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『声』エピローグ…2036年6月【事件の一年後】

◆あらすじ

 事件から一年、音無は相神の余罪について調べる。音無の自宅には新たな命を宿した妻がいた。

◆本文


 結局、取り調べ最終日に聞いた相神の告白を調書にはしなかった。奥田には、大した証言は得られませんでした、と報告した。奥田は、そうか、と言っただけで何も尋ねなかった。柿谷からは、これでよかったんですか、と聞かれたが、そんなことは俺に分かるはずがない。
 取り調べが終わり、相神が部屋を出るとき、俺は奴に言った。カミさんに電話するよ、と。詳しい事情など分かるはずもないくせに、あいつはすべてを悟ったような顔で、頑張れよ、と言った。
 一緒に部屋を出て、看守に連れていかれる相神の後ろ姿に見入った。例の鼻歌が聞こえる。少しずつ遠ざかっていく足音。薄れていく美しい歌声を聞きながら、奴の背中を見送った。
 その翌日、重体だった被害者、浅倉正美と勝山修の二名が相次いで意識を取り戻した。
 本当に相神には殺意があったのだろうか。

 相神の供述で気になることがあり、仕事の合間に少しずつ調べを進めた。
 高校時代の男性に対するものと派遣社員時代の同僚に対するもの、二つの傷害については、いずれも被害届は提出されていなかった。派遣社員時代の事案では被害者の特定ができた。当時、同じ会社に正社員として勤めていた澤田厚多朗という人物だった。なんと澤田は服役中だった。罪状は、詐欺罪。結婚詐欺だ。被害女性は全部で八名。うち一名は被害に遭った後、自殺している。悪質な犯行ということで、この類の犯罪としては最長の十年の懲役刑となった。澤田の犯行が明らかになったのは相神との一件があった直後だった。
 捜査を担当した刑事に話を聞くことができた。
「あの顔じゃ、もう結婚詐欺なんてできないだろうよ」
 老刑事は言った。捕まったときの澤田の顔は、正視できないほど酷いものだったそうだ。顎の骨は砕かれ、顔じゅう傷だらけ。二枚目だった頃の顔には戻らないだろうと医者は言ったとか。
 目の前に相神がいたら聞いてみたい。
 お前、あのときも声を聞いたのか、と。
 
 事件が形だけの解決を見た翌々月、城田尊に逮捕状が出た。罪状は、学校外教育禁止法違反。九年間にわたり、四百名近い児童の親から、総額六憶円を巻き上げていた。犯行の期間が長期に及ぶこと、被害総額がこれまでの最高額であることを鑑み、検察は最も重い三年の実刑判決を求める方針だ。
 俺は城田の件には関わらなかったが、勾留中に一度だけ顔を拝みにいった。留置場のなかの城田は俺のことを覚えていた。俺を見た城田は、音無さんでしたね、お久しぶりです、と殊勝な面持ちで頭を下げた。
 俺が城田を訪ねた翌週に、母親が亡くなったらしい。
「神奈川県の三浦海岸にある高齢者施設にいましてね。足腰が悪くて、最後は多少、呆けてもいました。車椅子ごと、階段から落ちまして、頭を強く打って、そのまま逝ってしまいました。死ぬ前に一度だけ意識が戻ったんです。叱られました。まじめに生きなさい、と。突然、かっと目を見開いて、それだけ言うと再び目を閉じました。それっきりです。こちらの署に女性からの密告電話があったそうですが、それ、母からです」
 そこまでしゃべると、がっくりと肩を落とした。
 城田の母親の旧姓もまた相神だ。
 母親がどのような能力を備えていたのか、俺には分からない。しかし、こいつの身体にもあの一族の血が流れている。
 俺は城田に言ってやった。
「調書、読んだよ。あんた幻覚が見えるそうだね。その力、大切にしなよ」と。
 奴はきょとんとしていた。
 
 相も変わらず俺は、馬鹿面を下げた若造とペアを組んで、日々、事件の犯人を追いかけている。人殺し、誘拐、ひき逃げ、性犯罪に放火。どれもこれも薄汚い事件ばかりだ。
 その若造はというと、変わらず能天気で、結婚したい願望マックスなんですよ、という台詞を毎日のように繰り返している。あまりにもしつこいので、最近は少々面倒になり、真剣に取り合わないようにしている。口調は軽薄だが、どうやら当の本人は大真面目のようで、婚活サイトに登録したという。何人かの女の子に会ったそうだ。刑事だって言うと、振られるんです、と肩を落とす。ご愁傷様。
「俺がこんなに結婚したいって思うようになったのは、音無さんのせいですからね」と柿谷に言われた。
「幸せなんでしょ。最近、顔が何だか優しいんですもん」
 相神の取調べを終えたその後、奴に宣言した通り、俺は妻に電話をした
 もう逃げないから、と詫びた。
 その一週間後、妻は帰ってきた。
 捜査で忙しい日々は続いたが、妻との時間をできるだけ取るように心がけた。帰宅できない日には必ず、電話をした。妻との間にあったわだかまりは少しずつ解けていった。
 リビングのソファに妻が横になっている。気持ちよさそうな寝顔だ。妻のお腹には、新しい命が宿っている。妊婦は眠いのよ、と彼女は言う。本当だろうか。
 先日、夫婦で産科を尋ねた。たぶん、男の子だね、と医師は言った。先日、子どもの名前について、平和的でささやかな論争があった。俺が下の名前から一字を取りたいと主張したところ、いやよ、もし離婚したら、どうするのよ、と妻が反論した。別れた旦那の名前の一部が入ってるなんて最悪でしょ、と。俺はちょっとだけ不貞腐れてみせた。
 出生前検査の結果が届いた。妊婦の血液で胎児の遺伝子検査が可能なのだそうだ。これによって染色体異常の可能性が指摘された場合、夫婦は生むか、生まないかの重たい決断を迫られることになる。幸い、お腹の我が子は陰性と診断された。検査結果を待っている間、俺は妻に尋ねた。
「異常が見つかったらどうする?」
 妻は生むに決まってるでしょ、ときっぱりと言い切った。どんな状況で生まれてきても、その子には未来がある、と言った。確かに。弱者にも生きる価値がある。
 先日、沐浴の仕方という動画を妻に見せられた。あなたにも手伝ってもらうんだから、ちゃんと手順を覚えておいてね、と言われた。動画のなかの子どもは生後二週間の、それはそれは小さな赤ん坊だった。お湯に入れられると気持ちよさそうな表情を見せた。ぎこちなく動く小さな手足にはしっかりと爪がついている。こんなに弱々しくても人なのだと実感した。
 麗らかな秋晴れの午後だ。
 西側の窓から秋の心地よい日差しが差し込む。
 点けっぱなしのテレビからは相変わらず、暗いニュースが流れている。 
 ―――神奈川県愛甲郡愛川町にある宮ケ瀬ダム近くの県道で本日早朝、軽乗用車から身元不明の男女一名と男児一名、計三名の遺体が見つかりました。車内からは練炭が見つかっており、警察は一家心中の可能性が高いと見て、調べを進めています。
 リモコンを手に取り、テレビを切った。再び妻の寝顔に視線を戻す。
 外の世界の喧騒と比べ、我が家は至って静かだった。【完】

【参考文献】
『幻覚の脳科学』(オリヴァー・サックス著)
『警察組織パーフェクトブック』(別冊宝島編集部)


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