを打ちつけているようだ。
 母と目を合わせる。
「何かしらね?」と母。
「和秀の部屋だね」と私。
 ゴト、ゴト。物音は止まない。
「見てくる」と言って、二階に駆け上がる。母も心配なのか、ついてきた。
「和樹、入るよ」と言いながら、勢いよくドアを開けた。
 なにこれ?
 そこには信じられない光景があった。
 後ろにいた母が私を突き飛ばすように、我が子に駆け寄る。
 和樹は、ビニール紐で椅子に手足を縛られていた。学習机の上には専用のスタンドに立てかけられたタブレットが置いてある。表示されているのは、全国の県庁所在地の一覧だった。父はこれを一時間で覚えさせようとしていたのだ。集中力が続かず、目を離すと寝てしまう弟を椅子に縛りつけて。
失禁で床が濡れている。床を叩くような音は、我慢ができず、拘束から逃れようともがいていたせいだろう。
「和秀、ごめんね。ごめんね、和秀」
 なんでお母さんが謝るのよ。お母さんは何も悪くないでしょ!
 母は、紐をほどこうとした。弟に何度も、何度も謝りながら。しかし固く結ばれたビニール紐は容易に解くことができなかった。
 父の行動はすでに一線を越えていた。
 私はどうしていいか分からず、哀しい親子の姿をただただ見ていることしかできなかった。
 
  
*   *   *
 くろさわゆき @Yuki_Kurosawa_PWER
被害者の男性って、警察庁のキャリアだってね。
 
和栗 @Waguri_Waguri_Waguri
被害者の男性も息子を闇塾に通わせていたらしい。
 
TAKEWAKI @TAKEWAKI_GoGo23
警察官が法律違反かよ。世も末だ(涙)
 
月曜仮面 @03.04_Monday
犯人の相神が、悪徳警官を成敗したってことね。ヒーローじゃん。
 
ゆきんこ @Yukiko_Akimoto
偉くなっても悪いことする人たちはいる。いやもしかしたら、偉くなったから悪いことをするのかも。人の業ってあさましい。
 *   *   *

(第四章 巡査長 音無由紀夫…2035年6月【事件のあと】に続く)


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