自己肯定感高い人を見た時の私

「応援してくれる人が増えたことがとても嬉しいですね」

あるアスリートが言ってた。
どうしてそんなこと言えるんだろう?
応援してくれる人が増えれば増えるほど、
重圧を感じて投げ出したくなるのに。

きっとこの人は小さい時から親(片親でも血が繋がってなくても)に愛され、自分を応援してくれる人の力を全て自分の力に昇華出来る様に育てられたんだろう。

でなければ、アスリートになるほど努力なんて出来ない。アスリートになる前に、重圧に耐えられず潰れる。

自分が弱いだけかも。
もしかしたら、やりたいという気持ちがただ弱かっただけかもしれない。

自己肯定感が高い人を見ると、自分をどんどん卑下してしまう。
今までの人生に自信が持てないから。
「そんなの自分のせいだろ」と言われたらそれまで。
そう、まあ、自分のせい。
だから困ってる。

いつからこんなに自信がなかったんだろう?
学生のときはここまでじゃなかったような気がするけど、よく考えてみると自信はなかった。
友達はいるのに、いつも孤独と戦っていたような気がする。

小学生の頃はどうだろう?
その頃にもすでに自信がなかった気がする。自分の行動は必ずと言っていいほど「変わってるね」「そんなことしてる人だれもいないよ」と言われていた気がする。
それって悪いことじゃないんだよ、と今の私なら言ってあげられるけど、昔の自分はそんなこと思えなかった。
みんな私の行動を批判的に捉えていると思っていた。
言い方があるもん、「変わってるね!(ニコ)」じゃないもん、「変わってるね・・・(ヤバい目)」って感じだったもん。
だから幼き日の私は、毎日毎日、自分の行動に自信がなかったな。

幼稚園の頃はどうだろう?
幼稚園の頃はそこまで自信がなかったわけじゃない。
いつもお世話を働いていた気がする。

私のターニングポイントは学校生活が始まってからだった。
自分は何もできないと思ってた。自分がやりたいことをやると、変な目で見られるから。
学校生活が始まったちょうどその頃、家庭や親族の大揉め期に入る背景もあるけれど。大揉め期は数年で収まるが、冷戦状態が20年以上続いている。それもあって自信ないんだろうな、とも思う。両親はそちらの戦争で忙しく、私は戦争のサンドバックになるだけだった。皆の仲を取り持とうと、サンドバック役も受け入れ、仲裁に走った。それだけが私の役割だったような気がする。結局は努力虚しく、家族関係は今も酷いまま。

いいなぁ、自己肯定感高い人。
学校生活でも家庭でも肯定感壊れず生きてこれたんだなぁ。
羨ましい。

それでも、よく考えれば自己肯定感低い私もそこまで嫌いじゃない。
(無理やりとも見えるが)毎日SNSで「今日も笑顔で〜☆」とか言ってる人よりはずっと人間っぽいと思う。
人生って、笑ったり悲しんだり怒ったりするもんなんじゃない?と思ってるので、「向上心・命」「笑顔・命」みたいな人よりは人生楽しんでる気がする。
確かに笑顔でいられたら良いだろうけど、そんなんじゃ悲しい歌を聴いても、怒りに満ちた映画を見ても、何も感じられなくなっちゃうんじゃないかと思う。
でも毎日笑顔でいる人って、確かに魅力的だよな〜。強そうというか、頼れるというか、かっこいいなと思う。

余談だが、自己肯定感高い人を「お花畑出身」、私のような酷い自己否定感の人を「修羅出身」と言っており、自分では笑える冗談として持っている。他人に言うと確実に引かれるので、脳内で「この人お花畑だろうな、あの人は修羅か?」という感じで面白可笑しく考える。

自己肯定感高い人を見ると、
羨ましいなと思うけれど、
自分の人生もなかなか悪くないような気がしてくる。

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