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これを恋と呼ぶのだろう⑤

 私はいつものように自分の席に着いたまま、母が作ってくれたお弁当をゆっくりと広げた。薄いガラス細工を触っているのかと自分でも勘違いするくらい、一つ一つの動作を丁寧に行った。一つの動作を終える度に深い溜め息をつき、また一つの動作を終えては深い溜め息をつくということを繰り返した。すべての動作が完了し、いつでもお弁当を食べられる状態ができあがった。だが、食べるのをどうしても躊躇してしまう。私がこうしているのも、まだ《あの子》に未練があるからなのだろう。期待しないと決めたはずなのに、「お昼を一緒に食べよう」と声を掛けてくれるかもしれないと心のどこかで待っていた。そんな自分に対して、どこまで愚かな人間なのだろうと嫌気が差した。

 それでも私は、《あの子》の存在を無視することはできなかった。友達なんて作らないと決めていたはずなのに、《あの子》と仲良くなりたがっている自分が心の中で急激に成長し始めた。私は、そんな自分も無視することはできなくなっていた。それほどまでに気になるのであれば、話しかけに行けばいいとも思うが、それが簡単にできれば苦労なんてしないだろう。残念なことに、私は極度の人見知りだ。自分から話しかけに行く勇気もコミュニケーション能力も持ち合わせていない。ただひたすら、モヤモヤしながら待っているしかないのだ。

 だが、蓋を開けてしまったお弁当を目の前にして、何もせずに待っているのは極めて不自然なことだろう。もし《あの子》に見られてしまったら、私が《あの子》を待っていることがばれてしまうかもしれない。それだけはどうしても避けたかった。あくまでも、「お弁当を食べようとしたが、他のことに気を取られて、一時的に食べるのを忘れている私」を装わなければならなかった。そこで私は、最後の悪あがきとして、持ってきた水筒を取り出して、ちびちびと飲み始めた。ごはんの前に飲み物を飲むという行為は、特段おかしな行為ではないはずだ。とりあえずはこれで時間を稼げばいい。

 お弁当の蓋を開けて5分が経ったが、お腹がたぽたぽになってきた。完全に水分の摂り過ぎだ。傍から見ればたった5分と短い時間であるが、私にとっては修学旅行前の夜のように長く感じた。これだけ待っても、《あの子》は私のところへ来なかった。友達ができるかもしれないと期待して、浮かれていた自分が情けなくて仕方なかった。今頃、《あの子》は友達と一緒に楽しくごはんを食べているのだろう。怖くて彼女を探すことはできないが、きっとそうに違いない。もしかすると、私の様子を見て嘲笑っているかもしれない。そう思うと、今までの自分が恥ずかしくて、前を向くことすらできなかった。期待した私が馬鹿だった。もう二度と期待しない。期待したっていいことなんて何もない。

 今まで、なんて無駄な時間を過ごしてしまったのだろうか。5分もあれば英単語の10個くらい覚えることができただろうに。私は俯きながら、空気に触れて表面が少し乾いてしまったお弁当に箸を伸ばした。本当にこれでもう、おしまいだ。今まで抱いた希望をすべて断ち切るかのごとく、おかずとして入っていた鮭に箸を入れた。そしてそれを口に運び、顎が疲れるくらいよく噛みしめた。自分が感じた絶望や羞恥心を一つ一つ打ち消すように。

 中途半端に相手の存在を知ってしまうと、身動きが取れなくなってしまう。「知り合い」ほど邪魔なものはない。「友達」になれないのならば、何も知りたくなかった。いっそのこと、声なんて掛けてくれなければよかったのに。なぜ《あの子》は深く関わる気もないのに、私に話しかけてきたのだろうか。

 ――この予備校で友達を作ってください。

 そうだ、すべては担任のあの一言から始まったのだ。《あの子》はただ単に、担任の言うことに踊らされていただけなのかもしれない。興味本位で声を掛けてみたものの、思ったよりも私がとっつきにくかったものだから、もう関わるのをやめようと思い、私に近づかないようにしているのかもしれない。言ってみれば、《あの子》も被害者なのだろう。だが、それがわかったところで一体何になるというのか。私はも《あの子》も、これから1年もの間、お互いに微妙な距離を保ったまま、気まずい予備校生活を送らなければならなくなってしまったのだ。担任はこれについて、どう責任を取ってくれるのだろう。やり場のない怒りを心に抱えながら、乱暴に白米を口に放り込んだ。

 本当はわかっていた、友達ができなくてみじめな思いをしているのを人のせいにするのは間違っているということを。だが、そうでもしなければ、きっとこのみじめな気持ちに押し潰されてしまうだろう。もう、すべてなかったことにしよう。「何もなかった」「私は一人でいるのが好きなんだ」と心の中で何度も呟き、口の中の白米と一緒に自分の気持ちも飲み込んだ。

 ――岩岡さん!

 私の名前が呼ばれたような気がして、声がした方に顔を向けた。

 「岩岡さん!」

 「ん!?」

 「岩岡さん、まだお昼食べ終わってないよね・・・?よかったら私たちと一緒に食べない?」

 「あ、うん・・・ぜひ・・・」

 想定外の事態に、今何が起こっているのか、私はよく理解できなかった。昼休みが始まってもう15分も経過しようとしているのに、彼女はまだ食事をとっていなかったというのか。私は何とタイミングの悪い人間なのだろうか。このタイミングで誘ってくれるとわかっていたなら、トイレにでも行って少し時間を潰してから自分の席に戻り、お弁当には手を付けずにお茶でも飲みながら彼女を待っていたのに、お弁当はもう半分ほどしか残っていない。食べかけのお弁当を持っていくのは、風呂敷で顔を全部覆いたくなるほど恥ずかしかった。だがそれ以上に、声を掛けてもらえたことが嬉しかった。

 でも、待てよ―――彼女は「私たち」と言った。彼女にはすでに友達がいるのだろうとは思っていたが、その友達とは一体どんな人なのだろうか。何人いるのだろうか。そう思うと、急に怖くなった。

―続く―

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