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有名人の訃報に動悸が止まらない

 先日、ミュージシャンの内田裕也さんが亡くなった。内田裕也さんに対して、これといって思い入れがあるわけではないが、訃報を聞いた途端、胸の奥がざわざわして、しばらく動悸が止まらなかった。

 私は、あと数ヶ月で27歳になろうとしている。いわゆる「アラサー」というやつだ。30代が近づいて来ると、人の死が「遥か遠くにあるもの」ではなくなってくるように感じる。

 子どもの頃にも、今と同じように、テレビで有名人の訃報を聞いた。その度に、「誰なんだ?この人は」と思っていた。顔も名前も知らなければ、その人がどんな人物であったのかも知らない。その当時の私にとって、彼らは「遥か遠い世界に住んでいる、ただの知らない他人」でしかなかった。その人物が生きようが死のうが、私には全く関係のないことだった。

 だが、年齢を重ねていくうちに、「名前を聞いたことのある人物が亡くなった」、「見たことのある人物が亡くなった」というように、だんだん変化していった。そして今では、「自分のよく知る人物が亡くなった」という状況が増えてきた。いつの間にか、私にとって訃報のニュースは、「ただの知らない他人の、どうでもいいニュース」から「よく知る人物の、胸を痛めるニュース」へと変わっていた。

 ただ知っているか知らないかで、こんなにも見える世界が違うなんて、人の心とは実におもしろいものだ。よく知っているというだけで、特段その人物に思い入れがあるわけでもない。その人物が好きなわけでもないし、むしろ少し嫌な印象を持っているときだってある。だが、そんな人物であっても、訃報を聞くと、どうしても心がざわついてしまう。

 生前元気な姿を知っていると、「○○さんが亡くなりました」というニュースを聞いたときに、体の中心に大きな鉛玉を食らったような気分になり、しばらくの間、何も考えられなくなって動けなくなる。「あんなに元気だったのに、死んでしまったなんて信じられない」という衝撃と戸惑いで、心が急降下を始め、俯かずにはいられない。

 人の命とは儚いものだ。つい数日前まで元気な姿を見せていてくれた人が、急にいなくなってしまう。「もしこれが自分の大切な人だったら……」と考えると、気が狂ってしまいそうだ。そして、何日も何十日も、ひょっとしたら何百日も何十年も、悲しみに暮れるのだろうだろうなと思うと嫌になる。

 私は有名人の訃報を、どこかで自分の身近な人のことに置き換えているのかもしれない。有名人の訃報を利用して、イメージトレーニングをしているのだ。いつ、そのときを迎えてもいいように――。だが、何度練習しても、慣れることはない。やはり、生きている人間からすると、人の死とは何度遭遇してもつらいものだ。「死が怖い」という意味ではなく、人との別れがつらいのだ。

 その別れがいつどんなタイミングでやって来るかは、誰にも知る術はない。だからこそ悔いの残らないように、一瞬一瞬、大切な人との時間を大切にして生きたい。

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